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幸せのテンプレート

人間は、自分の幸せが分からなくなってしまうと、定型的な幸せを求めるのではないか。
そんな大仰なことを、大雨に打たれる外の景色を室内から眺めて考えていた。 

現代では、色々な幸せの在り方がある。結婚するのも独身でいるのも自由だし、子供は産んでも産まなくてもいい。大学に行かなくたって立派な人は五万といるし、良い大学に行って好きなことを学ぶのだって素晴らしい。仕事の有り様も、必ずしも出勤しなくて良い企業はかなり増えたし、なんなら就職せずYouTuberやインフルエンサーとしてより自由なやり方で稼ぐ人だって現れた。私は日本で生きてきて、自分のため幸せを求めることができる環境にある、と思っている。

けれども、どうだろう。
例えば同級生を見てみるだけでも、私より遥かに高い給料をもらってる人や、結婚して立派に子育てしている人、自分の才能を生かした素敵な職業についている人が、わんさかいる。
羨ましいと、素直に思う。
だけど、私は転職してでも給料を上げたいのか、結婚して子供が欲しいのか、退職して小説家やクリエイターになりたいのかと言われると、ちょっと悩んでしまう。贅沢はできないけれど、不自由ない生活は送れているし、子育てできる自信は皆無だし、趣味を仕事にしたら趣味が嫌いになるんじゃないかとも思う。なのにどうして、隣の芝生は青く見えるんだろう。

私は、羨ましいと思うものについて考えてみた。
すると、ほとんどが、自分の意思で積極的に選択した結果に不満を抱いているというよりも、なんとなくこう収まっている、というものに不満を覚えているのだと分かってきた。
いつの間にかこうなっていた。だから、典型的な幸せの型から外れていると気がついた途端、不安になってしまう。自分で選んだ、という自信がないからだ。……とはいっても、全ての行動選択において自分の確たる意思を持って生きることなんて無理だろう。できたらいいけど、私にはできそうもない。

だからこそ、「あれ、どうして自分はここが幸せのテンプレートから外れているんだろう?」と思ったときには、そこに本当に自分がこだわるべき理由があるのか考えてみるといいのかもしれないと思った。
こだわるべき理由があるのなら、悔しがってもいいし、その悔しさをバネに努力してみればいい。できるだけのことをやってみることだ。けれど、こだわる理由がないなら、それをテンプレートに収める努力に時間をかけるのは勿体ない。人生は有限なのだから。そう思ったのである。

そんなことを考えていると、雨はやんでいた。おお、これは何だかいい兆しだな、と思うことにした。

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