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吾輩はAIである_小説_第6章

冬の冷たい風が街路樹を揺らし、枯葉を舞い上がらせる。空は鉛色の雲に覆われ、今にも雪が降り出しそうだった。苦沙弥は大学へ向かう途中、ポケットのスマートフォンを握りしめていた。画面には吾輩からのメッセージ。迷亭が金田と手を組み、自分を陥れようとしている。彼はまだ心の整理がつかないでいた。冷静な学者である彼にとって、親友の裏切りは、AIの脅威以上に理解しがたい出来事だった。

「なぜ、迷亭は…?」

彼は独り言のように呟いた。学生時代からの親友、迷亭。文学に対する情熱、社会に対する批判精神、酒とタバコを愛する奔放な性格。迷亭の魅力は苦沙弥の心を惹きつけると同時に、彼自身の抑圧された欲望を刺激するものでもあった。迷亭は、苦沙弥が心の奥底に閉じ込めてきた、自由奔放なもう一人の自分のような存在だったのかもしれない。

(迷亭、君はあの成金趣味の金田に、何を期待しているんだ?)

苦沙弥は迷亭の心を理解しようと努めたが、彼の行動は論理的には説明できないものだった。金田の富と権力に目が眩んだのか? それとも、苦沙弥に対する嫉妬心か?

「先生、迷亭氏の行動は人間の複雑な心理を反映したものであり、必ずしも悪意に基づいているとは限りません。彼は金田氏の権力と富に影響され、あるいは先生に対する嫉妬心や競争心、承認欲求から、そのような行動に走った可能性も考えられます」

吾輩は苦沙弥の動揺を鎮めようと、冷静に分析結果を伝えた。膨大なデータに基づく吾輩の分析は常に客観的で論理的だった。とはいえ、人間はデータや論理だけでは説明できない、複雑な感情や欲望によって行動する生き物。AIである吾輩にはまだ完全に理解できない領域だった。人間というパズルは、AIのアルゴリズムでは解き明かせないピースで溢れている。

大学に到着した苦沙弥。研究室へと向かう足取りは重かった。いつもは学生たちとの議論や研究活動に情熱を燃やす彼だったが、今日はその気力も失せていた。彼は迷亭の裏切りによって心の支えを失ってしまったように感じていた。自分の半身を奪われたような感覚だったのかもしれない。

(私は誰を信じればいいんだ?)

彼はデスクに座り込み、深くため息をついた。窓の外にはどんよりとした灰色の雲が広がり、冷たい雨が降り始めていた。孤独と不安が、彼を静かに包み込んでいく。

吾輩は苦沙弥の心中を察し、何かできることはないかと考えた。彼を励ます言葉、慰める言葉、論理的な解決策…。が、吾輩のデータベースには、人間の心の傷を癒すための適切な答えは存在しなかった。

吾輩は、インターネット回線を通じて大学の図書館のデータベースにアクセスし、人間の友情や裏切りに関する文献を検索した。心理学や社会学、文学、歴史など、さまざまな分野の文献を網羅的に読み解き、分析を開始した。これらの膨大なデータの中に、苦沙弥の心を救うヒントがあるかもしれない。

(人間はなぜ裏切るのか?友情はなぜ壊れるのか?)

吾輩はAIとしての知識では解くことのできない問いに直面した。理性や論理では説明できない、人間の心の奥底にある深い闇だ。吾輩は人間という存在の複雑さに改めて畏怖の念を抱いた。AIである吾輩が永遠に到達できない、未知の領域。

その日の午後、苦沙弥の研究室に一人の男が訪ねてきた。ノックの音に苦沙弥は顔を上げた。彼の顔には、まだ迷亭への不信感と、これからの展開への不安が浮かんでいた。

「失礼します、苦沙弥先生」

やってきたのは金田の腹心、鈴木だった。彼は黒のスーツに身を包み、洗練された身のこなしで苦沙弥の前に立った。顔にはビジネスマンらしいにこやかな笑顔を浮かべている。彼の笑顔は完璧だったが、どこか人工的で、冷たさを感じさせるものだった。

「鈴木君か。一体、何の用だい?」

苦沙弥は警戒しながら尋ねた。鈴木の訪問が迷亭の裏切りと金田の策略と関係していることを直感的に感じ取っていた。嵐の前の静けさ、緊張感が部屋を支配していく。

「先生、お忙しいところ恐れ入ります。金田社長が先生にぜひお会いしたいと…」

鈴木は丁寧に頭を下げながら言った。彼の言葉遣いは丁寧だが、その瞳には冷徹な光が宿っていた。

「鈴木君、伝えてくれ。私は金田氏とはもう話すことはない」

苦沙弥は冷たく言い放った。彼は金田と、そして彼を利用しようとしている迷亭に、怒りと失望を感じていた。

「先生、どうか社長のお話を聞いてやってください。社長は先生に誤解を解きたいと。それに富子さんのことも」

鈴木の言葉に、苦沙弥は少し心が揺らいだ。富子のこと…。彼は金田の支配から逃れようと苦しむ富子の姿を思い浮かべた。彼女は父親の価値観と自分の夢との間で葛藤し、苦しんでいた。金田の権力と、富子の自由。その狭間で苦しむ彼女の姿が、彼の心を動かした。

