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普通・常識という呪縛から解放される

祖母が亡くなってから、気付いたんだ。私には「ある」と。
今まで、気付けなかった。見えなくなっていた。

あれが「ない」これが「ない」と、常に不満げに生活していた。

お婆ちゃんが幼少期に養子として迎えられた家、お婆ちゃんが話していた、ここに来た時の寂しかった思いも幼い頃に聞いていた。

寝るところに困らない家があり、お腹が空けばご飯が食べれる。
とても満足してるとは言い難いが、働ける場所がある。
愛おしい子供に囲まれ、幸せなことに実の両親とも同じ時を過ごせている今がある。

私は既に幸せだった。

私があれが「ない」これが「ない」と思わせていたものは、「幻想」だった。

私は既に幸せだったのだ。

自分の中の今「ある」ものへ目を向けられたこと。
「ない」と思っていたものは何が「ない」と思わせていたのか、私自身が内観というものを進め、見えた世界。


本来「人」は生まれたとき、「自由であり可能性に満ちていた」からであった。それを心の底から感じた時、泣くしかなかった。


そして、この今という現在に愕然とした。
もっと皆が今よりも穏やかな笑顔で過ごせる世界、可能性があったのではないかと、目の前に広がる街に、言い知れぬ悲しみが押し寄せる。


友達にこの話をすると、一気に「ヒロコやばい人になった」という空気が発せられるが、わかります。1年前の私が、同じような話されたら友達と同じ反応をしていたと思う。

でも、今までなら考えもしなかった「人間の可能性」、みんな実は誰しもが「宇宙と繋がっている」そうゆう事だったのかと腑に落ちてしまった瞬間があったのだから。


ただ今の文明がそっちに発展しなかっただけであって、人と争い、優劣の世界で生きてるから…。その中で産まれ、育っただけ…。


でも、自分を育てた親を責めたところで意味を成さない。
だって、その親自身だって親からそう育てられていった。
祖父母だって同じだ。


今生きてる人を責めてもどうにもならない。
だって、皆同じように、こうしなくては、ああしなくてはダメだと思わざる負えない環境の中で育ってきたから。


時代の流れで育て方というものは確かに違いはあるだろう。
でもそうゆう小さな事じゃない。


こうしなければ、子供が幸せになれないから。
ああしなければ、子供が不憫な思いをしてしまうから。


どこにとりあえず入っていれば安心なのか?


「普通」以上の生活が出来るように子供を育て上げる。
「普通」以上の領域に居る事できっと子供は幸せになれるからと…。


親の愛をもって、育てる。
だって、子供に幸せになって欲しい。
自分と同じような苦しみは与えたくない。
一人前に育てること、親としての在り方。


その「普通」と言われるものは
長い年月をかけて人々が創り出した「思考」


目には見えない、世の中の「普通」と言われる領域。
それから逸脱した存在になれば幸せなのか?
落ちぶれだと周りが見る人は本当に落ちぶれなのだろうか?


ただそれは人々が創り上げた「普通」と言われる「思考」による幻想に過ぎない。


私が内観という形で、自分自身を見つめ直した際、やはり両親とのわだかまりについても問てみた。

親からしてみたら、そんな意味合いで発した言葉では無かったかもしれないし、人としてそういった反応を起こす事も当たり前であろう事も、その言葉や態度の受け取り手は私自身。

その当時感じていた思いを思い返し、何故どうしてそう思ったのか?

こうしなければ、親からこう思われる。
こうしたら、悲しい顔された。
悲しませる様な事をする私はダメな子だ。
不出来な娘でごめんね。
周りに自慢出来るような娘でなくてごめんなさい。
こうやって言われるのが嫌だった。
そうゆう目で見られるのが辛かった。
分かってくれない。

出したらキリが無いような言葉があふれ出てくる。

でも、それと同時に2児の母となった私としては、その時の親の気持ちも見えてきたのだ。

私の幸せを願って、安心への道に導きたかった。
子供が不憫な思いをしないように、一人前に生活がきっと出来る確率が上がる大学へ本当は行って欲しかった。
怪訝な顔も、娘の将来を少しでも安定した世界に送りたかったからだった。


そして、ハッとした。
そこには、少なからず自分の「欲」が見えたからだ。

子供が大学に行ってくれたら、そこそこな会社に入ってくれるだろう。
私が安心する。
子供が勉強が出来たら、余計な心配をせず、私が安心する。
子供が他の子よりも優っていたら、なんか安心する。
子供が周りの子よりも劣っていると、私が心労する。
子供が思う様に動かないでいると、イライラする。


そこには、無意識に私の中での「普通の領域」に対しての「欲」があった。


私は子供に対しての親の欲を手放すことにした。
勿論、子供には幸せになって欲しい。この想いは必然にある。

笑顔で暮らしていければいい

そのお手伝いをする。
私自身が、ただそのままの自分を愛して欲しかったように。

人々が創り上げた「普通の領域」に縛られることなく、受け止められる親になる。何が正解かなんて分からない。でも、これも一つの選択。

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