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パラレル・ワールド

決定論の概念の存在により、自分が信じる思想に信憑性が加わり嬉しく思った。
しかしコースの理念はとてもそんな中途半端なものではない。
決定論を部分的に見ているのは、コースからすると何も理解していないのと同じである。
コースの理念は多くの人に浸透するには、あと500年は掛かると言われている。
暫くは世界的にマイノリティ思想である事は自覚していなければならない。

コースの実践は原罪を顕在化させるゆえに、慎重さが必要なのだ。
この理念を受け入れないと言う姿勢は、潜在意識でその原罪の恐怖から逃れようとしているのである。
それはそれぞれのペースで進めるべきものであり尊重しなければならない。
(と、言うようなことをイエスは言っている。)

また、いくら未来は決まっているという決定論が正しいとしても、並行世界や世界線と言われる思想、いわゆるパラレルワールドの存在の可能性もあるので、それも加味してこの世を見ていく必要がある。
しかしこの確かめようのない事実、わたしはホログラム状にあると言われるパラレルワールドの世界が無いと断言出来ないだけで、あると確信しているわけではない。

どうせ幻想なので、この世をどう正しく理解するのかは大して重要ではないかも知れないが、腑に落ちにくいパラレルワールドの現象について少し考察する。

初めに結論を言う。
この世は結局プラスマイナスの世界なので、何を選んだところで人が幸せになれない事実は変わりない。
この世界は何も生み出さない。
どう転んでも本当の平安は得られない。

平行世界はいくつかの選択があるだけで、それは決して無限ではない。
それぞれもすでに終わっており、それ以外に自由に作れる未来はない。

例えば、
パートナーにAさんを選んだ人生はトラブル続きで相手との関係性も悪くなり不幸な一生だったとする。
もう一方、Bさんを選んだ人生は経済的に不安もなくお互いに思い合える比較的幸せな一生だったとする。
そのような、同時に二人に求婚され、出した答えにより進む道が用意されている二つのパラレルワールドがあったとする。
その選択の決断の地点があると仮定する。

おそらくBさんを選んだ人生の方が賢い生き方と言われる。
結果が分かっていれば殆どの人はBさんを選ぶ。
占星術やアカシックレコードを読み解く人がいればそれを駆使してこの世界で最善だと言われる結果に近づくような決断をするはずだ。

しかし長い魂の旅から見ると、それが本当に正解なのだろうかと思う。
一見幸せな人生で、何を得られ何に気づくのか。
ハズレのような人生で、何を得、何に気づいたか。

いくつもの人生は、何の為にあるのかといえば、わたしはこの世の矛盾に気づき、目醒める方向に向かうためにあると思う。
貧しき人は幸いなりと唱えてきたイエスは、赦す事による贖罪のために時間はあると言う。

わたしはこの世界で学ぶ(身になる)ことなど何もないと思っている。
使命なんてものも無い。
この世で起こる事は全て意味のない夢であり、天国に戻ればこの世の記憶など跡形もなく消え去ると思っている。
天国とはそんなところ(そんな精神状態になるところ)だと思っている。
この世界で何かを成し遂げ、成長しなければならない事など何もない。
私たちは本来完璧な存在であると言うことは、そう言うことなのだ。
間違っても自我のあなたが素晴らしいとは言わない。
私たちは何も足す必要はなく、何も奪われることはない。
この世で私たちに必要なものは何もない。
ただ、目醒めれば良いだけのこと。

この世の愛情など所詮は選択的で条件付きの思いで覆われているものに過ぎず、比較や哀れみの情であり、天国の神の愛とは別物で、比べ物にもならない。

ただ、自我の世界もまんざらではないと思わせるぐらいの気分を味わうだけで、結果的にその餌によりこの世界に巻き込まれ、世界を強化して益々抜けられない状態に陥らせる。

これは罠なのだ。
この世の幸運とは自我が消滅されないために仕掛ける罠だ。

とは言え苦しかったり辛かったりする事は肉体を感じる以上わたしも嫌なので、迷わず当たりの人生を選ぶだろう。
するとプラスとマイナスの原理が働き、誰かがハズレの人生を送る事になる。
この世は初めから一定の制限のあるエネルギーしか存在しないのでそれを分け合うしかない。
そしてそれはカルマとなり、別の生ではハズレの人生を送る事になる。
一なる神の子なので結局みんなが平等に幸せでも不幸でもない人生を送る。
そしていつの間にかエネルギーを分け合うことが奪い合うという感覚になってくる。
すべては茶番である。
この世はそんなものだと思っている。


正しいパラレルワールドの選択とは、決断の主体という項目でコースがきちんと教えている。
どう転んでも平安はないという表現は厳密に言えば間違っている。
正しくは自我による思考、自我の世界観内での選択ではどちらも平安はない。

実はわたしたちの存在である魂とか霊は、思考することは出来ない。
(ならなぜ神と分離しようと思ったのかと言う疑問が出るが、所詮分離は無理な話で起こっている現象も幻想なので実際には起こっていないので検証のしようがない。と、言うような事をイエスは言う。)

思考する事ができないわたしたちは、ちょうど二人乗りの自転車の後ろの荷台に横座りでちょこんと乗っている状態であり、自転車を漕ぐ者(思考をする者)の腰に腕を回して振り落とされないようにしている。
その漕ぎ手は人類の発生以来ずっと自我が幅を利かせている。
それが自我の思考で人生を送っている状態である。
その漕ぎ手を聖霊に変えろとイエスは言う。
聖霊とはこの世に神が送り込んだ正しい見方と思考を持つ何かであり、わたしたちが見ている罪悪感による現象を取り消していく。
どの現象にもすべて取り消すための訂正が備わっている。
神はこの世界を終わらせる時、その訂正も同時に行い、それらも含めて全て終わらせている。

終わった世界を夢として見ている私たちのできる選択は、自転車の前方に座る漕ぎ手を、自我か聖霊か、どちらにするか選ぶだけなのだ。
実際わたしたちは考えることができないので余計なことをする必要はないし、考えようとすれば態度のデカい自我がしゃしゃり出てくるので、聖霊の存在を思い出し、助けを求めて委ねることが最善の行為なのである。

それが自我の思考体系から聖霊の思考体系に変更するというコースの基本的姿勢であり、奇跡であり、救済であり、贖罪である。
聖霊に委ねることが私たちにできる唯一の決断の主体である。

その時に起こるパラレルワールドの移動が時間を短縮させる。


この幻想の世はとても複雑である。
混沌として簡単には正体を明かさない。
それは真理のシンプルさとは正反対だ。

⭐️ このお話は基本的に奇跡のコースの理念に基づくものですが、独自に思考を加えている部分もあります。

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