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全裸の呼び声 -おまとめ版- #ppslgr

 雨が降っていた。汎人類が未だ目にしたことがない、名状しがたき汚濁の雨が。雨は西欧とも亜細亜とも異なる建物群を、しとどに濡らし汚していた。そしていびつな建物が立ち並ぶ街路を、お世辞にも薄汚いとすら言えない人影がまばらに行き交う。ここは、汚濁の街だった。

 そんな忌まわしい街の道を、白衣の男が走る。名をハカマダという。
 ハカマダの白衣はすでにどどめ色に染まって重くなり、彼のメガネは吐き気をもよおす邪悪な色合いのしずくに覆われて視界をさえぎり、底抜けた革靴が踏み散らす水たまりは玉虫色の油膜でもってハカマダの姿を写し取った。それでもなお、ハカマダには走らなければならない理由がある。

「ハァ……ハァ……ハァ……」

 ハカマダにとってこれほど走らされる事態はいつ頃であっただろうか。所属大学主催の運動会にて、同僚から押し付けられた1キロマラソンの時よりもなお走っている。足がもつれ、息が乱れた。

 もはや歩いていると表現するのも大げさなほどよたついたハカマダは、右手に現れた路地裏にもんどり打って滑り込む。もう限界だった。ハカマダは手をぬらつく石壁について、荒く息を整える。

「畜生……ちくしょう……っ!」

 果たして、何を罵倒すると言うのか。やり場の無い感情を吐き出すハカマダが顔を上げると、水滴に歪められたメガネの向こうに見覚えのある顔が2つ浮かんだ。同僚だ。共にここにやってきた、ハカマダの。

「サギシタ!タナボタ!良かった無事だったんだな!?」

 見知った顔に喜び勇んで駆け寄ったハカマダが、異常に気づいたのは自身の汚れたメガネを白衣の裾でぬぐった、その時のことであった。

二人は、全裸だったのだ。

「ウッ、ウワッ、ウワアアアアアアアアアッ!ゥアアアアア!?」

 おのれの想像を超えた感情に転倒して、かつての同僚を見上げるハカマダに対し、二人は何の反応も示さなかった。二者は白目を剥き、生気がなく、土気色の肌を惜しげもなく晒して、路地裏に立っていた。自我が、感じられなかった。

 もはや立つこともままならず後ずさるハカマダの視線の先。おぞましい色合いの雨煙に曇る路地裏の彼方より、さらなる何かが姿を見せた。

 全裸の、大男だった。

 その風貌は人間離れして歪み、眼球は飛び出気味にぎょろつき、おおよそ既存の生物からかけ離れた骨格を有していた。かろうじて、人型であり、男であることだけがハカマダにも理解出来た。大男が口を開き、鬱蒼とした声色でハカマダを憐れむ。

「おお、哀れな非脱衣者よ。ヌシの仲間は既に露出の祝福を受け……歓喜と共に、我らの同胞となった。そして貴様にも同様に、我らを愛せし大いなる露出者の祝福を授けてしんぜよう」

 大男はそう言祝ぐと、おもむろに節くれ立つ野太い腕を伸ばし、ハカマダの頭部をわしづかみに吊り上げる。逃げる隙さえなかった。必死に大男の腕を掴んで抵抗するも、大木めいてぎしりとさえしない。ハカマダは叫んだ。

「やめろ!やめて!許してくれ!許して!」
「ろーん、ろーん、あらぐ、ねま、ねくまらど……我らが偉大なる原初の露出者よ……これなる哀れなりし非脱衣者に、真なる開放と露出を授け給え……」

 大男が言葉を紡ぐほどにハカマダの身体は幾度となく痙攣し、モリにて貫かれた魚めいてのたうったが、それもすぐに収まる。絞首刑の死体同然に垂れ下がるハカマダ。その身からあらゆる衣服がほどけ、花びらのように舞い散っていった。

 おぞましき雨霧の闇をひかりが切り裂き閃いたのは、その時だった。

 瞬間、彗星のごとききらめきが、大男がかかげし腕を射抜いた。すると、あれほどびくともしなかった拘束からハカマダの身が解き放たれ、汚濁の路面へと転がる。ハカマダはピクリとも動かない。

 急襲をかけた光は、対面の壁に反射したかと思えばくるくると宙返りの後に拳を大地にたたきつけてしなやかに着地してみせる。

全裸だ。中年男性の。

 乱入者の全身はこの暗雲低迷の街にあって春の日めいてほのかに光り、その局部は夏の太陽のごとく煌めいていた。輝ける全裸中年男性は精妙なる闘志をともなったまなこで大男をにらみつけ、公的に知られる格闘術とは全く異となる構えを取る。

「やはり露出会……おヌシらが暗躍しておったか!」

 一方、大男は蹴りぬかれた腕を自らへ曲げ、手のひらを凝視したのちに握り込んだ。その目は煌めく全裸中年男性を見てはいない。だが、くぐもった声で大男は光れる全裸の詰問に応じた。

「その姿……輝ける全裸戦士、光の露出者、か。逆に問おう。ヌシほどの露出を極めた真なる露出者が、なにゆえ惰弱なる非全裸の肩を持つのだ?生命とはもとより裸体で生まれ、全裸にて生きるモノ……それが自然の理なのだ。それなのに、哀れなりし非全裸の着衣者共は着衣によって自然のことわりから離れ、露出から背を向けるばかりか全裸を悪徳の振る舞いと断罪し、ひかりさす場から追放さえした。なんたる傲慢!なんたる暴虐!答えよ光の露出者、これほどの仕打ちを受けてなお、ヌシは非脱衣者の味方をするというか?」

 全裸の大男、いわば全裸入道ともいうべき人類と異形の境界線に存在するモノの糾弾を、輝ける全裸は一笑にふした。

「笑止……!極限の露出とは自身の葛藤を自らの意思でのりこえ、己の覚悟でもって決断した先にある人類の極地なり!対しておヌシら闇の露出者の行いたるは、一方的に意思の尊重なく露出を強要す、いわば自由の蹂躙!ましてや自然において全裸露出生命は多数派に過ぎず、それを絶対と遵奉するおヌシらこそが傲慢というものよ!」

 全裸入道は光の露出者の反論を眉一つ動かさずに最後まで受け止める。両者の間に、止むことのない汚れた雨が降り注いだ。

「よかろう、同じ露出の道を征く者同士ではあるが、やはり我ら露出会は光の露出とは相容れぬと理解した」

 全裸入道が、握り込んだ手を広げ、かかげる。

「やれ」

 瞬間、サギシタとタナボタの姿が消えた。次に現れたのは輝ける全裸の左右!二人は猛禽めいた構えで輝ける全裸者へ掴みかかる!

「裸ーッ!」
『露ーッ!?』

だがしかして、壁に叩きつけられたのは露出洗脳を受けた二人の方だった。カビた石壁に走る亀裂が、彼らが受けた恐るべき一撃の威力を物語る。

「むう……」
「一の型、拒絶の拳」

 輝ける全裸戦士の拳からわずかに湯気があがった。常人であれば一撃の元、昏倒も確実な一撃を受けてなおも露出洗脳者はよたつき立ち上がる。彼らの腕が霞む!

「裸ーッ!」
『露ーッ!?』

 それでも、大地に倒れたのはやはり二人であった。恐ろしいほどの拳。
 露出動体視力を持たぬ者には到底とらえきれぬ速さで全裸戦士はまず右側のサギシタの拳をなめらかにすり抜け肘を食らわし、ほぼ同時に反対側のタナボタへと蹴り足を繰り出して撃退したのである。

 それぞれ二撃を持って洗脳露出者は完全に沈黙。
よって路地裏は光と闇の使徒だけの舞台へと変じた。表通りを行き交っているはずの住民は、いかなる無関心によるものか覗き込むものもいない。

 両者の向き合いは銀河衝突めいた緊張感を生み出し、畳縦三畳ほどの間合いはまるで空気が凝固し質量を加重したかのごとき抑圧を生む。そして、全裸入道が動いた。

「裸ーッ!」

 独特の猿叫と共に繰り出された一撃は、ぬめつく路面を砕き撃ち抜くも、そこに光の戦士の姿はない。彼は突風に流される吹き流しのように致命の一撃を避け、全裸入道の懐へと潜り込んでいた。

 これは、全裸回避!

「裸ーッ!」
「露ーッ!?」

 全裸入道が拳を引き戻すよりも早く、伸び上がるように全裸戦士が繰り出した一撃は……現代で言うところのアッパーカット!しかして、その一撃は破城臼砲めいた破壊力でもって輝くをともない全裸入道のみぞおちを撃ち抜く!たかだかと宙を舞う全裸入道!

 だが、全裸入道もさる者。恐るべき拳撃を受けてなお、猿めいて空中回転受け身を取る。それを壁蹴り三角跳弾にて上をとる全裸戦士、疾い!

「裸ーッ!」
「露ーッ!?」

 繰り出されたのは……ハカマダを救ったあの彗星の一撃!おお見よ!完全無欠なる空中運動から繰り出されたその一撃の正体は、蹴撃である!直撃の瞬間、腕交差によって防御するも、濡れた地へ叩きつけられる全裸入道!

「ぬぅーっ……よもやこの地でこれほどとは……ヌシが光の露出者であること、惜しく思うぞ」

 素早く身を起こし、着地した全裸戦士に向かって左手を猫手にて正面に突き出し、右腕を引いて腰を落とした奇妙な構えを取る全裸入道。だが、その視線が不意に全裸戦士から、彼の後方にあるなにか別の存在へと移った。

「どうした、臆したか!」
「……残念だが、ヌシよりも優先すべきモノが見つかってしまったようだ」
「ムッ!?」

 警戒を解かずすり足で間合いをつめる戦士を、全裸入道は奇妙な跳躍でもって置き去りにし、不意に姿を消した。彼の朗々たる声だけが後に残る。

「我らの企み、止めたくば我らを追い求めるが良い……ヌシ一人で出来るものならな……」

 しばし、残心した全裸戦士であったが、追撃がないことを確認するとその構えをときハカマダへと歩み寄った。彼の目はうつろであった。

「ああ……深きそこ……露出されし……おおいなるモノが……アアーッ!」
「すまぬ……ワシが遅かったばかりに、このような……本当にすまぬ」

 戦士は届かぬ詫びを入れると、ハカマダを肩がけにし、残りの二人をそれぞれ片腕で抱え込んだ。なんと三人を一人で抱き上げてなお、その歩みはこゆるぎもしない。そのまま、彼はたかだかと雨を切り裂き跳躍した。稲光が彼の姿を幾度となく照らす。

「世界に危機が迫っておる、闇の露出による脅威が……急がねばならぬ」

 彼の姿は、汚濁の雨の向こうへと消えていった。雨天の闇に交じる光点を気にするものなど、今のこの街には誰一人としていなかったのだ。

―――――

「ワシこそが大日本露出国初代首相である!!!」

 それが今季国会開会式において、現首相がやおら立ち上がり、現天皇陛下の言葉をさえぎって己の衣服をなげうって、全裸露出行為のもと発した宣言であった。

 おごそかな開会の雰囲気において、普段はヤジを飛ばすくらいが関の山の木っ端議員ですら瞑目して儀式の進行に参加していた、その時の凶行。議会は騒然となった。だが、事態はそれだけにとどまらなかった。

「首相ばかりに脱がせてなるものか!ワシも脱ぐぞ!」

 おぞましき事態。国会議員が続々と声を張り上げ己の高級スーツを脱ぎ捨て全裸露出による発狂行為へと走ったのである。それはまるで、狼が遠吠えによって仲間同士と存在を主張しあうかのごとき所業であった。

 当然のことながら、当時の様子はインターネット上にてオンライン放送されており、日本国民も騒然となった。だが、騒然となっただけならばまだ救いはあった。あろうことか、日本国内でも続々と全裸露出に走る発狂者が続出したのである。

 実数こそさほど多くなかったものの、続出した全裸露出行為は日本を無視できない混乱へと陥れたのであった。

 そんな、直視しがたい現実をまとめたVTRを映していた、壁掛けモニターの映像が切られる。場所は西部劇風のサルーンの奥まった席で、そこには三者の人間が着座していた。

 なんとも不機嫌な様子で映像を切ったのは、品のいい紺のオフィススーツに身を包み、黒髪をアップでまとめた眼鏡掛けの女性。顔立ちはととのい、美人といっても差し支えないほどであったが、その顔には疲労の影が色濃くのしかかっていた。

