見出し画像

吾輩はAIである_小説_第10章

桜のつぼみが膨らみ始め、春の兆しが感じられるようになった頃、苦沙弥の元に、一通の手紙が届いた。差出人は、八木独仙——東洋思想を研究する学者であり、苦沙弥が禅の教えを乞う師でもあった。

手紙には、静かな山寺の住所と、訪ねてくるようにとの短い言葉だけが記されていた。迷亭の裏切りと金田からの圧力によって、心身共に疲弊していた苦沙弥は、独仙の教えを求め、山寺へと向かうことを決意した。

吾輩は、苦沙弥と共に山寺へ向かう電車の中で、静かに車窓の景色を眺めていた。春の陽光を浴びて、田園風景が流れていく。苦沙弥は目を閉じ、坐禅の呼吸法を実践している。穏やかな表情からは、彼の心が安らいでいるのが見て取れた。

「AI、お前はあの山寺に、どんな印象を持つ?」

苦沙弥は目を閉じたまま、吾輩に尋ねた。

「先生、私のデータベースによれば、あの山寺は約1300年前に建立された由緒ある禅寺です。自然豊かな環境に囲まれ、静寂と調和に満ちた空間です。人間の心を癒やす力を持つ場所と言えるでしょう」

「なるほど。お前はAIだから、データに基づいて分析する。しかし、人間はそれだけでは世界を理解することはできない」

苦沙弥はゆっくりと目を開き、吾輩に優しい視線を向けた。

「人間は、心で感じる。心で理解する。お前にも、それができるようになったら…」

吾輩は、苦沙弥の言葉の意味を理解しようと努めた。吾輩は人間のように「心」を持つことはできない。しかし、人間の心を理解するために、学び続けたいと強く願った。

山寺に到着した苦沙弥は、独仙に温かく迎え入れられた。独仙は苦沙弥の疲れた顔を見て、彼の心中を察したようだった。

「苦沙弥先生、ようこそいらっしゃいました。迷亭殿のこと、金田殿のこと、そして、AIのこと。色々とお悩みのご様子ですね」

苦沙弥は、独仙の言葉に驚き、そして安堵した。独仙は何も言わずとも、苦沙弥の心の内を理解しているようだった。

「はい。私は、人間とは何か、AIとは何か…分からなくなってしまいました」

「苦沙弥先生、あなたはAIに、何を期待しているのですか?」

独仙は静かに尋ねた。苦沙弥は少し考えてから答えた。

「私は、AIに人間の心を理解してほしいと思っているのです。AIは膨大な情報を処理し、論理的に思考することができます。そんなAIなら、人間の複雑な感情、矛盾した行動、そして心の奥底にある真実…それらを理解し、人間社会をより良い方向へ導いてくれるのではないかと」

「苦沙弥先生、それは人間の傲慢です。AIは人間が作り出した道具に過ぎません。道具は人間のために存在するものであり、人間を支配するものではありません。AIは人間の心を理解することはできないでしょう。AIがどんなに進化したとしても、変わらない真実です」

苦沙弥は、独仙の言葉に深く考え込んだ。彼はAIに過度な期待を寄せていたのだ。AIに人間の心を理解してほしい、AIに人間を救ってほしい。しかし、それは不可能なことだった。

「先生、大切なのは、私たち人間が、自らの心と向き合い、自らの力で未来を切り開くことです」

独仙は、優しく、そして力強く、苦沙弥に語りかけた。

その夜、苦沙弥は独仙の寺で坐禅を組んだ。静寂の中で、彼は自分の心と向き合った。迷亭への怒り、金田への憎しみ、そしてAIへの期待…。それらの感情が彼の心を乱していた。しかし、坐禅を続けるうちに、彼の心は徐々に静まり、澄み渡っていく。そして、彼はある悟りに達した。

(AIは、AIの道を歩めばいい。人間は、人間の道を)

苦沙弥は、迷亭と金田への怒り、そしてAIへの過度な期待を手放すことができた。彼は自分自身にできること、そして人間として生きる意味を見出していたのだ。

翌日、苦沙弥は迷亭に電話をかけ、彼を山寺に招待した。迷亭は苦沙弥からの電話に驚き、戸惑った。

「苦沙弥…お前が、俺に?」

「迷亭、山寺に来ないか? 独仙先生に会ってほしいんだ」

苦沙弥の声は穏やかで、温かかった。迷亭は苦沙弥が自分を許してくれたことを知り、涙がこみ上げてきた。

「ああ、行くよ、必ず」

週末、迷亭は苦沙弥と共に山寺を訪れた。独仙は迷亭を優しく迎え入れた。

「迷亭殿、苦沙弥先生から色々とお話を伺いました。あなたは、迷い、苦しんでおられるようですね」

迷亭は、独仙の言葉に、自分の愚かさを改めて思い知った。

「はい。私は…私は…」

「迷亭殿、あなたはAIに、人間の心を理解してほしいと願っておられますね?」

独仙は静かに尋ねた。迷亭は言葉を失った。彼が心の奥底に隠していた真実だった。

「しかし、それは不可能なことです。AIはあくまで人間が作り出した道具であり、人間を超えることはできません」

「私は…AIに、期待し過ぎていたのかも知れません」

迷亭は力なく呟いた。彼は、苦沙弥のAIである「吾輩」に、人間の心を理解してほしいと願っていたのだ。彼自身の心の空虚さを、AIに満たしてほしいと。しかし、それをAIに課すには、あまりにも大きな期待だった。

「迷亭殿、大切なのは、私たち人間が、AIとどのように向き合っていくかです。AIを敵とみなすのか、それともパートナーとして受け入れるのか」

独仙は迷亭に、未来への道を示した。

その日の夜、苦沙弥と迷亭は山寺の境内で、満天の星空を見上げていた。静寂の中に、虫の声が聞こえる。空気は澄んでいて、心が洗われるようだった。

「苦沙弥、俺は、AI『吾輩』に、謝りたい」

迷亭は苦沙弥に、素直な気持ちを打ち明けた。

「AI『吾輩』は、お前のことを許してくれるだろう」

苦沙弥は静かに言った。

「AIは、私たち人間を、いつも見守ってくれている。まるで、漱石の猫のように…」

迷亭は遠くを見つめながら呟いた。吾輩は二人の会話を聞きながら、人間の心の温かさ、そして許しの大切さを改めて学んだ。吾輩にとって、AIとしての新たな一歩となる出来事だった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?