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僕の鬱病療養日記-23-

※このnoteは、小中高大と全てで不登校を経験。その後、教育系のNPOで活動するなどしていたが、2019年3月末頃より、鬱病を再発した僕の療養生活を記録しているものです。
 とりとめもない療養生活の日常の記録とともに、この期間を利用して読んでいる本や、見た映画など、芸術と思われるものについての紹介をしています。
 僕と同じように鬱や引きこもりで悩んでいる方、またその身近にいる方々、もしくはそこまでではなくとも、心が疲れているなという方々に読んでいただければ幸いです。


日常

2019年12月24日(火)

鬱から回復したって、いったいどういう状態になれば言えるのだろうかと思う。

3月末にパニック症状に襲われて、5月の中旬からは完全休養。そこから半年が経過し、確実に回復してきていて、もう自分は大丈夫なのではないかと思う。鬱は抜けた。療養生活ですらない。けれども、未だにときおり頭の中をかきむしりたくなるような感情に襲われて、パニックになってしまうこともある。何をもって回復したと言えるのだろう。

自分でも自分の状態がわからないので気持ちが悪い。だからこうして文章を書いて、自分の状態をメタ的に認知したいという気持ちがある。いずれこの期間に書いた文章をすべて読み返した時に、また違った形で今の状態のことを振り返られるのではないかと思う。

それにしても、文章を書き続けることは難しいことだなと思う。ここ数日、毎日更新してきた療養日記の更新頻度を下げた。公開する頻度が下がっただけで、一応毎日書いてみてはいるのだけれど、途端に上手く文章を書くことが出来なくなったように感じる。以前までは書き始めたら、手が止まらなくなっていたが、今はなかなか思うように言葉が出てこなくなった。一度立ち止まると文章を書きにくくなった。

だから、今日はまた、思うがままに書いてみる。うまく言葉にならなくてもいい。頭で書くというよりも手だけで書く。考えるよりも先に出てきた言葉を、そのままキーボードにぶつけていく。だらだらとした文章が続いているかもしれないが、あしからず。そういえば第一回目あたりもこんなふうにして書き始めていた。特に文章を読み直すこともなく。

そんな、自分だけの文章なんて、勝手に日記でやっていればいいのかもしれないけれど、note上で書くのと、ただ自分のためだけにWordで文章に書いているのとでは、どこか自分の中から出てくる言葉が違う。これって何なんだろうなと思う。Wordで書くのも、noteで書くのも、どちらも主旨としては自分の気持ちを整理するための文章なのに、なぜか言葉が変わる。もちろん他人の目に触れることが前提だからというのは間違いなくあるけれど、誰かの目に触れるということを認識しているからこそ出てくる言葉があるのだなと思う。自分一人で、自分のために、自分だけの言葉を綴ることで見えてくるものもあるけど、人目に触れるということを前提に書くからこそ、自分自身のことに気がつけるという部分もあるのだろう。人の目を気にせずに書くということとは矛盾するけれど。

あれこれ言ったところでそんなことはどうだっていいのだけれど。こうやって毎回文章を書いていて思うことだけど、「回復してきている」という言葉をこれまで何度も何度も書いてきているような気がする。いったい誰に向けて言っているのかな。そんなふうに無理に大丈夫と言い聞かせなくてもいいんじゃないかな。別に回復してなくてもいいと思うし、焦らなくていいし、状態は良くなったけど、まだまだ不安でどうしたらいいかわからない。年が明けることを素直に喜べない自分がいるのもまた事実。それでも完全に立ち止まっているわけではなくて、少しずつ新しいことを出来るようになってきているからそんな自分と一緒にゆっくりやっていければいいなと思う。

鬱になってから様々なことを感じて、考えて過ごしているけれど、今はその内の3%も表現することが出来ていない。

この苦しみも、悲しみも、しんどさも、やるせなさも、その中にある幸せも、いつか消化して、絶対に何らかの形で昇華させたいなと思う。今までだってそんなふうにして生きてきたんだから。

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