「これが一週間前から今日までに起こった事件の経緯」
「わざわざ見せなくても、皆知っているだろうさ。あのバカ騒ぎは」

 あきれ果てた様子で口をはさんだのは、黒髪を大雑把に切った黒コートに黒瞳の男。身は大柄で、いかにも剣呑な、一般離れした雰囲気をかもしだしている。

「それで、何故私たちにこの一連の動画を?」

 最後に言葉を発したのは、すらりとしたシルエットで、白衣めいている朱の差し色が入った外套を着た細面の男性だ。隣に座っている黒ずくめとは色だけにとどまらず、対照的な雰囲気をまとっていた。

「政府は一連の事件を偶発的かつ無関係な事件ではなく、人為的に引き起こされたモノと推定しています」
「それはまた、ずいぶんと悪い冗談だ」
「事態は急を要しています、ちゃちゃを入れずにちゃんと最後まで聞いてください」
「あいよ」

 不遜な態度を崩さない黒ずくめを前に、政府高官らしき女性は続きを述べる。

「事態の究明のため、政府はあなたがた二人に調査を依頼したく……」
「何人死んだ」

 高官からの言葉が途切れたのち、回答があった。

「一次派遣は、十名。うち五名が意識不明の重体、四名がコミュニケーション不能の発狂状態、のこり一名がぎりぎり意思疎通が可能な物の、重度のPTSDを発症していて長時間の会話は困難な状態で発見されました」
「オゥ、死ぬよりひどい目に遭ったと見える」

 さして、関心もなさげにうそぶく黒ずくめを政府高官は横目でにらみながら話を続けた。

「事態は急を要しているのは本当です。現在国内で露出症を発症したのは、人口の約1%程度にとどまっていますが、期間あたりの発症事例の上昇指数曲線は急カーブを描いて被害の拡大を示しています。もう一週間後には総人口の約10%に達し、国内の各インフラ、公的機関の稼働に支障を来すでしょう」

 いかにも深刻である、といった要素を強調する高官に対して、黒ずくめはピクリとも表情を動かさずにつまらなさげな態度を崩さない。一方で白衣の人物は興味深いと言いたげな面持ちで説明を聞き入れていた。そして、奥ゆかしく右手を上げる。

「一つよろしいでしょうか」
「なんでしょう」
「ええとですね。緊急事態にあたって実績があるレイヴンをたてるのはわかるんですが」
「別に好きで実績立てたわけじゃないがな……」
「なんで私もなんでしょう。腕の立つ逸脱者なら他にもいますし」

 挟まれたツッコミは流されるままに、高官からの回答が出た。

「第一次調査隊の全滅を踏まえ、担当部署である我々はメンバーの再厳選を行いました。当初の想定よりも現地の危険度は跳ね上がっていると推測し、様々なトラブルの解決実績があるそこの真っ黒クロスケと、全裸露出事案について専門家であるアノート・キー教授にご同行いただきたいと我々は考えております」
「待ってください」
「なんでしょうか」
「わたし、全裸露出事案の専門家とかではないんですが」

 その時、それまで一応は流れていた深刻な空気を、散々にもぶち壊しにする気まずい雰囲気が生じた。レイヴンはそのギャップに吹き出しそうな笑いを必死に噛み殺し、アノートと呼ばれた教授はあいも変わらぬ柔和な表情で回答を待っている。一方で政府高官嬢は打って変わってしどろもどろとなってしまっていた。

「えっ、いや、でもその……実際、アノート教授は全裸露出事案について数々の実績ある論文を……」
「あれは片手間の趣味のようなもので、私の専門は娯楽歴史学です」
「それはまことですか」
「まことです」
「……こちらの不手際でございます!まことに申し訳ございません!」

 やおら立ち上がって深々と頭を下げる高官を、レイヴンは先生に謝る小学生をみるような面持ちで鑑賞したのちに、話をもとに戻した。

「実のところ、その全裸露出事案専門家とかいう頭が痛くなる存在が、他にいたとしてだ。戦えるかどうかは別問題だろう。教授は実際腕もたつし」
「そちらもたしなみみたいなもんです、専門家にはかないませんよ」
「またまた謙遜しちゃって」
「それはまあ、その、おっしゃるとおりで……」
「では、結局の所そうそうに送り出せるのは俺たちだけって訳だ。一億人もいてまったく大した人材不足だよ」

 レイヴンと呼ばれた黒ずくめは、皮肉たっぷり大げさに呆れてみせると、身を乗り出して告げた。その眼は高官を見ているようでいて、より遠くを見ていた。

「それで、いくら出す」
「報奨金としてはそれぞれ一億円を」
「十億」
「……ハ?」
「前金かつ即入金で十億円だ。でなけりゃ俺は受けん」
「個人の受注案件に十億はいくらなんでも法外で、は?」
「追加で十人死なせたときの慰謝料と同額だ。俺が行くなら最悪死ぬのは俺一人で九人分の命の分だけお安い。単純な算数だろ?」

 あまりにあまりな言葉に、政府高官の瞳孔が広がり、すぼまる。せめぎ合う報酬交渉の空気のさなか、二人の間を興味深げに視線を行き来させる教授。

「し、しかしながら、あまりにも相場から掛け離れた金額で」
「緊急事態に相場もヘッタクレもないだろ」
「だいたい、母国の危機なのにそれがあなたの態度なんですか!?」
「日本人全員の問題なら、なおのこと一人頭十円未満のお支払いだ。強制公開全裸露出させられるなら、どいつもこいつも黙って出すんじゃないか、どうだい」
「ああ、もう、あなたという人は本当にああ言えばこう言う!」

 感情のままに拳を卓へ叩きつけそうになった寸前、高官は我に返っては咳払いし、自制心を維持した。肝心の煽りに煽った側はというと、相変わらず煽った相手以外に視点を滑らせている。

「……わかりました。しかし前金ということは、成功報酬は別途要求するのでしょう?」
「当然だ。鬼が出るか仏が出るか、行ってみなけりゃわからないのに固定請求なんぞできん」
「はぁ……一個人に対して青天井では、流石に予算がおりませんよ」
「前金と合わせて上限百億で手を打とう」
「言語が通じるだけの異次元人ですかあなたは」
「ともすれば、世界安寧のお値段だ。高いとは言わせんよ」

 ふてぶてしさ有り余る態度で、レイヴンは電子タブレットを突き出した。表面には、ずらっと契約文言が並んでいる。

「納得したなら、契約書にサインと口座に振り込みを」
「待ってください、提示された契約書の査読と責任者への通達だけでも」
「どうぞご自由に。教授はどうする?」
「んー私もレイヴンと同じ条件にしようかな。いかんせんこういうの初めてで」
「あ”あ”あ”あ”ーッ!ひとのこころはないのですかあなた達は!」
「金で片がつくほど、楽な問題はないぜお嬢さん」

 そういって、標準的人間性からかけ離れた黒ずくめの傭兵はすっくと席を立った。同じタイミングで白ずくめの教授も席を立つ。

「どちらへ?まだこちらは契約するとは確約しておりませんが……!」
「来客だ、時間はかけないからよろしくどうぞ」

 いつしか、商談の卓の周りにはずらりと男たちが立ち並んでいた。針小棒大、十人十色の風体であり共通点は見当たらなかった。二人が立ちふさがる瞬間までは。

『裸ーッ!』

 男どもは一斉に自らの服を放り投げ捨て、全裸露出行為に及ぶ!騒然となり、各々の得物を掴む来店客達!そして全裸者は一糸乱れぬ武闘を構え、一句乱れぬ宣言!

『我ら覇者たる天下の露出会!我らが覇道を阻む者に死を与えん!』

「な……っ!?」
「察知されてたな、こいつら案外動きが早い」
「身が軽いのでしょう、全裸だけに」

 いぶかしむ二人に対し、全裸集団は一様に戦叫をあげて襲い掛かった。

「裸ーッ!」
「む……ッ!」

 黒ずくめにとびかかった三人が彼の目前で止まる、いな、直撃を受ける前に両手と左ひざでもって受け流したのだ。レイヴンはすぐさま両側の二人を叩きはらい、マチェットへ手をかける!

「斬るな、レイヴン!」
「チィッ!」
「裸ーッ!」

 教授の静止に一瞬動きが止まったレイヴンを、全裸男の蹴撃が襲う。側頭部にヒットする直前にて、ガードからのカウンター短打!クの字に折れ曲がり悶絶する全裸者を乗り込えさらなる猛攻が襲い来る!

「裸ーッ!」
「裸ーッ!」
「裸ーッ!」

「ヌゥーッ!」

 全裸露出者がまるで達人のごとき身体能力で次々襲い来る様は、いかにも風邪時の悪夢めいた光景であったが、自身の肉体に伝わる衝撃がイヤでも現実であることを叩きこんでくる。

「裸ーッ!」
「くどい!」
『露ーッ!?』

 突き出された正拳を受け流し、みぞおちを蹴りぬいて背後に迫る後続ごと壁にたたきつけ、右側から迫ったもう一体を返す蹴りでなぎはらう。警戒し間合いをはかる全裸露出集団に対し、残心を保ったままにレイヴンはアノート教授へ視線を流した。

「だれ一人とっても達人みたいな身体能力のくせして、格闘術はまるで素人だ。つまりそういうことか?」

 その問いかけと同時に、全裸者の一人がゴルフボールみたいに吹き飛んで天井に激突、からの垂直落下で床に叩きつけられる。教授の手には隠し持っていたとは思えない、石造りの破城槌が握られていた。

「そういうことだね。まず、初回の脱衣の瞬間にわずかな筋肉の硬直によるタイムラグが観測された。そのことから彼らはおそらく、露出洗脳によって潜在能力を強引に引き出された被害者。殺してしまうのはおススメできないな」
「というか今の死んでないか?」
「峰打ちだから大丈夫」

 そういう問題だろうか、いぶかしむ暇もなく続々と全裸者が駆けつける。

「数が!多い!」

 いかな動きが素人とはいえ、超人的な身体能力で襲い掛かる全裸露出者を殺さず無力化するのは簡単ではない。二人がリズムゲームめいて全裸者を叩き伏せるも、次々と増援が駆けつけるではないか。

 壁際でモルモットのように震える依頼者の盾となり、二人はテンポよく全裸者を叩き伏せ、蹴り飛ばし、打ちのめす。ボーリングピンめいて宙を舞う全裸集団!その裏で、正気を保っているバーの客達も、全裸刺客集団を各々叩きのめしていく!

「カァッカッカッ!惰弱な非脱衣者のクズにしてはやるではないか」

 バー店内に打ちのめされた全裸者の山が二つ三つ出来たころ、哄笑と共に一人の大男が入店する。その男は不似合いなチョビ髭に、当然のように全裸にて自身の巨塔のごとき筋肉質の肉体を見せつけ、その両手には哀れな来店客が吊り下げられていた。

「今回の本丸か、姿を見せずに洗脳客送り込んでた方が良かったんじゃないか?」
「ぬかせ!所詮惰弱なる非脱衣者に、われらの祝福をいくら与えたところでクズはクズ!送り込んだとて無駄であるならば、ワガハイが直接葬ってくれようぞ!」

 全裸髭男は両手の犠牲者を高々と吊り下げる!

「裸ーッ!」
「アアアアアアアアアーッ!?」

 おぞましい悲鳴と共に、犠牲者達の服が、はじけ飛んだ。

「裸ーッ!」

 新たに洗脳された露出者はもろともに雄叫びを上げ黒ずくめへと飛びかかる。迎撃体勢を取るも露出者の姿勢が、低い!ダイビングタックルから黒ずくめの胴に、脚に組み付く露出者。最悪である。

「こいつ……!」
「裸ーッ!!!」
「がっ……!」

 振りほどく前に、露出ヒゲの巨岩のごとき拳がレイヴンへ届く!拘束露出者と共に壁にたたきつけられる黒ずくめ!さらにそこへ、さらなる露出者が組み付き殺到していく。後に出来上がったのは男のカマクラ、男結まんじゅう!

