音楽の花嫁_表紙

【長編小説】音楽の花嫁 7/19

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おじいさんの家は相変わらず、リフォームした両隣の家に尻込みするように庭木に埋もれてひっそりと佇む日本家屋だった。ここに来るのは中学生以来だ。景色を映す自分の目は育っているのに景色の方が全く変わらずそこにあるなんて不思議だった。でもそれこそおじいさんが待っていてくれる感じがして好ましかった。
 私は適当な木の枝を拾うと縁の下へ向かった。セーラー襟を自分の顔に引き寄せマスクがわりにして、縁の下に目を凝らす。このあたりにおじいさんの置き土産があるはずなのだ。蒸された空気と埃が私の顔を襲う。目をつぶってでたらめに枝を振り回すと何かが引っ掛かった感触があり、見覚えのある巾着が出て来た。小さい頃はやけに胴が太った変なペンギンの柄だと思っていたその巾着は、今見ると、結び目がほどけるようにするすると新しい見かたで現れ、正しくは亀だったのだと判明した。私がペンギンの胴だと思っていたものは上から見た亀の甲羅だったのだ。同じものを見ているけれど見ている私が育っている。おじいさんが死にかけているのに私は何をやっているのだと笑った。
 巾着の中の鍵で果たして玄関の扉は開いた。ときどき母が風を入れに来ていると言うがやはり家の中の空気は人の肌に触れたことが無い様子で私に慣れ染まずひんやりとしていた。
「おじーちゃーん」
 意味は無いとは分かっていても呼んでみると、声の分だけ家の空気が奥に逃げて行く気がした。その空気を追い奥へと進む。この家はL字型になっており、二辺を家に囲まれた庭の真ん中には物置がある。玄関から入ってすぐの応接間も見てみたい気がしたが、もしまだ勲章があったらと思うと怖かった。先に物置を見に行こうと思う。食堂を通り――食卓にはいつもみかんやらせんべいやら漬物が並んでおりダイエットが趣味の母が管理する我が家ではありえない光景だった。でもそうやって食卓の主のようにはべっていた食べ物の類が今は忽然と消えて家具だけが同じ配置で残っているので、博物館に展示されている住居のようでおかしい――先ほど掻き回した縁側を越えて庭に降り立つ。物置は二畳くらいだろうか、小学校の校庭にある百葉箱が大きくなったような古びた木製の小屋だ。中にはよく分からない農具や祭の時しか使わない法被や旗など雑多なものが詰め込まれており、小さい頃そこに入ってじっとしていると自分も古ぼけた何かになったようで楽しかった。ここで眠り込んでしまい家中に探されて大騒ぎになったこともあった。この家は改築を経てこのL字型になったそうだが、物置は家がI字の時からあるらしく、おじいさんはよく「物置とは同級生なんだよ」と言っていた。背の高いおじいさんはよく頭をぶつけていたが、物置の高さは今の私の身長と丁度同じくらいだった。おじいさんより物置が長生き、ということになってしまうのだろうか。
 鈎針型の金具の先を輪状の金具から外すと開くタイプの扉だった。携帯の画面の光を使いながら留め具を外し物置を開けた。ぐぎぎぎぎ、と魘された人の歯ぎしりのような音を立てて扉は開いた。なぜだか私にはそれがおじいさんの断末魔の叫びに思えて身震いした。まさか今おじいさんは腹を開いて手術したりしていないだろうか。でもおじいさんは病気ではなく老衰なのだから手術はしないはずだ。
 物置からは気持ち悪い空気が出てくるかと思いきやなぜか外の空気を吸い込んで新鮮なものに更新されていくように感じた。私が玄関を開けた時に逃げた空気もここに向かっているように思われた。
「おじーちゃーん」
 もう一度小さく呼んでみると井戸に向かって叫んだみたいに声が下に吸い込まれていく気がする。私は昔のように物置に身体をおさめてみた。少し迷ったが、内側から物置を閉めてしまった。光が完全に遮断されて胃袋に入った食べ物のような気持ちになった。そう思うとなんだかやっと私は安心した。スカートが汚れるのも構わず物置の真ん中に座り込んだ。昔と同じように、今ではあまりしなくなった体育座りをする。
 今日がやっと終わりつつある。
