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心理学的決定論

『我々には自由な意志など存在しない。
全ての行動は意志で決まるのではなく、環境との相互作用の必然的な帰結として決まっている。
我々は自主的に生きているのではなく、環境からの作用によって「生かされている」。
我々は操られている。
我々は神、つまり環境と身体の相互作用によって生じる脳内活動という不可避で圧倒的な人間を操作する力の奴隷なのだ。』

〜光文社新書「未来は決まっており、自分の意志など存在しない。」妹尾武治著より抜粋。


心理学にとっての常識というわけではないが、ひとりの心理学者によるこの考えは、イエスが語るコースの原理と重なる。

世界はその人の脳内だけに存在し、すべて事前に決まった脚本通りに展開されている。

唯識を唱える仏教の世界観だと著者は書いているが、
イエスだって生前きちんと遠回しに語っている。
当時はイエスを囲う環境が厳しすぎて間接的にしか言えない内容であった。
だから律儀に2000年経って丁寧に説明しに来たのだ。

所詮幻想だからとイエスはその原理を重要視はしていない。
さらっと説明して、ただ「赦せ」とだけ言う。
重要なのはその幻想を作り出した張本人である私たちが自ら赦して取り消していくことであり、それが心の平安につながるからだ。
ひいては覚醒に至り、悟りを開く。
いずれ天国に戻るまで、時間のない実相の場で平安に過ごす。
そこには本当の自由がある。
イエスはもっと先を見ている。


「ビッグバンの始まりからあなたがこの本を手に取る事は決まっていた。」と話すこの心理学者によると、いろいろな分野でこの世界を丁寧に分析していけば、結局はどう足掻いても決定論の原理に行き着くのだそうだ。
万人が受け入れ難い理念ではあるが、この世がバーチャルだという真実が浸透するのがそんなに遠い未来でなければ良いなと思う。
わたしはもっと、こんなことを笑って話せる相手が欲しい。

心理学者でも何でもないわたしが、本の内容をとやかく言う資格はないし、きちんと説明できるほどすべてを把握しているわけではないので、ここでは本の情報の詳細は割愛する。(ただめんどくさい)
興味のある方は是非読んでいただきたい。
科学からかけ離れた、常識では括れない面白い読み物であり、しかしきっと、「これこそ幻想の読み物だ」とは一概に捨て置くことはできなくなる。
どこか、どうてしも気になってしまうのだ。
人の心がある限り。

本の内容にケチをつけるわけではないが、コースの原理を基にわたしなりに少し付け加えさせてもらう。

私たちは決して操られているのではない。
肉体と一体化してしまっているためそう錯覚しているだけだ。
本来は幽体離脱した状態が近い。
一流のアスリートが体験するというゾーンに入った状態も然り。

ゾーンに入り離れたところから肉体をコントロールできていると思っているのはそもそも勘違いであり、また戻ってコントロールしないと、焦ることも無駄である。
あなたが急いで肉体に戻らなくとも現象は粛々と進んでいく。
実際はそうではなかったか?

私たちの実在はただ心であり、魂(または霊)であり、光である。
自分だと思っている肉体は充てがわれた役に過ぎず、それもただその人物として世間を「見ていること」しかできない。
そして私たちの心は悲しんだり喜んだりして揺り動かされている。

身も蓋もない言い方で申し訳ない。
一流のアスリートにとっては、血の滲むような努力が浮かばれないと怒りを覚えるかも知れない。
しかし遠い昔に書いた脚本通りに展開される事象は、悪人も善人も一つの神の子が分裂して個として見ている現象にすぎず、本来は悪人も善人もない。
苦しい努力もまた、肉体が勝手に動いている現象と一体化した心の疲労である。

ただ、だからと言って素晴らしい活躍を賞賛するなと言っているわけではない。
賞賛されるのも脚本の一部であるなら、罪人が罰せられるのもそれもまた脚本の一部である。
甘んじて受けるが良い。
これらは断じて犯罪を擁護するものではない。
それがこの二元性の世界の理(ことわり)であり、
ここに生きていると思っている者にとっての責任であり、
それもまた変更不可能なのである。
自身の肉体を含めて外側にあるものはすでに起こっている結果であり、何があっても脚本通りに展開され、変わらない。

その原理が浸透して世間が退廃的になるのなら、それはそんなシナリオが用意されていたからであり、だれの責任でもない。
ただ赦していけばいい。

犯罪者役を引き受けたのなら、この世の慣わし通りに体には罰を受けさせ、心は自由であるが良い。
あなたが見ている自分と思っている体のする事をすべて赦すのだ。
それは光であるあなたにとっての真実ではない。取り消していくものである。
これは幻想の世を見限るチャンスである。
「善人なおもて往生を遂ぐ。いわんや悪人をや」とはこの事であり、
「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。 」
とはまさにこの事である。

一緒に赦している者は必ず存在する。
それが真のコースの実践者である。

そしてまたこの文章もわたしの脳内だけで起こっている事象であり、
実際は誰にも届かず、誰かに認められる事はない。
ただの自己満足で自画自賛な茶番劇である。

コースの論理では自我である意識さえ幻想とされる。
心理学で言う心とはこの範疇をいい、実は幻想を相手にしている学問なのだ。
突き詰めれば人の考えられそうなものはすべて幻想である。
脳もそして宗教さえも。
なんとコースの原理でさえも。
天国(の御膝元)以外はすべて幻想だ。

赦していく(取り消していく)事とはいずれ原罪を見つめていくことになり、
核心に迫れば迫るほど多大な恐れが生じる。
コースの実践は一人で立ち向かうのは危険を伴うため、どうしても聖霊の助けが必要になると言うことを明記しておく。

無駄かも知れないけど。


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