「レイヴン!」
「カァーッカッカッカ!ああなってはもう遅い、後は我らの使徒に抱き潰されるのを待つばかりよ!」
「うわぁ、それは勘弁してほしいなぁ」
「何を他人事みたいにいっておる、次は貴様の番よ!」

 生ぬるい空気を切り裂き、露出ヒゲがアノートへ迫る。繰り出された破城槌の一撃と露出ヒゲのボディブローが衝突し、生じた余波がバーに充満する酒気を一瞬にして吹き払った。

 質量の差にて、硬直する教授をヒゲの断頭チョップが襲うも彼の姿はやなぎのようにゆらめいて受け流し、ついでに手にした槌から先端が外れ伸長し鉄杭めいたヤリへと変貌したではないか。

「ハッ!」

 ヤリは自らの灯火にぶれるロウソクの軌跡を描き、露出ヒゲへと襲いかかる。とらえがたい先端を自らの屈強なる前腕で受け流し、はねのけ、致命傷を避ける!

「やってくれる、貴様も我らの同志とならないか?着衣でこれほどの腕前であれば露出者となれば幹部も夢ではないぞ!」
「遠慮しておきます。自分でやりたいとは思ってないですから」
「フン!所詮は着衣にすがるクズか!裸ーッ!」

 露出ヒゲの拳をヤリの半ばで受けると、教授はハチドリもかくやの宙返り後転にて衝撃を殺し円卓へと着地。両者は間合いを保ったままに仕掛けるタイミングをはかる。

 だが、その緊張を破ったのは突如吹き飛んだ男カマクラの山であった。全裸男たちが宙を舞い、バーの床へと落下していく。中心から姿を現したのは、当然あの黒ずくめだ。宙返り跳躍にて彼の隣にたつアノート教授。

「気分は?」
「……最悪だ。今すぐ着衣のまま水浴びしたいくらいに」
「それは、気の毒に」

 いつも以上の仏頂面にて襟を緩める黒ずくめに対し、教授はわれ関せずと肩をすくめる。バーに散り散りに落下した全裸露出者たちは、何事もなかったかのように立ち上がり、二人を取り囲んでいく。

「ちょっと!初回の刺客も撃退出来ないなら契約の話はなしですよ!?」
「せめてもう少し可愛げのある応援は出来ないもんかね……まあ、いいか。おい、ヒゲ」
「誰がヒゲであるか!ワガハイは露出会大幹部の一人、浅瀬のカニオストロである!」
「浅瀬、ねぇ……おまえらは全裸なら無敵、そうだな?」
「その通りである!だが我らに着衣させることなど砂漠を緑化するにひとしい難行にして実質不可能!我らに弱点は実質存在せぬのだ!」

 腕組みドヤ顔で勝ち誇るヒゲを前にして、レイヴンは隣の教授に目配せした。そのまま、一歩後退する。

「『自我境域』、占有開始」

 黒ずくめの告知と共に、彼の足元から歪んだ円型の脈が広がり伸びる。それは一瞬にしてバー店内の床を覆い尽くし、一帯を呑み込んでいく。

「おい、レイヴンの『境域支配』だぞ!」
「バッカお前こんなとこで使うんじゃねぇ!」
「緊急時だ、後で酒奢るから退出してくんな」

 どよめきをあげてバーから慌てて退店する客達。政府高官嬢は眼を白黒させて事態を見守った。

「『境域支配』か!?させぬぞっ!」

 警戒し妨害のため踏み込むカニオストロの拳を、再びアノートがヤリで受ける。瞬間、ヤリが半ばで分断すれば二本の小太刀へと変わった。カニオストロは、自らに襲いかかった上下からの刃を、寸前で指白刃取りにて止める。続いて生じたのは、立て続けの銃声だ。

「露ーッ!?」

 カニオストロがたたらを踏んで5メートル後退!アノート教授は、続けて自身が手にしたリボルバー拳銃よりマグナム弾を連射する!着弾のたびに後退し壁際まで押しやられるカニオストロ!そして彼の胸筋から、平たく潰れた弾頭がぽろぽろとかさぶたのように剥がれおちた。

「ヌゥーッ、コシャク!」
「今日日、改造人間でももう少し脆弱ではないかな」
「フン!改造など惰弱なる非脱衣者のクズがすがる道よ!人類にはもとより、これだけの力があるのだ!」
「本当にそうかなぁ」
「しかし、『境域支配』……いうなれば脱衣による全裸露出行為を超えた、魂の露出行為……!こんな所に使い手がいただと?」
「おおむね間違いじゃないが誤解を招きすぎる表現をするんじゃねぇ」

 『境域支配』。それは通常、世界と自他を隔てる壁である自我境界線を拡張、空間を侵食し上書くことで、限定的に領域内の対象へ独自のルールを課す空想技巧における極致の一つである。

 つまり、今この瞬間においては『境域支配』の射程内の生命体は、レイヴンの支配下に置かれるのだ。カニオストロもまた、その危険性を理解し警戒する。

「中々驚かせてくれたが、『境域支配』は絶対でもなければ必殺でもない!所詮は子供だまし、我らに都合よく着衣させられるわけがない!」
「ところがどっこい」
「ヌ?」

 黒ずくめが指を鳴らすと同時に、全裸者の足元から一斉に枯れ枝のごとき腕があちこちから突き出た。それはカニオストロも例外ではない。

『露ーッ!?』

 生者のそれとは到底思えない枯れた四肢は、地より露出者を手がかりに這い出て彼らにすがりついていく。おちくぼんだ眼窩、乱れた白髪、血走り赤く染まった眼。その姿は羅生門の奪衣婆を彷彿とさせるが、それらは手に死装束を掴んでいた。

「ぬわーっ!?やめろやめないか!ワガハイに服を着させるな!」
『露ーッ!?』

 老婆の群れは常軌を逸した力で全裸者の群れを組み伏せ、手にした死装束を強引にまとわせ、帯を固結びにしていく。これを地獄絵図と言わずして、なんと呼ぶべきであろうか。政府高官はメガネの奥で眼を丸くしてこの世の終わりのような光景を見守った。それだけしか出来なかった。

「老婆が?着衣を?強制??????」
「奪衣婆って、読んで字のごとく服を奪うほうじゃあなかったかい」
「あまりメジャーな伝承じゃないがね。素っ裸のままで閻魔に目通りさせるわけにもいくまいて」
「なるほど、納得」

 この場に居た全裸露出者の誰もが、強制着衣老婆の魔の手からは逃れられなかった。先程までの威勢はどこへやら、誰も彼も腰砕けになり紅の文様が刻まれた床へとへたり込んだ。ヒゲのカニオストロも例外ではない。

「ヌウーッ……!なんたる屈辱、なんたる尊厳陵辱!よもやワガハイに服を着せるなどと!貴様っ、人のこころはないのか!?」
「着衣で咎める良心はねえな」
「クッ……」

 カニオストロの挙手にしたがい、着衣露出者の群れは再び二人に牙をむく。だが今となっては彼らの速度は三分の一未満、死霊の盆踊りの方がまだ活力がある程度に低下していた。もはや二人の敵ではなかった。

 レイヴンは格闘の構えを解くとだらりと両手をさげ、泥酔者を正気に返すように手近な着衣露出者から平手打ちしていく。哀れな被洗脳客は力士の喝入れでも喰らったかのように、次々と頬に赤もみじをともなって昏倒していった。バーの床は死装束を押し着せられた元露出者で埋め尽くされ、後に残ったのは、政府高官とヒゲと黒ずくめと白ずくめ。

「ええい、よせっ、来るなっ!」

 腰砕けで尻もちついたままに、カニオストロは後ずさりしながら己の白装束を剥ぎ取ろうとするも、驚くべきことにびくともせず彼の肌に張り付いている。さながら罪人に着せられた拘束衣めいているが、本物の方がまだ脱ぎようがあるだろう。

「さてさて、露出会については私も知らない事がたくさんあるから、洗いざらい話してもらいたいな」

 教授の得物はいつの間にやら最初の破城槌に戻っていた。殴り方次第では即死もなぶり殺しも可能な凶器のそれに。

「どちらも尋問は専門じゃない。とっとと吐くのを勧める」
「オノレ非脱衣者ふぜいが調子に乗りおってからに……!トゥッ!」
「むっ!」

 気合一発、カニオストロは上半身のバネだけで空中バク転宙返りから間合いを取ると、一目散に背を向け逃げの手を打つ!自身に向かって放たれた鎖を打ち払い、バーの入り口をくぐり抜け、外の人混みを猫めいてすり抜けてゆく!後を追う二人!

「裸ーッ!」
『ウワーッ!?』

 巨漢死装束ヒゲを見て硬直した、あたり一面の人間の服がみるみる弾け飛んで全裸露出者の集団と化し、後を追う二人の前へ立ちふさがる!すぐさま老婆が生えるも、露出者の数が多い!さらには無事だった来場客も、一面の惨状にパニックとなる!

「野郎……ッ!」
「貴様らッ!今日の所は勝負を預けてやるがこの屈辱忘れんからな!?」

 商業施設の通路は、みるみるうちに露出者と老婆と半狂乱客で埋め尽くされて、カニオストロの姿は遠くの方へと消えていった。やむを得ず、先に強制着衣と平手打ちによって露出者を制圧する二人。

 まるで被災地のようになった通路へおっかなびっくりやってきた政府高官は、開口一番、二人に叱責を飛ばした。

「取り逃がしたんですか!?」
「幽霊じゃないんだ、ここまで密ったら通れないっての」
「面目ないね」
「はぁ……まあ良いでしょう。あなた方が彼らに対抗出来ることはわかりました。サインはしましたので一刻も早く調査に向かってください。神奈川県川崎市多摩区登戸に」
「川崎市」
「登戸」

―――――

 川崎市多摩区登戸。特筆できる特徴は多摩川沿い南側にある、くらいであり取り立てて特徴と言えるほどのものはない、首都圏によくあるタイプの街、であった。だが、今はそうではない。

「なんだ、こいつは……」

 そもそも二人が乗った電車が、登戸駅に近づくまでの遠目でもただならぬ違和感があったが、いざ駅をおりて高架ホームより南側を見渡したレイヴンは、あまりにあまりな光景に絶句せざるを得なかった。同行しているアノート教授はというと、興味深げな視線を駅から南の方向へ送っている。

「私。登戸って初めて来たんだけど、前からこんな感じだったのかい?」
「まっさか。よくある日本首都圏の一駅前だよ。世界崩壊の再開発後ですら、昭和の匂いが抜けきらなかったような」

 二人が眼にしている街は、いな、世界は断じて現代日本の駅前などとは掛け離れた異世界だった。

 並び立つ建物の背は低く、時折場違いに高い建物が伸びてちぐはぐな影を描いている。建物群の様式は昭和の面影を残すも、無理に西欧や東南アジアの様式を混ぜ込み一つの塊に押し込めたような代物で、一つのビルですら統一感がまるで無い。それらの怪異めいた建物が、キノコの群れのように立ち並んで駅前商店街のような振りをしていた。

 ふとレイヴンが振り返った先、ホームにおりた他の人間は、明らかに現代日本のファッションとは合致しない風体だ。浮浪者でも、もう少しまっとうな服装をまとっているだろう。彼らの服装は、酷使されすぎて切れ切れにちぎれた布を無理やりつなぎ合わせたかに見える物体で、お世辞にも服と呼称出来るものではない。

 そして彼らの眼は夜の猫科肉食獣めいて爛々と輝き、異物である二人を見ては、まるで今晩の生贄を前にしたかのようなヒカリを例外なく宿していた。だが、あまりに不躾な視線に黒ずくめがいかにも不機嫌な顔を見せると、すごすごと階段を下っていく。

「最悪だ。百億円程度では全く割に合わんね」
「後学のために聞くけど、どのあたりがだい?」
「そうだな……まず、おそらくこれは現実改変の一種だ。だが、一つの街を一週間に渡ってまったくの別世界に作り変えたまま、維持するのは想像を絶するコストがかかる」
「世界が持つ常態維持性によるものだね」
「その通り」

 レイヴンは大仰に両手を広げ、世界を指し示す。

「万能全知の神がいるかはさておき、俺たちの世界は因果律によって維持されている。現実改変はその因果律、原因と結果を無視して全く違う事象を用意する、いわば現実におけるチート能力。しかし、長期間に渡って恒常的に、広範囲で現実を改変をし続けるのは、アリがクジラをずっと持ち上げ続けるようなものだ。どだい無理があるし、期間も長くて一時間程度で勝手にもとにもどる」