 おじいちゃん、今日は最悪の日だったよ。部長にはハブられるし紺野にはフラれたかもしれないしお母さんにはキレられるしお兄ちゃんにはミーハーファン呼ばわりされるしライヴに行ったら変な人に絡まれるし挙句の果てにおじいちゃんが死にかけてるのに電話に気付くのが遅れてもう会えないかもしれない上にお母さんに人でなしって言われたよ。疲れたよ。
 まるで消化液に溶かされるように意識がぼやけて眠くなってきた。そう言えば私はここに泊まる気で来たのだろうか? 食べ物も冷房も無いのに空き家に泊まろうとするなんて。考え無しな自分に呆れてハハハと声を上げて笑った。しかし冷房でも効いているのかというほどこの物置は涼しかった。というより、風がある気がする。足が寒い。私は昔やったように右手を横に伸ばして手探りでおじいさんの古いコートを見つけると膝の上にかぶせた。何年空いても同じポジションに同じものがあるのが有難かった。コートは相変わらず草や土のいい匂いがして私は当時アニメでアルプスの少女が干し草のベッドで寝るシーンにひどく憧れていたのでこの匂いを嗅ぎながらそれになりきっていたことを思い出した。
 おじいさんが死んでしまうかもしれないのは悲しかったが、おじいさんが今苦しんでいるとしたらそれはもっと痛ましかった。もはや目も開かず耳も聞こえず昏睡しているおじいさんの意識や魂というものがあるならそこに寄り添って、「ここにいるよ」と伝えたかった。せめて楽器を買ってくれたお礼を言いたかった。オーボエは、高い。家族でちょっとした海外旅行に出かけられるほどの値段がする。中学に上がり吹奏楽部に入りたくなった私が値段を告げると母は渋ったが、おじいさんがすぐにポンと全額出してくれた。その次に兄がギターをねだると母はやすやすと買っていたのに。とにかくあのオーボエには六年間お世話になった。
 胃が地の底にくっついたかのようにお腹が空いてきた。でも動く気は無かった。私も少しでも一緒に苦しめばおじいさんの近くに行ける気がした。そうだ。断食だ。子供の頃のように、見つけてもらえるまで、尻が床に貼りついたみたいにここにいよう。死ぬまで母も兄も紺野も私を見つけてくれないかもしれない、でもそれならそれで、そこまでだったということだ。
 餓死、という言葉がきゅるきゅると降って来て頭の上から突き刺さった。昔本で読んだ、アウシュビッツの収容所で収容人数を減らすために自殺を強要され、他の人を助けるために進み出た牧師が「餓死室」に入って死んだという話が浮かんだ。餓死なんて数ある死因の中でももっとも精神の鍛錬が求められそうだ。そんなことに耐えられる人なら生霊のひとつでも飛ばせるだろう。きめた。私はもうここから動かない。もう何も無いのだから、ここの外に出ても仕方無いじゃないか。
 後生の居場所と決め込むと闇に慣れた目が猛禽類のように冴え出してものが良く見えるような気がした。古ぼけた色合いの農具の中、きらりと光るものがあった。それは物置の支柱に沿って床と壁の間に縦に挟まり込んでいる銀色の棒だった。なんだか気になり、横着して座ったまま引っこ抜こうとしたがびくともしない。立ちあがって腰を入れて両手で引っ張っても、まるで地面から生えているんじゃないかというほどにしっかりと挟まり込んでおり、しかし私が本気を出すと唐突に抜けた。低い天井に頭をしたたか打ちつける。この金属の棒はこの物置の大事な構成要素で抜けたら崩れてしまうのではないかと思ったが今のところ大丈夫だった。棒の埃を払ってみると
「……これは」
 私には見慣れた楽器、フルートにしか見えなかった。ただしタンポもぼろぼろで動くキーはひとつも無いどころかどろどろに溶けてケロイド状に固まり二度と開かないようになっている。床に刺さっていた側は錆びており触るとじゃりじゃりと十円玉の匂いがする粉となり崩れ落ちた。楽器をやっていた身としては動物の死体を見るくらいに痛ましい、でも一体どういう道筋をたどってこんな哀れなフルートがここに刺さることになったのだろう。
 なんだか他にも変なものがあるんじゃないかと思い、あたりを見回した。立っているとますます寒く、足元を見ると丁度私が座っていたところに私の家の台所にもあるような床下収納の扉があった。風はここに向かって吹いているように思った。でもだとしたらこれはどこに続いているのだろうか。扉はぴったり閉じられているのに風が通って行くように感じるのも不思議だった。扉には取っ手が無く、爪を立ててみたが開けられない。
