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春日一番は何がどん底なのか『龍が如く7 光と闇の行方』

『龍が如く7 光と闇の行方』は2020年1月16日にセガから発売された。

このシリーズで前作まで一貫して主人公を務めた『桐生一馬』から新主人公『春日一番』へ主役交代がなされ、ゲーム自体もアクション戦闘からコマンド戦闘へと変貌を遂げた。

長く続いた人気シリーズの刷新・生まれ変わりが標榜されるとき、それまでのプレイヤーからは期待以上に不安の声が多くあがる。
このゲームは2018年の発表から2020年の発売にかけて、そういった不安の声が特に聞かれたゲームだ。
春日一番はその誕生の当初からゲームのシナリオのみならず、シリーズファンからの評価も「どん底」とは言い過ぎかもしれないが、少なくとも芳しいものではなかった。

『新・龍が如く』として初めて発表されたムービーには、モジャモジャ頭にニヤけた表情、白いシャツに真っ赤なスーツという居でたちの春日一番が映し出される。
静かで、近寄りがたい神聖さを感じさせる桐生一馬とは正反対の挑戦的なビジュアルに、インターネット上では不安の声もみられた。

そして『7』が正式に発表される前、スマートフォン向けゲームとして『龍が如くONLINE』がリリースされ、その主人公に春日一番は据えられる。
結果的に『7』とは別々のシナリオとなった『ONLINE』だが、プロローグの段階はほぼ同じものであり、どちらも同じ物語が展開されるのでないかと理解する人がいても不思議ではない。

そして2019年4月、メーカー側から手の込んだエイプリルフールのネタとして、ロールプレイングゲームのコマンド戦闘風になった龍が如くの映像が公開される。
この映像自体はその馬鹿馬鹿しさから悪くない評価を得るが、のちに本当にシステムとしてコマンド戦闘が実装され、ドラゴンクエストをフィーチャーしたRPG作品になると発表された時には大きな驚きと戸惑いを巻き起こす。

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ドット絵で表現された春日一番。
若干ファイナルファンタジーのようにもみえる。

製作側がどこまでそういったことを折り込み済みだったかはわからないが、春日と『7』をとりまく状況はリリース前から「どん底」に演出されており、それはシナリオ上の春日とも、新たに生まれ変わる『龍が如く』シリーズとも重なる。

ゲーム上における春日はソープランドで誕生し、そこで育つが、ある時自らの過ちが招いた危機を極道である『荒川真澄』によりその身を助けられる。
以来彼は荒川を慕い、極道としての道を歩み始めた。
青年となった春日は、他者が犯した殺人の身代わりとして自首することで組の窮地を救い、刑務所に服役することになる。
そして18年の刑期を終え出所した彼に向かって、信頼していた荒川から銃弾が放たれる。
春日は重傷を負い意識を失ってしまうが、その後なぜか遠く離れた『横浜・伊勢崎異人町』で目を覚ます。
すべてを失った春日は仲間たちと共にどん底の状態から再び立ち上がる。

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幾つかの差はあれど、この導入は初代『龍が如く』の桐生一馬とほとんど同じだ。
明らかに意識したものだったとしても、発売前から焼き直しではないか?と思われる声もあっただろう。
だが春日のとる行動や手法、行動原理は桐生とはまるで異なっており、彼が桐生の後継であるとか、後釜のポジションや役割を演じているわけではないことをプレイヤーは目の当たりにする。
桐生ならば腕っぷしで解決するようなどこかでみたような場面も、春日は弁や知恵によって切り抜けていく。
その後も類型する物事や人物、施設などが登場するが、春日がとる一挙手一投足はシリーズを遊んできた者であるほど新鮮に映るところが多い。

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ここで気づかされたのが、このシリーズが初代から『6』まで長大化するにつれてシナリオ上で顕在化した「桐生待望論」のようなものに、知らず知らずプレイヤー側である自分も陥っていたということだ。
勝手に「桐生待望論」なる名をぶち上げてしまったが、これは作中で桐生一馬という人物が初代『龍が如く』の時点で既に「伝説の極道」として名の知れた存在であることで、彼に期待し、待望する人物や組織が数多く登場することを指している。そして『6』までのシリーズはそれを火種に起きた抗争と、そこから逃れられない桐生一馬という物語だった。
前作でどこか不本意さの残る幕引きであったと感じるプレイヤーが一定数いたのは、登場人物たちが彼を待望することと同じだ。

春日一番は桐生一馬の代わりではない。

はたから見れば春日たちはどん底・職業なしのフリーターだが、そこに自らが幼少期に慣れ親しんだドラクエのような勇者や僧侶の姿を重ね、言い張り、思い込む。
それは彼らが役割を自己決定するということだ。
過去のシリーズでは章に応じて操作する主人公が変わるということはあったが、『7』では仲間たちとパーティを組んでいても戦闘以外では操作することはできない。春日はひたすらに『7』の勇者であり主人公なのだ。

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ドラクエというかファイナルファンタジーのようでもある「転職」

無職のキャラクターたちがハローワークに行き、転職をしてその姿を変えて戦闘のスキルを覚えていく様は、現実にファンタジーRPGを当てはめた馬鹿馬鹿しいものにみえる。
それを隠すこともせず、真正面から攻めてくることでいつしか春日の妄想や発言にプレイヤーは付き合い、やがて侵されていく。
シリーズが重ねてきたリアルな街並みや造形は、馬鹿馬鹿しさや悪ふざけのなかにある実感やゲームシナリオ全体の強度を増す役割を担保している。
新たな時代と大きな力の狭間で、古くなったり、必要とみなされなくなってきたものが身を寄せ、それでも残り続ける異人町は春日たちそのものだ。

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また、春日たちと『龍が如く7』というゲームは、これまで神格化されつづけた桐生一馬の持つ人間としての一面を改めてプレイヤーに気づかせてくれる。
桐生は新たに作品が進むたびに伝説を生み出し、周囲から求められる役割の呪縛を強固にしてしまった。
主役から逃れようとすればするほどに台風の目となり、最後には自らを社会的に抹殺することでしか表向きの平穏は訪れなかった。

だが春日一番にとって桐生とは「マジで強い本物」の男でしかなく、その伝説も彼が何者なのかも知らない。
桐生が力の象徴として龍の姿に見え、春日はファンタジー世界の勇者のような居でたちに映る演出があるが、これは春日の目から見た妄想のイメージだ。

そのオーバーな演出は桐生一馬がとにかく強いという印象だけを伝えるのみで、彼がどんな人間であるかということはまったく伝えない。

桐生にとって自分がそうした目線で見られること、また自らの役目や責務を継がせるでもなく面白いと感じさせる人間が現れたことは、社会的に無となった自分に対し自身が望んだ役割を設定させる契機となったのではないか。『龍が如く7』はそれまでのアクションアドベンチャーからRPGへと舵を切ったが、それにあわせて生まれや育ち・役割にすべてを決定されない、何者のお仕着せでもない役割の選択を描いた。

現実には難しいことかも知れないし、青臭いかもしれないが春日の「最後にゃテッペンとってハッピーエンドよ、ドラクエみてえにさ」という言葉から、地に足を着け、上を見あげる勇気を自分は受け取った。

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象徴的なワンシーン。やはりファイナルファンタジーのようでもある。

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