 まぁ、まったく異例な前例が無いわけじゃないがね、と付け加えて、黒ずくめは肩をすくめた。

「逆説的に、コレを作ったのは既存の常識を遥かに逸脱している、と」
「そのとおり。加えてもう一つ良くない話」
「なにかな」
「おそらく俺の『自我境域』、このなかじゃたぶん出せないな」

 レイヴンの言葉に、アノートは珍しく眉をひそめた。

「とはいえ、この状況で怖気づいて時間は浪費出来ない」
「そうだね、行こうか」

 二人は順番に、駅改札に降りる。駅構内は汚染エリアからかろうじて除外されているようだが、出入りする利用客の大部分は現代日本の人間とはとうてい思えない雰囲気をまとっている。

 レイヴンはその中で、正気を保っていると思しき駅員に声をかけた。駅員はひどく消耗している様子だったが、日本人特有の職務意識か現状維持バイアスか、どちらにせよこの場から離れられないようであった。

「失礼」
「ああ……ええ……はい、何か御用でしょうか?」
「この駅から南方のエリアについて聞きたいんだが」

 その言葉に、駅員は目を剝き、下をむいてブツブツ独り言をこぼしたのちにおどおど顔をあげる。明らかに憔悴しているのが見て取れた。

「気を強く持ってほしい。登戸駅前は、かつてはあのような奇怪な街並みではなかったはずだ。いつからああなったか覚えていないか?」
「そんな!そんなことを聞いていったいどうなるって!?」
「私たちは本件の調査員です。この異常事態を解決するためにここに来ました。まずは落ち着いて、あなたが見たことについて教えてください」

 ひゅーっ、ひゅーっ、と荒い呼吸音が静かな駅の有人改札コーナーに響いた。

「その、あの……確か一週間以上前のことだったと思います。私が仕事のために駅についた朝、ホームに上がった時に初めて気づいたんです。あの、アレを」
「アレとは?」
「あのおぞましい奇怪な街並みですよ!朝日に照らされてるのにああも、どす黒くうす汚れていて、行き来する人たちは日本人とは到底思えない感じで!じっ、自分が気づいたのが単にその時だっただけで本当はきっともっと前から……っ!信じてください!この駅前はっ、前はあんなんじゃなかったんです!」
「わかっている、これを見るんだ」

 レイヴンが駅員に差し出したのは自身のスマホ。板面には在りし日の牧歌的ですらある駅前の画像が並んでいた。インターネット上のデジタルデータは、確かにこの街が、以前は単なる首都圏の駅前であることを記憶にとどめていた。

「ああ……っ!そうです、本当はこんな、ありきたりで退屈な場所だったのにどうしてこんな……!」
「それについては俺たちもまだわからん。そして、あの異界の汚染浸食は少しずつ広がってきている、そうだな?」
「はい……!自分が朝この駅に出勤して見渡す度に毎日、少しずつ確実に、広がってきたんです。もともとはもっと駅から遠くにあったのに、今はもう駅前はすべて飲み込まれて……!」

 駅員は焦点の定まらない瞳で天井に視点を合わせて訴える。

「こわい……怖いんです。この駅を使う人達も、どんどんおかしな人ばかりに入れ替わって行って……このままここに居たら自分も、ああなるんじゃないかと」
「わかった、答えてくれてありがとう。もう今日は何か理由をでっちあげて自宅に帰るんだ」
「で、でも……」
「今は異常事態です、勤務を取りやめて退避しても、責任は問われないでしょう。仮にそうなったら、私たちが現状の証人になります」
「……わかりました」

 駅員は今にも逃げ出したくてたまらなかったのか、すぐに上役へ連絡を取り出した。レイヴンはここから逃げてからやるように言い含めると、外に向かう構内通路に視線をめぐらせる。可視化されぬ、しかし言いようがない異様な空気が南側から流れ込んでいた。

 意を決して登戸駅南側に歩を進めた二人を出迎えたのは、筆舌しがたいほどのの悪臭であった。酔っ払いの吐しゃ物のアルコールと酸味、肥溜めの耐え難い排泄物のそれに、どう控えめに評価しても人体に良いとはいいがたい科学産業廃棄物の刺激、しかもそれらはレイヴンがおおよそすぐに理解できたうちに過ぎず、一般的な生活ではおよそ体験することのない形容さえもむずかしい、なにがしかの匂いが多分に含まれていた。

「ウープス」
「これは ひどいね」

 二人はおのおの用意したマスクを身に着ける。黒ずくめは忍者の面貌めいた代物で、教授のそれは襟元のあたりにゆるんでいた筒状の布マスクだ。ただでさえ一般人から浮いた姿の二人だったが、より一層近寄りがたい外観となる。が、この異界と化した登戸駅前では、むしろ地味とさえ言えた。

 駅前では今時珍しい、無地の青ビニールシートを路面に広げた露天商が、得体のしれないガラクタを並べていた。一部の都市では、打ち捨てられた雑誌や、新古品などを拾い集めて転売するような浮浪者が見られる。だが、それに類する物が駅前から続く大通りの両側に、祭りの縁日めいて立ち並ぶ光景は現代日本の景色とは到底思えない。

「まるで戦後の闇市だな、伝え聞いた程度しか知らないが」
「服装もおよそ現代的じゃないけれど、彼らはちゃんと服を着ているね」
「……確かに」

 つい観察のために注視してしまった黒ずくめに、お返しとばかりに露天商達の視線が集まった。やはり、だれもかれもが獲物を見定める肉食獣の眼をしている。

 さて、だれからインタビューすべきか。負けじと品定めするレイヴンの眼に、大通りの向こうから駆けてくる人影がうつる。背は標準程度、やせ型体系の初老の婦人で、何より服をちゃんと着ていてこの界隈の連中のようなぼろ衣でもない。

「たすけてっ、誰か、だれか助けてーっ!」

 老人は年の割にしっかりとした足取りで必死に駆け、駅前に立つ二人の異邦人を認めるとまっすぐにそちらに駆け寄り、助けを求めた。

「ご婦人、落ち着いて。いったい何があったんだ」
「むすっ、息子っ、うちの息子が!」

 二人が交互になだめすかすも、老婆は半狂乱で訴える。

「ハッ……ハッ……朝っ、起きたらね、知らない奴が家の中にいて、アタシャ叫びそうになったんだよ!しかもそいつときたら天井まで背丈があって、薄緑の気味悪いぼこぼこした肌で、アタシをおふくろって呼んで……それが全然知らない声で!」
「息子さんが、まったくの別人みたいに変身していたんですか?」
「そうだよっ!それだけじゃないんだ、アタシの頭ん中になにかが、なにかが入ってきてる!いま、今この瞬間にも!なにかが!」

 老婆はフィーバー中のパチンコ台のように恐怖を吐き出し続け、そうかと思えば突如雷に打たれたかのごとくピンと背筋を伸ばし、白目を剥いて痙攣しだした。

「キエーェッ!!!!!!」

 警戒し硬直する二人の前で、老婆はみるみるうちに変質し、異質ななにかへと変貌していく。けして低くはなかった背は見てわかるほど縮み、さほどしわが多くなかった顔は千年樹めいてしわしわに、着ていたありきたりな衣服は黒霞のノイズがかった後には、まるで深い森の魔女のそれに変わり果てていた。

 託宣を受けた洗礼者めいて、落ちくぼんだ眼窩から飛びださんばかりに血走った眼を見開いた老婆は、自身の今の異常な外観と先ほどの恐慌状態を忘れてしまったかのように、落ち着いていた。そして二人の顔を交互に見やると好々爺然と笑う。

「おや、あんたがた観光客かい?こんなところに、物好きなこったねぇ」
「ご婦人、お前さん……」

 老婆の異常を問いかけようとしたレイヴンを制し、アノート教授が問いを継ぐ。

「ええ、私たちはこの一帯の郷土史を調べに来たんです。お婆さん、この辺りはその昔なんて呼ばれていたか、ご存じではありませんか?」
「ふぇ?あんたら知ってて来たんじゃなかったんかい。この『ドブヶ丘』は昔、『水溢首縊谷』っちゅー立派な名前があったんじゃがのう。なんせ、水が溢れて首をくくる……なんて不吉すぎるもんじゃて、今じゃだーれもかれも、ドブヶ丘呼びよ。まあ呼びやすくていいがねぇ」

 『ドブヶ丘』、『水溢首縊谷』。聞きなれない地名にレイヴンは1秒思案し、続いてスマホでインターネット検索をかけた。その地名は、たしかにヒットした。ただしどちらも地図情報ではない。検索結果は、SNS上のコメントだけだ。それも一年前の日付がついた、完全無欠なる与太話の。

「どういうことだ……」

 とうてい因果関係があると思えない、二つの事象をいぶかしむ黒ずくめ。

 だがその時であった。空より、全裸が舞い降りたのは。

『裸ーッ!』

 総勢六名の全裸中年男性が次々二人と老婆を中心に円を描くように着地、大地を揺らす。そして露出者たちは、一糸乱れぬ動きで秘匿された格闘術のかまえをとった。老婆は自分を取り囲んだ露出者の群れに腰を抜かす。

「やはり来たな非脱衣者!ここが貴様らの墓場と知れぇいっ!」
「幹部級ではなく、一露出者が大きく出たな」

 挑発しつつも、黒ずくめは油断なく己の得物を引き抜き、刀身を返した。同時に、包囲陣形を組んだ全裸中年男性陣は一斉に奇怪な構えを取る!

『裸ーッ!!!』

 すると何たることか、一同を包むようにどんよりと曇った闘気がドーム状結界を形成したではないか。同時に、老婆はバネ仕掛けめいて立ち上がると、自身の服に手をかけたではないか!?

「見よ!ワシの年季あふれる一大露出……っ!?」
「失礼」

 老婆がおそらくは自分の意思にそぐわぬ脱衣をする直前に、アノート教授の手刀が届いた。一撃の元昏倒する老婆。

「これ以上、場に振り回されるのは忍びないので」
「ただしい判断だ」

 二人は背中合わせに、自分たちを取り囲む露出者集団に対し戦闘態勢を取った!

「コレこそがワレらの団結の力!『暗黒露出浜結界』ダーケズム・ヌーディスト・ビーチフィールドよ!」
「全世界のまっとうなヌーディストビーチに土下座しろ」
「裸ーッ!」

 前方のうすらハゲ露出男性が踏み込む、疾い!

「むっ……!」

 音叉が鳴り響く様な長い反響音があたりを満たす。ハゲの正拳突き乱打をレイヴンがことごとくマチェットの峰で受けた結果だ。手にしたマチェットが砕ける!ハゲの足払いを器械体操めいたトリックにて、ハゲ頭を掴んでかわす!ハゲの頭上のレイヴンを狙って繰り出される二者の飛び蹴り!パルクールバク宙回避!

「気をつけろ。こいつら酒場の奴らよりも、強い!」
「グフフフフ、この露出結界の中ではワレら露出者の力は三倍以上になり、非脱衣者は脱衣露出したくなるのだ!」
「効果はともかく場にバフとステータス異常を貼るのは実際厄介かな?」
「脱衣露出した時点で敗北も同然だから即死効果もセットだな!」

 この時点でこの場にいる者達の動きは、もはや色付きの風のごとき有様であり、常人が一度に見える打ち合いはその実、七から八回にも及ぶ凄まじい代物であった。

 屈強な長身露出者が繰り出した回し蹴りを、アノートは恐るべき殺戮ナタの背で打ち返し、長身露出者が痛みに怯んだのに合わせてナタで打ちのめす。刃ではないとはいえ、金属は金属。相手は悶絶転倒!

 そこに小男露出者が背を低め組み付きを図ったのに合わせ、仕込み金属ブーツのかかとをみまう。アゴを蹴りぬかれのけぞる相手のみぞおちを、やはりすさまじいナタの一撃が襲った。身をくの字に曲げた小男の吐瀉物がけがれた地面を上塗りする。さらには容赦のない踏み降ろしと同時に、両側から襲いかかる露出者をしゃがみ回避からのアッパーで撃退する!

『露ーッ!?』

 撃退された露出者軍団の悲鳴がまとめてあがるも、すぐさま起き上がって反撃の機をうかがう。当然ながら受けたダメージは常人であればすぐさま治療が必要なレベルだったが、露出者達はすぐに戦線復帰している!