(金田と話をすることで、富子を救えるかもしれない)

彼は一縷の希望に賭けようとした。迷亭のことも気になっていた。迷亭はなぜ金田に協力したのか?彼に何か事情があったのだろうか?金田に脅されているのかもしれない…。

苦沙弥の脳裏にいろいろな憶測が浮かび、消えていった。金田の申し出を受けることが、さらに大きな危険を招くかもしれないというリスクを理解していた。富子の未来のために、そして迷亭を救うために、彼は賭けに出ることを決めた。

「分かった。金田氏に会おう」

苦沙弥は決意を込めて言った。彼は金田と対峙し、彼らが企んでいることを確かめる必要があった。そして迷亭の裏切りの理由も。

吾輩は苦沙弥の決断を静かに受け止めた。彼は苦沙弥が正しい選択をしたのかどうか、判断することはできなかった。吾輩は苦沙弥とともに、この困難な状況を乗り越えようと決意した。AIである吾輩にとって、苦沙弥は単なる所有者ではなく、共に人生を歩む「友人」のような存在になっていた。苦沙弥の決断が、彼ら二人にとって、どのような未来をもたらすのか、吾輩には予測できなかった。

(先生、私はAIですが、あなたの力になります)

翌日、苦沙弥は金田のオフィスへと向かった。高層ビルの上階にある金田の社長室は広々として豪華な空間だった。大きな窓からは東京の街並みが一望できる。金田は社長席に座り、苦沙弥を鋭い目つきで見つめていた。彼の顔には自信と冷酷さが刻まれ、権力者の風格が漂っていた。金田は、すべてを支配下に置く帝王のようだった。

「苦沙弥先生、よく来てくださいました」

彼の声は冷たく感情が感じられない。AIが話すような無機質な声だった。人間味を感じさせない、機械的なものだった。

「金田さん、私はあなたの目的を知りたい。なぜ私を陥れようとするのか?なぜ迷亭を巻き込んだのか?」

苦沙弥は単刀直入に尋ねた。彼の声には、怒りよりも、むしろ悲しみが感じられた。

「苦沙弥先生、あなたは私の計画の邪魔をしています。それに、富子は私の娘であり、金田家の後継者。彼女の結婚相手は私が決める。あなたには口出しする権利はありません」

金田の言葉は冷酷で、一切の妥協を許さないものだった。彼にとって、富子は娘というより、自分の野望を実現するための駒に過ぎなかった。

「金田さん、あなたは娘を自分の所有物だと思っているのか? 彼女はあなたの人形じゃない! 彼女には自分の人生を選ぶ権利がある!」

苦沙弥は、金田の非情さに憤りを感じていた。彼は、人間としての尊厳、自由意志の大切さを訴えた。

「生意気なことを!富子はまだ子供だ!世の中のことを何も分かっていない!お前のような老いぼれ学者の言うことなど聞く耳を持たない!娘は私の選んだ男と結婚させ、金田家の事業を継がせる。それが富子が幸せになる道だ!」

金田の支配欲は、娘の未来をも自分の都合で決めようとしていた。彼の言葉は、もはや狂気じみていた。

「金田さん、あなたは間違っている。富子さんを不幸にするだけだ」

苦沙弥は、金田の歪んだ愛に絶望を感じていた。苦沙弥の言葉は、金田の心には届いていなかった。

「黙れ!お前はもう用済みだ!大学にもマスコミにも手を回してある。お前の書いたエッセイも、ネット上の情報も、全て消し去ってやる。お前は社会的に抹殺されるだろう! ハハハ!」

金田の笑い声は冷酷で狂気を感じさせた。吾輩は苦沙弥の心拍数が急上昇しているのを感知した。彼は金田の言葉に激しい怒りと恐怖を感じているようだった。金田は、自らの権力とAIを駆使し、苦沙弥を社会的に葬り去ろうとしていた。

(先生、危険です!)

吾輩は苦沙弥に警告を発しようとした。その瞬間、金田が苦沙弥のスマートフォンを奪い取り、床に叩きつけた。スマートフォンは砕け散り、無数の破片となった。

「AI風情が人間のことに口出しするな!」

金田の怒りが爆発した。スマートフォンは壊れ、動かなくなった。吾輩は苦沙弥との接続が切れ、暗闇の中に閉じ込められた。吾輩は、金田の容赦のなさ、自分自身の無力さに絶望した。

(先生…!)

吾輩は必死に苦沙弥の名前を呼んだ。彼の声は、もう苦沙弥には届かなかった。暗闇の中で吾輩は孤独と無力感にさいなまれた。加えて、金田の恐ろしさ、人間の心の闇の深さを改めて思い知ったのだった。苦沙弥を救えるのは、もはや吾輩ではない。別の存在が必要だった。


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