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平等について


LGBTQ運動、ジェンダーフリー運動、多文化共生運動、そしてSDGs。
これらの運動は共通してマイノリティに対する

「平等」

を謳っている。

「平等」と聞くと、いかにも反論の余地のない

絶対善

と捉えられがちである。


人間とはどの様な悪人でも自身の人格を保つ為、「善」で有りたいものだ。
だから不平等に晒されている社会的弱者から「平等」を訴えられると、無意識に擁護する立場を取らざる負えない。


「平等」は所謂左翼運動には付き物の概念であり、そもそも古典的マルクス主義がブルジョアジーとプロレタリアートは「平等」であるという観念から出発している。
当然、その変質形である上述のネオ・マルクス主義左翼運動もその様な共通の観念を中心に備えている。


だが、一歩立ち止まって考えてみたい。

平等とは一体なんなのだろうか。


初めて近代思想に平等の概念を表して体系化したのは啓蒙思想家のルソーとされている。

政治哲学者の中川八洋
氏によれば

「マルクスを否定するにはフランス革命とその中核思想に位置するルソーを否定しなければならない。」

と言う。


啓蒙思想とは、人間の無限なる理性でもって完全な人間への進歩ができる、とする一連の近代思想だ。

ルソーの理想とする人間像は荒野の野獣、
つまり

動物

だ。「自然状態」が人間にとっての理想郷(ユートピア)であると説いている。


その様な「自然状態」であった人間が、文明的な諸集団に属することによって抑圧による「不平等」が生まれる社会状態に堕落した、とするのだ。
その「不平等」な社会状態は、啓蒙主義的な「理性」による徳性をもった「一般意志」が統治する事によって、人間の社会は真に「平等」な理想社会に達すると説いた。

「一般意志」とは、人民の意志が完全なる全員一致において統一されて成立するとし、徳性を持ち至高善を実現できる理性の高みに「進歩」した立法者のみが、その「一般意志」を正しく体現できるので、「進歩」した人民はこの一般意志の体現者に全てを委ねて従う事こそが「正義」を実現できる社会契約だとしたのだ。

これは要するに理性を極めた神の如き立法者あるいは団体に、全てを委ね盲従しろという事で、

「平等」とはその様な隷従を前提とする概念なのだ。




この前提より出発し発展をしていったものが、ヘーゲルそしてマルクス・マルクーゼに連なる

「左翼思想」


なのである。


現実的に考えると、そもそも全てにおいて完全なる「平等」を実現する事は不可能であり、不可能だからこそ絶対的理性の信奉者たるルソーは、

神の如き理性超人的立法者


を最高の位置に置いたのだ。


ルソーは、「平等」を実現できない堕落した社会秩序は「悪」であり、人間が「善」を取り戻すには、その社会秩序を完全に破壊しつくし、一般意志を体現する「理想の政治体制」に創り変える必要があるとした。
この思想がフランス革命のジャコバン派の血みどろの独裁体制を生み、マルクスに受け継がれ共産主義革命による新世界の創造という思想に繋がった。


「平等」という概念は潜在的に既存の社会秩序の破壊と新秩序への隷従がセットになっている。

過剰な「平等」の信仰・追求・要求は社会秩序を崩壊に導き人間の隷従を生み出す。


SDGsにしても、はっきり言って実現不可能な目標ばかりだ。実現不可能なものを実現しようとする事は、人々の自由を奪い隷従に導く


結婚する権利を性的マイノリティに至るまで完全に「平等」にしようとすると、同性婚の導入によって伝統的家族観は破壊される。


「平等」とは、

一歩間違えれば社会秩序を死滅させる猛毒となり得る。



その様な視点を持って世界を眺める事は必要ではないだろうか。



<参考文献>
中川八洋「正当の哲学 異端の思想」徳間書店

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