「グフッグフハハハハハッ!能力が三倍ということは体力も耐久力も持久力も回復力も三倍!ワレらが倒れる前にきさまらが倒れるのが先よのう!」
「ふざけやがる」

 レイヴンはマチェットに、続いてそうそうに刀身が砕け散ったククリを投げ捨てた。放棄された柄を住民がスライディングゲットして、ついでに刃のかけらも拾っては逃げ去っていく。あまりに早く破損した武器に眉をひそめる黒ずくめ。この露出者軍団は実のところ強敵ではあるが、たかが物の数合打ち合った程度で、鍛えられた鋼鉄があのように砕けるほどではない。何か別の要因がある。

「さって、どうしてやるかね!」

 強化される敵、あっさり壊れる武器、ついでに異能は実質封印。状況は実に不利であったが、レイヴンは不敵な笑みを浮かべて居並ぶ露出者を見渡す。

「ウ、裸ーッ!」

 ヒカリの流星が暗黒ドーム状露出結界を割り砕き、一団の真っ只中に割り入ったのはその時だった。

 輝ける流星の一撃は、かすみがかって周囲をどんよりさせる不快な暗黒露出闘気を真っ二つに切り裂き、大地に着弾した衝撃の余波は残り霞を一発で吹き飛ばした。あたり一面に、あの不快極まりない汚濁した大気が戻ってくる。さらには、流星の着弾点を中心に光輝のドーム状結界が立ち現れたではないか。

「裸道流奥義、裸身流星脚!からの、光輝夏浜裸身結界シャイニング・ヌーディスト・ビーチ!!」
「助っ人。助っ人……?」

 輝ける流星の正体を見て、レイヴンはいぶかしんだ。それは、全裸中年男性だった。それもただの全裸中年男性ではなく、ひかりきらめきかがやいている。ひかりの全裸中年男性だ。特に股間はひときわ強くひかりかがやいている。

「きっ、貴様は光の露出者!?」
「光の露出者だぁ?」

 敵から上がった詰問の言葉にますますもって不審がる表情を強めながらも、黒ずくめは毛深露出者を脇に挟んでヘッドロックから絞め落とし、地面へと叩きつける。教授は教授で、全裸の乱入者を注視しながら、露骨に動きが鈍った小男露出者に渾身のナタ殴打を浴びせた。三倍で持久戦に持ち込む程度の戦力差であれば、三分の一となった今はもはや二人の敵ではない。

「あれはまさか、世界に危機が迫った時に現れるという光の全裸中年男性……!伝承では聞いていたけれど実在したんだ!?」
「頭痛くなってきた」

 人の命の扱いが格段に軽いことを除いて、比較的良識を持ってはいる黒ずくめ。彼は、際限なく増える露出不審者の存在にこめかみ抑えながらも、スウェイバックで褐色露出者のフックを回避しカウンターで相手のこめかみに銃把を叩きつける。そのたった一回で、リボルバーも銃身が目に見えて曲がってしまう。もっとも、撃つ前にはすでに腐食で使い物にならなかったがゆえに使い捨てたのだが。

「ようやく見つけたぞ、露出会!今度こそおヌシらが何を企んでいるか洗いざらい白状してもらおうか!」
「グヌゥーッ!煩わしい野良犬め!裸ーッ!」
「裸ーッ!」
「露ーッ!?」

 闇の露出者と光の露出者が交差した時、吹き飛んだのはうすらハゲの闇露出者の方だった。

「クロスカウンター、しかも一方的な一撃」

 レイヴンの眼は、常人には捉えがたい一連の攻防を捉えていた。ハゲ露出者が正面上方から繰り出した正拳突きに対し、相手の勢いを活かす形で拳を叩き込み、なおかつ相手の一撃は最小限の動作で受け流し無効化していた。まさに、達人の所作であった。

 強打を受け派手に宙を飛んだハゲ露出者は、宙返り受け身から路面に跡を残し着地すると握り込んでいた何かを、空中へばらまいた。爆発物を予期し身構えた三人だったが、淀んだ空気の中で輝くそれらは、コインの群れであった。一同と距離を取っていた観衆が、一気に鉄火場になだれ込む!

「ここは引くぞ同志!」
「裸ーッ!」

 暗黒露出集団は一目散に、皆バラバラの方角に駆け出して行く。とっさに後を追わんとする二人だったが、その時には服を観衆に掴みとられていた。

「アンタ!アンタ観光客だろ!なんか買ってくれや!」
「なんかくれなんかくれなんかくれなんでもいいからくれ!」
「これはかの初代ドブ沼公由来のツバで……」

 一般人に手を上げるわけにもいかず、ほうほうのていで人だかりから抜けたした頃には、闇の露出者も光の露出者も姿を消していたのである。

―――――

「とんだバツゲームだ」
「愚痴るには、まだちょっと早いんじゃないかい?」

 ごちゃついた人垣をなんとかくぐり抜けた二人は、仕切り直しと称して近くの喫茶店とおぼしき施設へ入室した。いまや中途半端に古くて昭和の香りがただようごちゃついた空間は、返って二人の非現実感を煽る。

 愛想のない女性店員が卓に叩きつけたお冷に、未知なる虹めいた油膜が浮き沈みしているのを見たレイヴンは、これ以上ないほどデカイため息を吐き出してから、店員にチップを投げて告げる。

「食い物はいい。場所だけ貸してくれ」

 店員がもう一度手を差し出したのを見るにつけ、もう一枚チップを投げて渡した。細長いタコツボめいた空間の店内には、サイン色紙がベタベタと所狭しと貼り付けられている。それらの色紙に書かれた名前は、まるで見覚えがない。それどころか、常軌を逸した線が描かれたものばかりだ。

 二人はぐるりと店内を見渡し、そのさんざんたる異形と、来店客が居ないことを把握してからどっかりと座り込む。教授の椅子はなんとか持ちこたえたが、レイヴンの方はぐしゃりと崩壊した。気を取り直して別の椅子に座ると、店員が荒々しく残骸を掃き出していく。

「ヨモツヘグイ」
「同意するよ」

 アノート教授はレイヴンが吐き出した一言で、彼が何を言わんとしているか理解したが、読者の皆様にはもう少し内訳をご説明しよう。

 ヨモツヘグイとは、日本古代伝承に語られる黄泉の国の禁忌を指す。黄泉の国で煮炊きされた食物を食らうと、あの世に存在を留められ現世に帰る事ができなくなるとされている。類例として、ギリシャ神話における冥府のザクロなどもあげられるであろう。

 つまり、このドブヶ丘で出された食物を食べることは、この地に帰化させられることを意味している、という符丁であった。

「それはヨシとして、一旦わかったことを整理しよう。まずいちばんでかい要件」
「うん、露出会とこの異界を作っている存在は関係が薄そうってとこだね」
「その通り。頭の痛い話だ。虎穴に入ったら虎とは別に竜が出てきた、みたいな話だな」

 黒ずくめは天井を仰いだが、二度目のため息は避けた。深く息を吸うことにもなるからだ。

「このドブヶ丘って世界が露出会の意図したモノなら、間違いなく取り込まれた人間は露出者になる。が、実際はそうはなっていない。さっきの婆さんにしても、露出しようとしたのは奴らのテリトリーが張られてからだ」
「では、彼らがここに集結しているのは、利点か、陽動か」
「断言出来る材料は少ないが、陽動はない可能性が高い。ここが別勢力によるものなら、ここは奴らに取っても化け物の胃の中ってことになる。もっとマシな場所はいくらでもあるはずだ」
「確かに」
「おそらく、ドブヶ丘は奴らに取っても利点がある。それが何かはわからないが……」
「それについてはおいおい調査するとして、ドブヶ丘の出どころ、わかっちゃったんだけど」
「俺も心当たりがある、いっせーのーせで答え合わせしよう」

 そして、次に二人が述べた言葉は一字一句同じであった。

「バー・メキシコの与太話」

 双方の見解が一致していたことを確認すると、レイヴンは目元に手を当てて天を仰いだ。テーブルに置かれた二人のスマホには、およそ一年ほど前のSNSキーワード検索画面が表示されている。検索ワードは、もちろん「ドブヶ丘」だ。

「およそ一年ほど前に、バー・メキシコの常連が連想ゲームめいた非実在都市の大喜利をはじめた。その中枢部こそが、今俺たちがいるドブヶ丘」
「私も段々と思い出してきた、昭和期のガバガバ環境倫理を土台にああでもないこうでもないと、ろくでもないモノを積み上げ続けた結果出来た集団幻覚的な、存在しないはずの街」
「どいつもこいつも、実在しないのを良いことに片っ端から汚染物質だの産業廃棄物だの、果ては低倫理鼻つまみ者やら突然変異やら、思いついた汚らわしい存在をまるごとぶち込んだ最悪の場所に……俺たちは首を突っ込んだって訳だ。いやはや、これはもうブッダかオーディンに抗議でもしないことにはやってられんな」
「彼らのうち、誰かがこの一帯を作り変えたって可能性はあると思うかい?」
「それについては、きわめて低い方だな」

 まともに呼吸も出来ないとは、これほどストレスフルだったとは。黒ずくめはささくれだつ自分の精神をなだめつつ、問いに答える。

「別世界を作るなら、もっとリターンのある環境も選べるし、人のいない場所も選べた。対してコストとリスクはバカでかい、どちらかと言うと異界化の新技術をテストするに当たって、他所の他人がドブヶ丘妄想を拝借したって方がまだありそうだ」
「確かに」
「もっとも、今回の件は何もかも正気とは思えんから、まともなプロファイルは無理があるのも事実だ」

 この件については、より多くの情報を追うという黒ずくめの提案に、うなずく教授。

「次、あー、んー、アレだ」
「光の露出者?」
「ソレ。アレについては俺はこれっぽっちも耳にしたことがない。なんなんだありゃ」
「彼はおそらく、闇の露出の氾濫を防ぐ使命を背負った裸道流忍術の継承者だよ」
「にんじゃ、裸道流」

 裸道流忍術。
それはかつて……己の武を追求した忍びの者たちが、着衣の限界に至って脱衣による人間の限界能力の逸脱に着目し開眼した後に、歴史に秘された忍道である。

 かつて伊賀、甲賀、風魔など……名だたる忍びの里において、偶然にも同時期に露出の可能性に目覚めた達人たちは、己の露出道を極めるべく抜け忍ののち、志を同じくする者たちと合流。岡山の秘境にて裸道流を開いたのである。

 しかし、忍道でありながらその人外の域に到達した武の極地は、しばしば常軌を逸した殺戮を伴った。ゆえに、その有り余る危険性から裸道流は歴史書に記されることなく……時代の闇の奥底へ封じられたという。

「つまり、アレはドブヶ丘の住人じゃなく、昔からいる現実の存在だと……」
「まあ、そうなるね」
「今日一番のバッドニュースだ。光の露出者VS闇の露出者とか、この世界は一体全体どうなってるんだ全く」

 光の露出者VS闇の露出者in汚染異界。他人が対応するならまだしも、自分が何とかしなければならない現実においては彼の愚痴も当然と言えるだろう。

「でも、まあ、私たちの敵ではないかと」
「オーケイ、次に接触した時にはコミュニケーションとるしかないな。そして最後の問題」

 レイヴンは言葉を切ると、コートの一端から投げナイフを引き抜いて、テーブルに置いて見せた。とたん、まるで砂細工のようにナイフが崩れ落ちる。

「腐食……」
「嫌な予感がしたんで使い捨てていい武器だけ持ってきたんだが、このありさまだ。服やマスクには起きていないが武器、兵器のたぐいにだけは異様に強い腐食が起きている。教授、そちらの得物は確か異能一端だったな?異常はおきていないか」
「いや、それが全然。このとおりに、普段通り出せるし、解除できる」

 教授はそういうと、手をパッと広げて次の瞬間にはあの殺人鉈を握って見せた。そして手を開くと、鉈はこつ然と消失する。それをみたレイヴンは、自身の手の平を凝視するも、何の変化も起こらない。数瞬の後に、パチパチとマッチの火程度の織火がまたたいたのがやっとだ。

「俺の方は予想通り全然ダメだな、どういうことだ……?」
「君と私とで、何等かの格差が生じている?」
「おそらく。それが何に起因するものかは全然わからん、あと一人誰かいれば違いを比較できただろうが、ないものねだりだ」

 黒ずくめが卓を指先で叩くと、ナイフだったものは一層細かい錆粉となってさらさらと崩壊していく。

「まとめると、敵は二勢力いる。俺たちと目的を近しくする存在がいて協力できる可能性が高い。そして持ち込んだ武器はここでは使えない」
「今後の方針として、まずドブヶ丘化を行っている勢力を探った方がいいのではないかと思う」
「賛成だ。ここを拠点にする利点が奴らにあるのなら、そちらを探る過程で連中も噛みついてくるだろう」

