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自己紹介

音楽、特にJ-POPが好きになったきっかけは日本舞踊にある。
母方の祖母は日本舞踊花柳流の師範で、自宅の横に稽古場を建てるほどだった。
ちなみに母も祖母の一番弟子で、今でも師範として踊りを教えている。

私が物心ついた時から、祖母は花柳流の稽古着を纏いお弟子さんに囲まれていた。
おばあちゃんの家に遊びに行くとなると稽古することは当たり前、長唄や常磐津の音楽が鳴り響くことも常だった。
舞台を開けば鳴り物さんが持ち運ぶお太鼓や尺八に興味を示し、(本来ならばあり得ないが)ちっちゃくてまだ世間の通りもわからない小娘が叩かせてもらっていた。

こんな【和】の環境で育ってきたから、当時流行していた音楽を聴く機会が無かった。
名前こそ知っていたものの、紅白歌合戦で大塚愛が映った時は「こんな音楽聴かなくて良いからね」と言われていたほどだ。
姉の背中を見て育ってきたこともあり、【親の言いつけは絶対!】といった優等生でもなかった。
姉が持っていたレコーダーをこっそりと借りては、誰も見ていないところで嵐やAKB48等の楽曲を録音しては1人でこそこそ聴いていた。

長唄の魅力など小学生にわかるはずがない。「さみだれや〜」という歌詞を聴いた時は、「わからないけどなんか美味しそうなお菓子かなぁ」と考えて稽古をしていたほど。

「サクラ咲け!」「きっと大丈夫」
日常生活でもバンバン使う日本語の歌詞であれば当時の私でも理解できる。
そこから楽曲のメッセージ性に興味を持ち始めた。

ひそひそとJ-POPにハマり始めきたところで、稽古がない日に卓球クラブに通い始める。
試合前緊張で身体がほぐれず良い結果を出せないことが功を奏し(?)、周囲のアドバイスでiPodを購入してもらうことに。

「音楽のちからってすごい…歌詞のちからってすごい…」
小学校中学年の私はそう思った。
どんなに緊張していても、耳から入ってくる歌詞やリズム、テンポで【前へ前へ進む勇気】が湧いてくる。

日本人に限らず、韓国などの外国人アーティストが日本語を歌っていることも当時の私には画期的なこととして受け止めていた。
特に、少女時代の『BORN TO BE LADY』はラブソングであるが、「こうやって君が強くなっていくのは いつか誰かを守るため」という歌詞から気持ちを奮い立たせ、遠征途中の新幹線でよく聴いていた。

そうそう、この頃になると祖母や母は音楽に対し寛容的になっていた。
むしろ、「長歌ばかり聴いていても、リズム感が育たないからいろんな音楽を聴きなさい」という態度。
稽古の舞台で「こんな古臭い音楽で踊るのはいやー!」と言っていた3歳の自分を猛反省。

中学校では吹奏楽部に入り、打楽器パートに所属する。
同期に負けたくない思いからドラム教室に通い始め、先生のアドバイスもありロックバンドなども広く浅く聴くようになった。
ONE OK ROCK、UVERWORLD など力強いサウンドとビートが当時の自分には本当に魅力的に映った。
同時に、アーティスト自身が綴る言葉から日本語の表現の奥深さを意識するようにもなる。
「あれ?日本語ってこんなに色鮮やかなものやっけ?」みたいな。

他にも、趣味でフルートを吹く父に薦められ、オーケストラやジャズも齧るようになった。
高校生も打楽器を叩いていたため、音楽スタイルはさほど変わらない。

現在は通勤途中にSpotifyを開いてはヒットチャートを流しつつ、お気に入りのアーティストを行ったり来たりしている。

さぁ、今日はLucky Kilimanjaro の『KIDS』からスタートだ。


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