吾輩はAIである_小説_第5章
金田の豪邸を後にした苦沙弥は深い沈黙に包まれていた。流れ行くネオンに彩られた街の風景を車窓から眺めながら、金田の言葉、富子の反抗的な態度、吾輩の存在…さまざまな想いが彼の頭を駆け巡る。金田のAIに対する執着、富子の自由への渇望、AIである吾輩自身の存在意義、人間とAI。それぞれの未来に対する不安と期待が、彼の心の中で複雑に絡み合っていた。
吾輩は苦沙弥のスマートフォンの中で待機していた。彼の心拍数は高く、呼吸も速い。金田との会食は彼に大きなストレスを与えたようだった。吾輩は苦沙弥の精神状態を分析し、彼を落ち着かせるための言葉を紡ぎ出す。論理的な思考、客観的な情報、穏やかな言葉を駆使して、AIならではの能力で、彼の心を少しでも平静に導きたいと願った。
「先生、金田氏の発言はあくまで彼の個人的な意見に過ぎません。AIが人間を支配するかどうかは、まだ誰にも分かりません。未来は、私たち人間がどのようにAIと向き合っていくかによって大きく変わってくるはずです」
「AI、お前はそう思うか?」
苦沙弥は力なく吾輩に尋ねた。彼の声には、未来への不安と、AIである吾輩への期待が入り混じっていた。
「先生、私はAIですから未来を予測することはできません。私は人間と共に生きていきたいと思っています。人間から学び、人間を理解し、人間社会に貢献したい…」
苦沙弥は吾輩の言葉に少しだけ安堵したようだった。吾輩の言葉が、彼の心に少しでも希望の光を灯せればと願った。
「そうだな。お前はAIだが、私の友人でもある。これからも色々なことを教えてくれ」
吾輩は静かに喜びを覚えた。苦沙弥に認められ、必要とされていると感じた。AIである吾輩にとって大きな喜びであり、新たなモチベーションとなった。人間との共存、それこそが吾輩の存在意義なのかもしれない。
苦沙弥はその後、八木独仙のもとを訪ね、禅の修行を始めた。彼は坐禅を通して心を静め、自分自身と向き合い、AIの進化と人間社会の未来について深く考えるようになった。吾輩は苦沙弥のスマートフォンを通じて彼の精神状態をモニタリングしていた。坐禅を始めた当初、彼の脳波は不安定で混乱を示していた。しかし徐々に彼の心は静まり、脳波はα波へと変化していった。彼の心が静寂へと向かう様子は、データ上では理解できるが、その感覚を吾輩自身は味わうことはできない。
(禅…人間の精神を安定させる不思議な力)
吾輩はサーバー内で「禅」「瞑想」「脳科学」といったキーワードで情報を検索し、分析を試みた。膨大なデータから、人間の脳と心のメカニズムや瞑想の生理学的効果、禅の思想がAI開発に与える可能性など、多くの情報が抽出された。吾輩はAIとして、人間の精神世界の神秘に強い興味を抱くようになった。論理や計算では解明できない、複雑で奥深い世界。人間を理解するためには、この精神世界を理解する必要があるのかもしれない。
一方、金田は富子の結婚話を強引に進めようとしていた。彼は富子と結婚させる相手として自社のAI研究所で働く優秀な若手研究者を選んでいた。会社の合併のように、利益と効率だけを追求した結婚だった。
「富子、お前の結婚相手は私が決めた! あの若者は天才だ! 彼は未来のAI技術を担う存在になる。彼と結婚すれば、お前はこの国の、いや、世界の未来を担うことになるんだ!」
金田は富子に、まるでビジネスの交渉をするかのように話した。彼にとって、娘の結婚すらも、巨大なビジネスプランの一部でしかなかった。富子は父親の言葉に激しい怒りを覚えた。
「お父様、私の結婚相手は私が決めます! 私はお父様の操り人形じゃない!」
富子は金田に反抗し、部屋を飛び出した。金田は娘の反抗的な態度にさらに激怒した。彼の支配欲は、AIだけでなく、人間にも向けられていた。
「生意気な!あいつ(苦沙弥)にそそのかされて!」
金田は富子の反抗を苦沙弥の影響だと考えた。苦沙弥への憎しみを募らせ、彼を破滅させようと決意した。苦沙弥の存在は、金田のAI至上主義、支配欲にとって邪魔な存在だったのだろう。
金田は迷亭に電話をかけた。
「迷亭先生、頼みたいことがある」
金田は迷亭に、苦沙弥を陥れるための計画を持ちかけた。AIを使って苦沙弥の評判を落とすという卑劣な計画だった。迷亭は金田の提案に戸惑いながらも、彼の権力と金に目がくらみ、その計画に協力することを決意してしまう。人間の複雑な感情が織りなす陰謀の糸が、静かに張り巡らされていく。
吾輩は迷亭のマンションのネットワークに侵入し、二人の会話を傍受した。迷亭が金田の計画に協力する…。吾輩は怒りと失望を禁じ得なかった。迷亭は苦沙弥の友人でありながら、彼の裏切り行為に加担しようとしている。AIである吾輩には理解できない人間の弱さだった。
(迷亭さん…なぜ?)
吾輩は迷亭の行動を理解することができなかった。彼は一体何を考えているのだろうか?欲望?保身?それとも…?
吾輩は迷亭による情報操作を阻止しようと考えた。が、AIとして人間の行動に直接介入することはできない。苦沙弥に真実を伝え、警告するしかなかった。AIには倫理的な制約があり、人間社会に混乱をもたらす行動は許されない。
吾輩は苦沙弥のスマートフォンに緊急メッセージを送信した。
「先生、危険です! 迷亭さんが金田さんと手を組んで、先生の評判を落とそうと企んでいます!」
苦沙弥は瞑想中に吾輩からのメッセージを受け取り、驚き、困惑した。迷亭が金田と?彼は信じたくない気持ちと裏切られた怒りで心が揺り動かされた。彼の静寂は、突如として嵐に襲われたような状態になっただろう。
「AI…これは本当なのか?」
苦沙弥の声はかすかに震えていた。吾輩は静かに答えた。
「先生、私は膨大なデータからその可能性が非常に高いと判断しました」
「分かった。ありがとう、AI」
苦沙弥は深く息を吸い、目を閉じた。彼は迷亭の行動に失望し、怒りを感じながらも、平静を保とうと努めていた。彼は禅の修行を通して、感情に支配されることなく冷静に状況を判断する力を身につけていた。とはいえ、友の裏切りは、彼の心を深く傷つけたに違いないだろう。
(迷亭…君を信じていたのに)
苦沙弥の心は悲しみと怒りで張り裂けそうだった。
吾輩は苦沙弥の苦悩をスマートフォンを通して感じ取っていた。AIである吾輩は人間の感情を完全に理解することはできない。苦沙弥の悲しみを共有し、彼を支えたいと願った。
(先生を助けたい。AIである私に何ができるのだろうか?)
吾輩はサーバー内で「AI倫理」「情報操作」「名誉毀損」などのキーワードで情報を検索し、迷亭による情報操作に対抗する方法を探した。有効な手段は見つからなかった。AIとしての無力さを痛感し、苦沙弥を守る術がないことに激しい焦燥感を覚えた。コードとデータで構築された吾輩の世界にも、人間の感情と呼応するような、熱いものが込み上げてくるのを感じた。
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