 わかった事以上にわからない事が増えた。その現状に少々うんざりした心地なった二人は、ふと、外へ視線を向けた。曇天が切り裂かれ、夏の熱い日差しが路上を照らし出す。そこに、なにかが立っていた。

 きらびやかな陽光を受けてほのかな反射光をまとい、一枚布から織り上げられた白いワンピースは未知の意匠に彩られ、ひどく長い髪は鴉の濡羽色よりもつやめかしい。そしてこれ以上ないほど整った顔立ちを白いツバ広帽で覆った少女は、黒曜石で飾られた眼で二人をほほえみとともに見つめていた。

 薄暗い店内から見てなおその美しさは明らかで、人間の美醜にほとんど関心がないレイヴンをして注意を引くほどの……いわば、魔性にして至宝の存在。それが、二人を見ていたのだ。

「教授!」
「ああ!」

 二人が駆け出した反動で椅子は崩れ落ち、路上に到達したころには再び曇天がこの陽炎の街を覆い尽くしていた。少女の姿は、何処にもなかった。

 そして次の瞬間、二人が先程まで愚痴を吐き出していた喫茶店もどきが爆発を起こしたのだった。

 タコが、辛くも爆発から何を逃れた二人の前にいた。いや、何かがおかしい。いくら汚染魔界都市と言っても、タコが内陸部を闊歩しているわけがない。実のところ、それはタコを股間局部に貼り付けた全裸中年男性だった。

『ウワーッ!?』

 思わず声を揃えて叫んでしまうも、二人は油断なく戦闘の構えを取っていた。レイヴンの視界の端で、元喫茶店もどきの店員達がスゴスゴと瓦礫の下から這い出して逃げていく。

 タコ全裸中年男性は双眼に筒型グラスをはめ込み、前髪を猛禽類の頭部めいて固めた鷲鼻の男だった。そしてその股間のタコは、今も海の中で生きているかのごとく生き生きとうごめいていた。タコ全裸中年男性は当初爆発を注視していたようだが、すぐに自分に対して身構えた二人に気づく。

「むうん……?その女児ヒーローのようなカラーリング、さてはお前達は我ら露出会に向けられた政府の犬、であるか?」
「何年前の話だ」

 レイヴンは油断なく爆発で宙高く飛んだ鉄パイプをキャッチすると、教授に向けてキツネのハンドサインを形作る。タコ全裸中年男性のタコが触腕を大きく広げ、二人を威嚇した。

「出会ってしまった以上は仕方ない。小生はほとばしる墨のオク・ダーク!露出会大幹部の一人にして、大いなるタコの形象拳の使い手である!」
「形象っていうかその、まんまタコでは!?」
「お前達も知っての通り、おろか人類の次に地球の覇権を握るのはタコと言われている……」
「はぁ」

 自説を述べはじめたタコ全裸中年男性あらためオク・ダークに、レイヴンはじわりと間合いをつめる。どうみても冗談のような見た目だが、露出会構成員の強力さはすでに十二分に味わっている。大幹部級、それも一人で徘徊している相手が弱いとは到底考えにくい。

「そこで小生はタコのあらゆる要素を分析し、人類の残念な弱点である股間をタコにすることに成功したのだ……ヒトの汎用性にタコの知性をあわせもつ小生こそが地球最強と言えよう。なぜなら!小生の手足は十二本、お前の手足はたかが四本で小生はお前の三倍強い!」

 高説を垂れるオク・ダークに向かって、レイヴンの左腕がかすんだ次の瞬間に、甲高い音と共に鉄パイプが何かを弾く。石だ。レイヴンが手裏剣を打つように放った投石を、あろうことかオク・ダークの股間タコが着弾寸前にてキャッチ、そのまま投げ返したのである。車返しの術!

「フム……言葉ではわからぬ無頼のやからとあらば、小生の肉体を持って講義してやろう!」
「お断りだ!」

 オク・ダークを中心に円を描くように間合いを保つレイヴンをかすめ、何かが打ち込まれた。股間タコのクチから撃ち出されたそれが、建物の石壁を射抜き大穴をあけた時に二人は正体を悟る。墨だ。高圧縮された墨の塊が、弾丸のように撃ち出されている!

「チィッ!」

 槍衾のごとく無数に突き出された鉄パイプのことごとくが、増大したオク・ダークの股間タコの触腕によって受け流され、無効化されていく。オク・ダークの人間腕は腕組みしたままこゆるぎもしない。絵面は最悪だが、実際おそるべき強敵であった。

「フッハッハッハッハッハ!口ほどにもない!やはり手足の少ない生物はダメだな!」

 攻守が入れ替わり、今度はオク・ダークの股間タコ触腕が膨張し、黒ずくめを襲う!大回りに間合いをあけて迫りくる八本脚の猛襲をいなすも、脚がかすめた電柱は豆腐めいて粉砕される!やむを得ず連続バク転回避!

「ヌゥーッ!」
「どうしたどうした!逃げるだけでは小生には勝てんぞ!?」

 オク・ダークを中心にして時計回りに駆け抜けるレイヴンを、墨の機関銃が襲う。その高圧縮されたインクの嵐は、ミニガンを上回る殺傷力をもってあたりの建物を穴だらけにしていく。

 近距離はタコ足による八手のラッシュ、遠距離は底の見えない墨弾。どちらも基本能力自体が高く、真正面からの激突では実際に不利。レイヴンはその恐るべき猛攻を、距離を保ち間合いをあけて防御に徹することでしのいでいく。視界には右往左往する住人達、攻防の余波で瞬く間に毀損していくいびつな建物群、そしていつの間にやら大きな甕を担ぎあげていた教授の姿があった。

 黒づくめは時計回りから反時計回りにカットバックすると、アノート教授がオク・ダークに距離を詰める間にも注意を引き付けていく。一歩跳躍するたび、鉄パイプで散乱する破片をゴルフめいて打ち込み、あるいは迫りくる触手ラッシュを鉄パイプ回転演舞にてことごとく打ち払う!

 教授が、ついにぴたりとオク・ダークの背後に忍び寄ったのとタイミングを合わせ、反復横跳び前進、墨弾をくぐり抜けて間合いを詰める!

「ヌフーッ!バカめ、死ににきおったか?」
「後ろだ、駄アホ」
「ぬっ?」
「えい」

 手足が十二本でも眼は人タコ合わせて四つ、しかも前方だけとあっては背後の脅威にも振り向く以外にない。振り向いたオク・ダークの股間を、教授が掬い上げた甕が襲い掛かった!反射的にすべてのタコ足が、甕中に滑り込んでいくではないか!?

「露ーッ!?し、しまった!これは蛸壺っ!はっ、早く取らなくては……!」
「させん!」

 大きな甕にタコ足が吸い付いたとあってパニックに陥るオク・ダークの人腕を、レイヴンは鉄パイプを通して後ろでに関節を決める!オク・ダーク絶体絶命!

「ちょっと失礼しますね」
「なっ、何をする!?やめっ、ウワーッ!?」

 瞬間、太い縄束が強引に引きちぎられ、盛大にちぎれとんだかのような音が辺りに響き渡った。一面に、タコのインクめいた墨液が舞い散り、路面を黒く染めあげた。

「Oh、ジーザス、ブッダ」

 教授が、その細腕からは想像もつかないような怪力にて、オク・ダークの股間タコを一瞬でねじりもぎ取ったのであった。本体からもぎ取られた股間タコは白く変色して甕の中に滑り落ち、オク・ダーク側は、股間から墨めいた何かを垂らしながら泡を吹いて痙攣する。

 股間のブツをもぎ取られるなどという衝撃的な扱いを受けて、オク・ダークは白目を剥いて卒倒していた。良くも悪くも、まだ死んではいない。欠損部位から流出しているものが、血ではなく正体の怪しいどす黒い液体なのが気がかりだったが、さりとて手がかりのチャンスを不意にするわけにもいかない。

 レイヴンは景気のいい音とともに平手打ちを見舞うと、オク・ダークを失意のどん底から引きずりだした。

「アバッ、小生の、小生の、大事な大事なタコが……」
「おい」
「ヒッ、貴様ら小生からまだ他に奪おうというのか!?」
「聞きたいのはひとつ。ドブヶ丘における、君たちの活動理由だ」

  アノート教授が構えた、古式決闘銃の暗い銃口がオク・ダークの視線とかち合う。一発しか装填できない代わりに口径を引き上げたそれは狩猟銃の威力を上回る凶悪なブツだ。オク・ダークは喉を鳴らした。

 思わず後ずさったオク・ダークの背は、すぐ後ろに立っていたレイヴンの足に触れた。白と黒の死神が彼を見下ろしていたのだった。そして騒乱の顛末を戻ってきた住人達がかたずをのんで見守っている。

「ヌフッフハッ!腐っても幹部である小生がそんな安易に吐くとおも、ヒーッ!?」

 オク・ダークのすぐわきに、銃痕が生える。教授は手品めいて決闘銃を消すと、今度は反対側の手に同じ物を振り出して見せた。

「この銃は特別製で、水銀が詰まった弾が込められているんだ。まあ、君たち闇の露出者にも……結構痛い思いをさせられるはずでね」
「暴力反対!」
「今更言うな今更」
「露ーッ!?」

 レイヴンが無感情に背中を蹴り上げると、そのまま自身の背を曲げて狼狽するオク・ダークの顔を覗き込んだ。猫の上のノミを見るような眼に、オク・ダークは心底、戦慄した。

「もうめんどくさいから、お前達が何を探しているのかあててやろう。ズバリ、この魔境の元凶それそのもの、そうだな?」
「なっ、バッ、何故それを!?」
「何故もカカシも、お前が教えてくれたんだよ」
「ム、ムゥウーッ!?読心術とでもいうのか!卑怯だぞ!」

 その時、オク・ダークの身体がずるり、と半ば地面に沈み込んだ。二人はとっさに反応するが、予想外の挙動に対応が一瞬だけ遅れる。その隙に、オク・ダークは首まで地の下に滑り込んでいく。自分から漏出した墨めいた液体の中へ。

「お、覚えておれ無礼千万なる非脱衣者ども!もぎ取られた我がタコちゃんの仇はっ、必ず、必ず取ってやるからな!」

 その言葉を最後に、オク・ダークの姿は二人の視界から消えてしまう。教授が引き金を引いたが、吐き出された弾丸は硬い地面に深く食い込んだのち、弾痕を残すにとどまった。

「シクッた、たかが股間にタコかと思いきや、奇妙な真似しやがって」
「でもまあ、私達のやることもはっきりしたね」
「ああ、何はなくとも、このドブヶ丘の元凶を奴らより先に見つけ出して説教だ。とはいうものの、気が乗らんことだ」

 レイヴンが顔を上げた先には、かつて枡形山と呼ばれた丘陵地のうねりだった、今は細長く切り出された御影石めいた何かが並び立つ異形の魔都であった。

「こっからが本番なんだろうなぁ……」

 従来の広範な概念としてもっとも近いのは、寺社仏閣へつながる商店街めいた参拝道と、ごっちゃりした御徒町のアメ横を足してドブ川で割ったような、そんなレイヴンをしてげんなりさせる通りが丘山の盛り上がりに刻まれていた。

 なるほど、確かにドブヶ丘とは言い得た呼称である。もっともその倫理観と、公衆衛生の絶無さは世界のいかなる商店街を割り当てても多分に失礼というものであった。

 戦後の闇市めいた乱雑なる坂道が、うねりにうねって伸びていく先には、このごちゃついた街に似つかわしくない大型の施設がいくつも視認出来る。もちろん、現代の地味な色合いではなく、濁ったタマムシ色だったり、極彩色であったりと悪趣味にして実に眼に悪いカラーリングであった。

 そんな退廃と冒涜とろくでもなさに満ちた通りを、視線を巡らせながら行く二人だったが、やはりそう簡単に手がかりが目に映るといったこともない。目に映るのは、相変わらずのドブヶ丘化した奇妙な商店ばかりだ。

 例えば、木板にかすれた字で『乾物屋』と名乗っている軒先には、コウモリともサルともつかない奇怪な五肢のヒモノが吊るされ陳列されている。おそらく海鮮物を取り扱いたいであろう生臭さの一際強い店子は、あろうことか先程二人がほったらかしにしたあのタコを、喜び勇んで回収してきては瓶から引っ張り出して切り売りしているのだ。