 その時、フルートを抜いた側の物置の壁がびしり、と音を立ててこちら側に迫って来た。小さい頃遊園地で乗ったビックリハウスのように、安っぽい何かのトリックかと思ったがそうではなく、次は天井が私の頭を殴るようにばしり、と低くなった。私は慌ててしゃがみこむ。扉から逃げようとするももう歪んで開かない。あのフルートを引っこ抜いたせいで物置が壊れてしまったのだろうか。物置全体がぐらぐらぐらと言いながら地中に潜ろうとするように更に天井が低く落ちる。私はもはや伏せた猫のようにうずくまっている。丁度全身が床の扉の上に乗っている。まさか死んだりはしないだろうけれどこの崩れ方はおかしい。まるで私を閉じ込めようとしているのかのように、箱を畳む要領で縮小しているのだ。
「アヤメ!」
 もはや目玉が貼りつきそうなほど接近している床の扉の向こうから声がした。おじいさんの声のような気もしたが私と大して変わらないようなもっと若い声な気もした。今日はよくアヤメと呼ばれると思った。風はもう物置全体を吸い込もうとするかのように扉へ向かって吹きすさんでいた。
「アヤメって?!」
 私は扉へ向かって大きな声で聞き返した。すると暗証番号が揃ったように扉が下方向へ開いた。全身を扉の上に乗せていた私は落とし穴に嵌まったように、そのやたら眩しい扉の先へ落ちて行った。


眠ったと思ったらわけの分からないところで起きた。光が眩しくてたまらない。目を開けて見渡すと、塗り絵の塗る前の絵みたいに単純な線でさっと描かれた地平線と山だけのひどく手抜きな世界に、私はいた。尻の感触からすると落ちたところは草原のようで、でもいかんせん線と色をけちった世界なので見かけは画用紙のように白い平野だった。とにかく落ちたところが柔らかくて良かった。七十年分くらい落ちたような気がする。着ていた制服は速度に負けて色素が飛ばされたように真っ白くなり、ところどころ歴戦をくぐったようにほつれたり焼けただれたりしており、これはこれでかっこいいんじゃないかと思った。
 ぐるっと見まわすと私の真後ろにはブロッコリー、というより真っ白なのでカリフラワーがものすごく大きく育ったような樹木があった。幹の部分は人が何十人も入れるほど太く、実際大きくくりぬかれて人が出入りできるようになっていた。中から作業着姿の男の人が出て来ては、大きな袋や箱をどさりと投げ置く。ゴミか何かだろうか。その中に大きな姿見がある。私は自分の姿を確かめたかった。走って近付き、それを覗き込むと、この世界に来て初めての色が目に飛び込んで来て驚いた。
 鏡の中にはきちんと肌色の肌をして頬や唇には血の色を通わせ、襟とスカートが紺色の制服を身につけた私が映っていた。
「もしかして、私、死んだの?」
 天国には色が無いとどこかで聞いたことがある。色のついた私は答えた。
『大丈夫、今は生きてる』
 自分の口が自分の意志と連動しないで動くのを見るのは奇妙だった。試しに私が右手を出すと相手は左手を出し鏡を介して手の平を貼り合わせた。逆の手もそうした。頬を鏡につけると相手の頬とくっついた。するとお腹がいっぱいになったような幸福に満ち、動きたくなくなってしまった。しばらくそうしていると
「その棺、お嬢さんの? 持ってってくれる?」
 木の幹から出て来た作業着を身につけた背の低い男の人が言った。おかっぱの髪型と、木から出て来たところから、どんぐりっぽいなと思った。なぜこれを棺と呼ぶのだろうか。
「お嬢さんのだろ? そんなにぺったり同調して」
 訳も分からず頷くとどんぐりは姿見を持ち上げてひっくり返した。姿見は実は姿見ではなく厚みを持った箱で――この世界は影が無いから奥行きも認識しにくいのだ――私そっくりの人形がそこに収められている棺だった。リュックのように背負い紐がついており、どんぐりに促されて私はそこに腕を通した。ぴたりと吸いつくように棺が私の背に馴染んだ。
「もう帰って来るなよ」
 よく分からないが頷いて私は歩きだした。その言葉は釈放された囚人を見送る看守の決まり言葉だなと思った。
 奥行きの無い世界を歩けど地平線も山の形も全く変わらず、手ごたえが無かった。でも疲れることも無く永遠に歩ける気がした――だからやっぱり私は死んでいるんじゃないかとも思うのだが棺をおろしてもう一度自分に聞いてみるのは億劫だし、そもそもこの棺は他人の手伝いが無いとおろせないくらいひどく大きくてかさばる代物だった。
