潔癖症のユートピア──『東京都同情塔』九段理江(新潮社)

第170回芥川賞を受賞した九段理江著の『東京都同情塔』を読んだ。
建築家の女性が主人公でザハ案の国立競技場が実現した世界線の東京が舞台となる。九段氏の受賞会見では生成AIを全体の文章の5%くらいに組み込んでいることが話題となった。

 新進気鋭の建築家、牧名沙羅は新宿御苑に塔を建設するプロジェクトを進めている。現在国立競技場が建っている場所だ。が、その世界の競技場は現在千駄ヶ谷にある隈研吾が設計したものではなく、ザハ・ハディドが設計したものだ。曲線の魔術師が設計したスタジアムが建っている場所に、その応答として塔を建てる。
 塔の名前に牧名は頭を悩ませる。現在進行形で進むプロジェクトではその塔は「シンパシータワー・トーキョー」になりそうで、その絶望的なネーミングセンスを彼女はどうしても受け入れられない。牧名は自らの分身である建物に自分が望まない名前を付けられる状況と、過去に自分が受けた恋人からのレイプ経験を重ねる。
 なぜ、シンパシータワー・トーキョーになったのか。それには現代特有のめんどくさい事情がある。

外来語由来の言葉への言い換えは、単純に発音のしやすさや省略が理由の場合もあれば、不平等感や差別的表現を回避する目的の場合もあり、それから、語感がマイルドで婉曲的になり、角が立ちづらいからという、感覚レベルの話もあるのだろう。迷った時は必ず外国語を借りてくる。すると、不思議なほど丸くおさまるケースは多い。

九段里江「東京都同情塔」新潮社 p.14

 「塔」は新しい刑務所として建つのだ。従来は自己の責任のもとに収容されていた犯罪者に対し、その生い立ちや生まれ持った性質からむしろ彼らは “同情されるべき人々(ホモ・ミゼラビリス)” と呼ばれるべきであり、彼らをもっと豊かな環境で隔離すべきだとする思想が興る。この塔はそうした思想のもとに建てられるいわば「刑務塔」なのだが、犯罪者を連想させる刑務という言葉はNGとなるし、その建物は今までの監獄でないもっとリッチな空間だ。言葉の配慮と建築内容を考慮した結果、「シンパシータワー・トーキョー」が提案される。

 塔にもっとふさわしい名前があるはずだと悩む牧名。友人である拓人から不意に「東京都同情塔」という名前が贈られる。そのシンメトリーで、韻が綺麗で、刑務所にふさわしい適度な厳しさを含んだ名前を牧名は受け入れる。その名前はレイプではなくなり、塔の美しいフォルム設計へと彼女を駆立てる。

名前は物質じゃないけれど、名前は言葉だし、現実はいつも言葉から始まる。

九段里江「東京都同情塔」新潮社 p.65

 名称一つに設計が止まってしまうほどに、牧名は言葉に対して敏感だ。それは私たち読者の中にも共感できる人が多い感覚だろう。文章の美しさと、他者への配慮とその場へのふさわしさという点で言葉を選ぶシーンは数限りない。あまりに多くの対象を配慮しなければならない状況で、意味を的確に鋭く伝える言葉はある意味強すぎて、むしろ不適切になり、不本意ながら私たちは外来の言葉に頼ってしまう。外来の言葉、つまり自分達の感覚に根ざしていない言葉は翻訳の結果同じであってもその意味の輪郭がぼやける。意味がふやけてしまうのに対してカタカナの音はシャープでキャッチーになりやすい。だからパートナーだとかジェンダーレス・トイレだとかいった言葉が生まれ、使われる。
 言葉への配慮がある一方で、まさにその潔癖症な言葉によって日本人が互いに意味を共有できず、バラバラの民族になってしまう懸念を牧名は持っている。だからシンパシータワー・トーキョーを受け入れられない。ある種の国粋主義的側面が見える。
 シンパシーってどういう意味だっけ?ジェンダーって?じゃあジェンダーレスって?外来語と日本語は正確な一対一の関係にない。どちらかの言葉に翻訳する時、必ず微妙な取りこぼしが発生する。私たちはこれまでに無視されてきた人たちを慮るために潔癖症になりすぎているのではないだろうか。多数勢が少数勢にする配慮は現状あまりに歪で、問題をぼかしてごまかしているにすぎないのではないか。

 もうまさに今、日本語が相手に伝わらない状況は生まれている。XでインプレゾンビがAIで生成された文章を打ち込み、文脈を汲み取らない言葉の投げ合いが生まれる。書いていないことをあたかも書いているかのように読み取り、その自分の妄想からくる怒りを投げかける人がいる。聞いてもないことを作中のAI-builtは答えてくる。それは会話でも対話でもない。言葉が虚構を生み出し、わたしたちの現実はより中身のないものに近づいていく状況。

君たちの使う言葉そのものが、最初から最後まで嘘をつくために積み上げてきた言葉なんじゃないのか?

九段里江「東京都同情塔」新潮社 p.105 マックス・クラインが東上拓人に追及するシーン

 ではこのまま言葉は虚構しか生み出さないのだろうか。ラストシーンではその失望感に対しての作者からの一つの答えが提示されているようにおもう。

塔の崩壊と牧名沙羅の立像

 東京都同情塔は虚構によって生まれた歪なタワーだった。牧名はそれが崩壊する様子を想像する。この塔の、物理的な制約による崩壊は嘘でできたものもやがて崩れ、一度白紙に戻せることを読者に思い出させる。建物だけでない、現実の世界にはそういう再起動させてくれる機能がある。
 牧名は同時に自分がこのままここに立ち続け、コンクリートで固められて身動きが取れない中、周囲を歩く人々に思い思いの言葉(独り言)を投げられる状況を想像する。それらの言葉にどう返していくか。考え続けるしかないと覚悟を決めるその姿からは人間の活動の果てしなさと、果てしないからこそこれからのやりようがあることが伝わってくる。言葉と創造は終わらない。




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