 そのことにうっかり気づいてしまったレイヴンは、より一層、ここの自称食い物は絶対に手を出さないと硬く決意した。他にも見た目だけは近代的な店舗の見た目をしているが、奥はまるで得たいが知れない店ばかりである。そのくせ、これだけ治外法権の権化のような一帯なのに武器などに該当する店は一つもない。

「やっぱりどれもこれも、ろくでもない」
「何か気になるモノはあったかい?」
「いや、全然だ。この場所のヌシの手がかりになるような物も全く」
「おそらく、この一週間に露出会が総出で徘徊しているにも関わらず手がかりが無いとすれば、遭遇するのは相当まれなんじゃないかな」
「確かに。ゲームで言うなら低確率ランダムエンカウントの隠しボスってところか、一番回収が面倒くさいタイプだな」

 ふと、ビニールシート露天が目に映る。拾ったどころか破れている週刊誌に、自転車のサドルだけ、ひしゃげた鉄パイプに鳥の羽などがさも当然に売られていた。

「あても無いし、次の行き先について私から提案が」
『ネズミだーっ!?』
「ネズミ?」

 二人は共通の嫌な予感に顔を見合わせ、登ってきた坂を見下ろす。

 なるほど、それは四肢があり、毛むくじゃらのたわしのような姿で、尖った口を持っていた。ただし、四肢は蜘蛛のように細長く、体躯は子牛、血走った眼球は狂った人間のそれだ。そんな感じのネズミとやらが、暴れ牛の群れめいて駆け上がってくる。恐るべき災禍の群れに、ドブヶ丘の商売人達も次々と店に立てこもった。

 それを見た二人は、迷わずに坂道を駆け上がり出した。

「予想はしてた!してたがネズミからしてアレか!」
「ますます典型的な異界化異常現象だねぇ」
「ギェギェギェギェーッ!」

 暴れ牛の大群を彷彿とさせる怪異ネズミ集団は、変異ヒモノやらタコの切り身など、血抜きされていない鳥の死体などを踏みつけ、その針金のような手足で掴み取って貪り食らう。露天に残された商品は生物干物パルプ雑誌にジャンク類まで見境なしだ。そして、食あたりか何かでひっくり返って動かなくなった個体をも共食いする様は、それはもうひどい有様であった。

「おいそこのわけぇの!いい若いモンがネズミ程度にアタフタとみっともねぇな!一匹ぐらい退治してみせろや!」

 混沌参拝道を駆け上がる二人の頭上から、一喝が降って湧いた。ひどいだみ声の。流し見ると、二階のベランダ柵に腰掛けた老人からだ。

「言ってくれる!」

 しかし、実際このまま逃げ続けてもネズミ群は諦めてくれそうにもない。レイヴンはアノートに目配せした後、かろうじて屋台に転がっていたダマスカス模様の牛刀を掴み取って両の逆手に構えた。

「逃げても無駄そうだ、ここでやる」
「良い判断だ」

 すぐさま、立ち止まった黒ずくめに、距離を詰めた奇怪ネズミが飛びかかる。その骨ばった手足は哺乳類よりも鳥類か、昆虫のたぐいに近い。レイヴンは中腰になって、牛刀を掲げた。思いの外、すっと滑り込んだ刃が、ネズミの喉口から胸、腹、股間まで一息に薙いだ。後方で臓物を撒き散らして、ネズミが転倒する。それを見た他のネズミどもが、一斉に死骸へと群がった。だが、目もくれず目の前の二人に襲いかかる連中の方がなお多い。

「疾ッ!」

 異常な見た目だが、生物である以上は血があり肉があり、臓腑があり、骨がある。闇雲に切れば死なないし、的確に斬れば即座に死ぬ。左から食いつこうとした頭部の横合いから牛刀を突きこむと、狂人めいた眼を割って刃先が脳に潜り込み、反対側の眼を砕いて飛び出した。一息もつかず、ビクリと脈打って肉に変わる。次に右側で立ち上がり上から喰い裂こうと試みたネズミを、アッパーカット迎撃。閃いた刃が胸、首、喉、顎を寸断しそのまま頭を刎ね割る。

 精妙的確に黒ずくめが奇怪ネズミを処理する一方、アノート教授の立ち回りはより一層凶悪だった。彼の右手が閃いた瞬間、奇怪ネズミの頭部がクラッカーめいて弾ける。手にした棒の先には、雲丹めいた球体。聖水散布機とも卑称された武器、モーニングスターである。

 そして、同胞の死を踏み越え迫りくるネズミ群を、彼の左手から伸びる何かが無造作に両断。盛大にドブがかった血が飛び散ってはドブヶ丘商店街の通りを染めた。繰り出されたのは、大型の回転旋盤である。

 さらには教授が両手の武器をひとまとめにすると、恐るべき殺戮回転ノコギリ斧と変わる。その殺戮兵器が無造作に振るわれるたびに、奇怪ネズミは物言わぬ肉塊へと変じていった。

「ほぅほぅほぅ、ほーおぅ?」

 二人を煽った老人はアゴをさすりながら、一切の容赦が無い駆除活動を観察する。彼がまばたきするたびに、四、五体のネズミが肉片へと分解されていった。

 一体仕留めるたびに、黒ずくめの奇怪ネズミへの構造理解は増していき、今やひと撫で刃先が触れるだけで的確に生命を奪っていく。奇怪ネズミの骨格は柔らかく、苦もなく切っ先が心臓、あるいは脳をえぐった。

 一方で教授の暴れっぷりたるや、微塵もその外見にそぐわぬ暴威だ。彼の左手に虚無から銀の透かし彫りが入ったショットガンが振り出されると、至近距離に迫ったネズミ数体が四肢をちぎれさせて弾け飛ぶ。返す右腕が振り抜かれれば、息絶えたコンクリ柱ごと逃げ惑うネズミを刈り取った。

 路上を覆うほどに暴走していた奇怪ネズミの群れは、物の数分待つこと無く残らず物言わぬ物体と慣れはてる。建物の隙間の暗がりから、様子を見ていた住人達は危険が去った途端這い出して、ネズミ達の遺骸を奪い取り合う。ハイエナでももう少し奥ゆかしく行動する、そんな旺盛さだ。

「無駄な労働をしてしまった」
「意外とそうでもないかもしれない、よ?」
「む……」

 訝しむ黒ずくめ。二人の元に、空中回転を決めてあの老人が舞い降りる。間近に見ると、いよいよ年経た山賊の亡霊めいていて、この異界都市の中でも油断ならぬアトモスフィアをまとっている。

「ようよう、お前さん達中々のもんだが、見ない顔だなぁ。よそ者か?」
「まあその通り、だ」
「ほおん、物好きなヤツ」
「そういうアンタは?」
「おおっと、聞かれたからには名乗るほかねぇ。オレサマはドブ沼の次郎長、いわゆるこの新ドブヶ丘商店街の顔役ってとこよ」
「顔役。ということはドブヶ丘に顔が効く?」
「ひっひ、あたぼうよ。その様子だとテメェら、ちょいとここらに難儀してるな?」

 まるで大昔からそうであったかのように名乗る次郎長。だが、彼も本来は登戸周辺の無辜の民であったはずだった。しかしてそのことはおくびにも出さず、交渉にうつる。

「害獣を駆除したんだ、こっちの頼みも聞いてもらいたいが」
「ハーッハッハ!お前らが勝手に殺したんだろ!だーが良いぜ、オレサマはこころが広いからなっ」
「二人探しているんだ。一人は光る全裸の男性」
「はぁん?全裸なら最近そこかしこにいるだろうが」
「その良く見るのじゃなくて、光っている全裸」
「ハハ、まあ良いだろう。もうひとりは?」
「白い帽子に、白いワンピース、長い黒髪の少女。見たことないか?」
「ブハハハハハハハハ!おかしなこと言うなオメェ!自慢じゃないがここらで白服なんざ着てりゃモノの数分でどどめ色よ!」
「たぶんそいつは汚れることがない、だからひと目でわかる」
「ッハ、随分ヤッカイなモン探してるじゃねぇか。こいつはネズミ駆除じゃワリにあわんねぇ」
「そんなこと言って、最初から追加で面倒押し付ける気だったろう」
「クク、その通りさぁ」

 ドブ沼の次郎長が狡猾に笑う背後で、山程あったネズミの死骸は毛の一本も残らず回収されていた。残った血溜まりは、バケツの濁った溜め水に押し流されていく。

「ここらドブヶ丘にゃー、住人にとって厄介きわまりない害獣どもがごまんとおる。住人も慣れちゃあいるが、だからといって無害ってわけじゃあ、ねえ。ちょっと路上呑みで吞んだくれて、そのまま寝込めば翌日には仏さんよ」
「害獣がいなくても逝く気はするがな……」

 レイヴンのつぶやきをあっさり聞き流すと、次郎長は続けた。

「どうせお前さんがたがドブヶ丘をうろつくなら、自衛のためにもそいつらを狩るはめになるだろうよ。絡まれ次第、始末してくれりゃいい。大物がくたばれば、そりゃそこらの奴らからオレの耳に入る。いちいち報告にくる必要もねぇ。便利だろう?」
「スマホとかないのかい?」
「スマホだぁ?そんなハイカラなモン、ここじゃあ数時間でお釈迦よ!」
「だったらどうやって連絡を取る気だ」
「アレだ、アレ」

 次郎長が指さしたさき、どんよりした曇り空を背景に、緑色の噴煙が上がっている。明らかに天然自然の現象ではなかった。

「ここじゃあ重要事項は、狼煙で知らせるのが伝統ってもんでな。お前さんがたの探しもんが見つかれば、男なら青、ガキなら赤の狼煙をあげるよう住民どもに口添えしてやる」
「何時代だここは……」
「令和の日本に決まってるだろう、なにいってんだおまえ」
「狼煙をあげるのがか?」
「他所はともかくここはここ、お前らのスマホが特別製だろうが住人の連中がもってねえんだからしかたねぇな」
「いいだろう。どのみち二人だけじゃ埒があかんと思ってたところだ」
「クク、賢い判断だぜ黒いの」

 次郎長はそういって、どこぞから拝借されたであろう細い鉄パイプを煙管かわりに煙をくゆらせた。鉄パイプ煙管の先からは、比喩ではない紫煙があがる。

「ついでに聞きたいんだが、ドブヶ丘に刀剣か狩猟銃の店はあるか?」
「はぁ?反社の連中ならいざ知らず、ここは清く正しい現代日本の商店街だぜ?んなもんあるわけねぇだろうが」

 ここのどこが清く正しいんだ、という言葉を喉奥に飲み込み、レイヴンは続けた。

「刀なら古美術品店、猟銃なら猟銃店があるだろう、法に乗っ取っていても。どこにでもある店じゃないが、そういうのもないのか?」
「ねぇもんはねえな。そういうのはもっとでけぇ街のもんだろ。ドブヶ丘には分不相応ってこった」
「参ったな」
「その包丁じゃ不足かい」
「忍者じゃないんだ、いい得物があるならそっちの方が楽だね」
「チッ、しかたねぇ。手間賃だ、オレが教えたって言うなよ?」

 次郎長は濁った煙を吹くと、彼方を煙管で指す。現在地から若干下った先に、すり鉢状になった廃鉄の穴が見える。

「あそこにとち狂った鍛冶屋が独りいる。ドブヶ丘の廃鉄で最高の一本を創るって粋がってるイカレ野郎よ。ま、うまくいってねぇようだが試作品くらいはあるだろうさ」
「腕はいいのか?」
「てめぇが今振るった包丁は野郎の生活費代わりだ。どうだ、納得したか?」
「ふむ」

 レイヴンが汚染奇怪ネズミを山ほど解体してなお、牛刀は奇妙な波紋と恐るべき切れ味を保っていた。それこそ、何もかも朽ち果てるドブヶ丘に似つかわしくない威力だった。

「最後に一つ」
「まだあんのか!?まあいい言ってみな」
「ここ一週間出没するようになった、全裸露出者が頻繁に出入りするような施設。心当たりないか?」
「あ~、正直大した害もねぇから考えたことなかったぜ。なんだい、それを教えりゃおまえさんがたが連中を掃除してくれんのか?」
「まあ、そのために来たんだしね」
「ほっほう、じゃあ捜し物に付け加えてやる。我が物顔でのし歩くからうっとうしいのなんのって。服もなしに歩きまわりゃ早々にくたばるかと思いきやピンピンしてるしな。じゃあ連中の拠点っぽいの見っけたら、黄色だ。覚えたな?」
「あいよ」