 飽きるほど歩くと、どこからか子供の泣き声が聞こえてきた。
「えーんえーん」
 声のする方向へ進むと、まさしく子供のお絵かきのような簡単な三角と四角で出来た家の玄関に半ズボンとランニング姿のいがぐり頭の男の子がしゃがみ込んでしゃくりあげていた。
「どうしたの」
 私が聞くと子供は小さな手の平を開いて花弁のようなものを見せた。よく見るとそれは汗と涙でぐしゃぐしゃになった紙きれだった。広げると「召集令状」と書いてありその下には五本の細い線の上に黒い丸や棒や横線が踊る不思議な暗号が書いてあった。
「読めないな。なんて書いてあるの」
 私が聞くと子供は持っていた金属の棒を横に構えその先に唇をつけて音を鳴らした。
 その途端私の目に一気に血が流れ込み、膨れ上がったかのような痛みを感じ私は瞼を閉じた。目玉が零れ落ちないかと怖れながらゆっくりと目を開けると、それまで貼りついていた膜が剥がれ落ちたかのように大量の涙が溢れ、潤った視界の中に私は新しい世界を見つけた。男の子の持つ紙は真っ赤、ズボンは緑で、金属の棒は銀色。拙い絵のようだった家は木造の古めかしい日本家屋でくすんだ茶色、そして勝ち誇るように広がる空は真っ青だった。
 その金属の棒はフルートと言い、赤い紙に書いてあるのは五線譜。なぜこんなことを忘れていたのだろう。フルートの音色はまるで温かいお風呂のように全身の肌から私の中にじんわりと染み込み、細胞の一個一個までを幸福に浸した。うっかり昇天しそうになっているとガラリと玄関が開き
「ジョージ! 人前で吹いちゃだめって言ってるでしょう!」
 叱り声がピシャリと男の子の背中を打ち音楽は中断された。
 私と、その声を発した男の子の母親とおぼしき人はしばし見つめ合った。外国人のように発音されたジョージという名は私のおじいさんの名だ。そして今見つめ合っている人は私の母親にそっくりなのだった。
「この子は戦争に行きたくないんですね」
 私がそう言うと、母親は男の子を叱った険しい顔を緩めずに頷いた。私は男の子の目線までひざまずき
「じゃあ私が代わりに行ってあげる」
と言って血のように真っ赤な召集令状を引き取った。男の子の頬もぱあっと血の色で明るく染まる。
「あなた、何を言っているの?! 親から生まれた身で、よくも、そんなこと!」
 母親が喚き立てた。でも私の心は決まっていた。もしかしたらおじいさんかもしれない、戦争に行きたがらないこの子を助けるのだ。
「汚れた娘になるのよ。誰にも愛してもらえなくなるのよ」
「いいんです。どっちにしろ私は人を愛せない、ろくでなしの娘なんです」
「何てことを言うの」
「でも本当に、そうなんです」
「もう戻って来れないかもしれないんだよ。戻って来ても、もう他人だと思うよ」
 他人だと思うよ、という言葉はさすがにこたえた。でも、ということは、やっぱりこの人は私の母親なのだろう。
「……でも、私に出来る親孝行なんてこれくらいだと思いませんか?」
 母親の表情を見れば明らかだった。目を強張らせ鼻に皺を寄せて威嚇する動物のような表情を作っているが、口元はゆるんでおり安堵を隠せずにいた。私より、ジョージという子供を戦場に出さずに済むことを望んでいるのだ。
「バチ当たりな子だね! 好きにしなさい。もう死んだと思うからね!」
 玄関の扉が勢い良く閉められた。男の子は不安そうな目つきで私を見上げていた。
「大丈夫だよ」
 私は男の子の頭をなでた。閉ざされた玄関の先にまだ母親が立っているのがガラス部から見えた。そのシルエットがわなわなと震えている。嗚咽が聞こえる。母が泣いている。私のために。それだけで私はもう十分嬉しかった。
「あの子を、大事にしてあげてください。あの子に好きなだけフルートを吹かせてあげてください」
 そのために私は来たんです。
 閉ざされた扉へ向かって声をかけると私はきっと踵を返し歩き出した。
 一度捨てた身体でも誰かに必要とされるならこれほど嬉しいことは無い。何度でもまた捨てに行こう。





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