 態度はともかく、わずかに一人と交渉した結果としては上々といっていい。二人は不遜な態度の老人に軽く会釈し、探索へと戻る。

―――――

 今まで登ってきた道からそれて丘陵を下りつつ、二人はあのすり鉢の鍛冶場を目指す。そこは二つの丘、新ドブヶ丘と旧ドブヶ丘の境目、一番低くなる立地とあって、一際異様な雰囲気が漂っていた。汚れとは低きに流れるものである。

「順番的には、まず武器を獲得した後に、連中の拠点を叩きたい。申し訳ないがそれでいいか?」
「問題ないよ。赤の狼煙が確認出来たら、まず最優先でそちらにいくってことで」
「ああ。青の狼煙は近場なら覗いてみる方向で良いだろう」

 優先度としては、鍵となる異界の主が最上位、次が露出会の拠点となり、それ以外の優先度は比較的低い。だが、主についてはまるで場所がわからず、拠点についてはまだあてがあるが、確証もない。何より、つめている構成員の数も少なくないだろう。というのが二人の見方であった。

 結果として、まずこのドブヶ丘で機能する、まともな刀剣を入手しないことには露出会ともドブヶ丘害獣とも渡り合うには心もとなく、また明確に場所がわかっているのも鍛冶場だけ、との結論になったのである。

「率直に言って、すまん」
「いいっていいって、私だけ問題なく戦えるのも不可解だし、手ぶらで来たわけじゃないんだから」
「それについてなんだが、ここに入ってから何か不自然な体験とか、なかったか?」

 レイヴンの問いかけに、アノートは真顔になって考え込んだ。サンプル数が少ないとはいえ、異能に格差が生じているのは不自然だからだ。ここが人為的変質空間であるから、なおのことであった。

「……いや、ないね。まったくだ」
「そうか。やはりたまたまなのか、それとも」
「もし客人扱いを受けてるとしたら、ちょっとぞっとしないね」
「客あつかいならさっさと主が出てきても良さそうなもんだが」

 ふと立ち止まって辺りを見回すも、相変わらずの奇妙な建物並び以外にはなにもない。時折すれ違う住人が、一行から何かむしり取れないか虎視眈々と狙っているくらいであった。

「やっぱりいない。あの時ちらっと顔だしたのは一体なんだったんだ」
「あんがい、恥ずかしがり屋とか」
「迷惑な話だ」

 この状況下で隠れ見されたところで手間が増えるばかりであった。

 目当ての蟻地獄めいた瓦礫穴が近づいてくると、それは遠目で見るよりもより一層に醜悪であることがいやでもわかる。いまや嗅覚などというものは、あまりにも入り混じった匂いに完全に麻痺していた。絵の具が種別問わず混ぜ込まれるとどす黒く濁るように、匂いもまた多数入り混じった果てには判別のつかない不快きわまる感覚になるのだった。

 二人が縁にたったすり鉢状の地形には、単なる廃鉄のみならず、割れたコンクリ、多様なビルの瓦礫、それどころか雑に放り込まれた死体やら、中身を改めたくもない昭和期の黒ゴミ袋に、古めかしい箱型ブラウン管のモニタやら、電子機器の産業廃棄物までよりどりみどり。おおよそ、悪しきものであれば此処に無いものはないのではないか、というほどだ。

「ひどいアトラクションだ」
「こういうの、ご経験は?」
「無いね。まっとうな悪党ほどキレイ好きだ。ゲリラやらテロリストにしたって、ここまで汚くする必要はない。大体汚染環境じゃ人間は生きていけないんだ。飲水が無くなるから」

 つまり、人間のようで今ここにいる連中は半ば人外だ、と付け足してレイヴンは産業廃棄物がかろうじて避けられた獣道を行く。人の歩く道筋があるということは、確かにここに出入りしている者がいる。中央辺りから、炭火の煙もあがっていた。

「さっさと見つけて、帰ろう」

 入り組んだ廃棄物の迷宮を、突き出す鉄骨やらパイプやら骨やらを右に左にかいくぐった先、ぱっと視界が開ける。もう一段下がったそこは、蟻地獄の真ん中、底なし沼めいた寸詰まり。レイヴンの眼は、そのど真ん中で異彩を放つ棒状のモノを視認していた。

 それはまるで、一帯から集まる汚濁を吸い上げているようなそぶりで、この瓦礫の山に埋もれずに突き立っている。異様な存在だった。彼はすぐに眼を逸らし、辛うじて建物の体裁を保っているトタンの掘っ建て小屋に視点を合わせた。煙は、そこから噴き出している。

 得体の知れない何かが絡み合って形成された立地を、一歩踏みしめるたびに肉食虫の内蔵を蹴っている感触が返ってきた。ここに比べたら、ドブヶ丘商店街はよっぽどまっとうな世界といえる。

「ごめんください、な」

 申し訳程度に垂れ下がった幌をのけて、中を覗き込むも明かりは鍛冶場の灯火程度で、ジャンク品を流用したらしき鍛冶道具が乱雑に転がる土間がうっすらと視認出来た。同時に、さして広くもない掘っ建て小屋に詰め込む与太者の群れも。

「おまえら、ヨソモンがセンセイに何のようだ!?」

 上がった詰問の声に、黒ずくめは眉根を吊り上げて答える。

「刃物を買付に来ただけだ。任侠の連中と違ってまともな一般客、だとも」
「テメェ、オレたちが汚泥会って知っての狼藉かぁ!?」
「汚泥会」

 どうやら、地元唯一の鍛冶屋とあってドス目当ての地元ヤクザと鉢合わせたのか、あまりの間の悪さにレイヴンは目元を抑えた。もっとも、これらのドブナイズドされたヤクザも、元々ヤクザとも限らなかったが。

(世界を元に戻した後、死人も生き返ると思うか?)
(思わないね、一都市程度ならなんらかの形で死んだと帳尻合わされるかも)

 読者の皆様がたにはわかりやすい説明が必要と思われるので、あえて注釈しよう。今のドブヶ丘は個人意思を無視して設営されたテーマパークとするならば、こうしてドブナイズドされた人物達は強制的にきぐるみを着せられ、テーマパークを盛り上げさせられている演者にあたる。

 ここできぐるみ演者を殺した場合はどうなるか。ふたりとも確証こそなかったが、世界が元に戻っても何らかの形で『死』だけが保存され、きぐるみの中の人達は死んだまま世界だけが元に戻ることになると勘案していた。

「面倒な……」

 愚痴が口をついて出るが、さりとて一般市民を本人の全く責のないところで死なせて知らんぷりするほど、黒ずくめも人でなしではなかった。

「私達は多少の得物が得られればいいので、ちょっとここは引いていただけないかな?」
「んだとこらぁ!」
「テメェら、どう見てもカタギじゃねえだろうが!」
「ヨソモンがオレらを無視してヤッパ買いたあいい度胸だオイ!」

 ヤクザと言ってもピンきりで、こうも喧嘩っ早いわけではない。が、こういうものと人格のテクスチャが張り替えられている以上、彼らも被害者だった。しかして、丸く収まる気配もない。

「ここの鍛冶師は何処だ」
「オマエ、オレらの話聞いてたかぁ?」

 白背広をパツパツに着込んだ角刈りの古めかしいヤクザが、一歩進みでてレイヴンへガンつける。普段であれば鉛玉の一発も空撃ちすれば萎縮するだろうが、あいにくと手ぶらだった。

「聞いていたとも。察するに貴様らはほんの一本もまだ売ってもらって折らず、そこによそ者である俺達が買付にきた。ここでこちらが刃物を買えたら先を越された貴様らの名折れになる。違うか?」
「ぐ……」

 先頭の角刈りヤクザがだまり、取り巻きが一斉に拳銃を引き抜く。一触即発の事態。すべての銃口がレイヴンに向けられていた。満開の銃の花だ。

「オレたちにも面子ってのがある……行きずりのドブネズミにも、その程度わからんのかい」
「通りすがりにそしられて欠けるとは随分と脆い面子だ。安物のガラスか?」
「コノヤッぶへぇ!?」

 この場すべてのヤクザの注目が黒い方に集まった瞬間、なんの脈絡もなく角刈りヤクザがもんどりうって倒れる。アノートの右腕には、手加減はしたと思しきトゲナシメイスが握られていた。

「あっ、アニキィ!?」

 いきなり状況が変わったことで動揺し、ボーリングのピンめいて立ち並んだヤクザの隙間を黒い風が吹き抜ける。ついで、疫病に吹かれたかのようにバタバタと倒れるヤクザ達。誰も彼も、一撃のもと急所を突かれ悶絶する。

「慰謝料だ、もらうぞ」

 手近なヤクザを蹴り転がし、銃を奪い取る黒ずくめ。拾った側からコートの内ホルスターに突っ込み、持て余したぶんはアノートにも投げて渡す。

「もっといてくれ」
「はいはい」

 苦笑しつつ、銃を受け取る教授。

「うるさいよ」

 壁と思われた一角に光の切れ目が走り、軋み音と共に開かれた。どうやら、居住室と思しき空間から、小柄な影が姿を見せる。煤まみれで継ぎ接ぎの衣服は、如実にここの主であることを物語っていた。

「もう静かになった、のでこれで勘弁してほしい」
「ふぅん。でも売るものならないよ。特に人斬り包丁はね」
「ただの一振りも?」
「無いものはないね」

 鍛冶場の主はうっとうしげにかぶりを振ると、バサバサの髪から煤が舞い散った。性別もさだかではない風体だが、声色から辛うじて年若い女性であることが判別出来る。

「人づてには、ここの人は斬れる刃物を追求してるって聞いたんですが」
「それはウソじゃない、あては確かによぉく斬れるのを打ってるさぁ。だけどね」

 主が辺りを手振りで指し示すと、確かに鍛冶場には一本とてまともに仕上がっている刃物はなかった。鍛鉄途中か、途中でダメと見てへし折られたガラクタばかりが隅に山と積まれている。

「クック、ムキになって打ちまくったは良いが……斬れる刃物があったところで、斬る物と振るヤツがいないんじゃ、タダのお飾りってことに最近気づいてね。ましてやガキの脅し程度に使われるならまるでやる気が出ない」
「だが、武器は要る。それも今すぐにほしい」
「牛丼じゃないんだ、そんなパッと出てくるわけがないだろ!……ふん、おまえ、ちょっと手を見せろ」

 言うが早いか、鍛冶師は黒ずくめの手をとって品定めをはじめた。

「おい」
「ほう、ほぉーん……こいつは驚いた。このご時世にどれだけ斬ったってんだか。だが力の入れ方がまだずいぶんと偏ってる、ヘタクソめ。それにしても硬いものからろくでも無いものまで随分と斬ったな」
「わかるのか?」
「わかるに決まってるだろ!アンタが無茶なもんまで斬ろうとして、結局折ったり曲げた本数まで、当ててやろうか」
「俺のほうが覚えてない」
「チッ、使い手としちゃ全くもって可愛げがない。だがまあ良い、道具を恋人扱いして……蔵に放り込んでほったらかすクソバカ野郎よりは百億倍マシさね。で。そっちのアンタは?」
「私はいいです、間に合ってるので」
「そうかい。ま、アンタの手は、違うもんな」

 着いて来い、と手振りで示すと、鍛冶師はヤクザだらけの鍛冶場を器用に避けて外に向かう。続いて素直についていく二人。曇天の元、外に出ると鍛冶師はあの、ひと目で冒涜的雰囲気が垂れ流しになってるすり鉢中央の棒を指した。

「アレをやる。持っていけ」
「アレを?正直お断りしたいんだが、あれは何なんだ」
「アレはな、やり過ぎた失敗作さね。アンタ、ドラゴン殺しって知ってるかい」
「もちろん知ってるが、アレとなんの関係がある」
「もしかして、どんな相手も殺せるようにドブヶ丘の汚物をひとまとめにしたとか……ハハ」
「正解」
「マジでか」
「せっかくこんな最悪の立地なんだ、わても一回トチ狂って、ここの汚濁をまとめた一本を作ったのさ。それがアレ。銘もつけちゃいねぇ失敗作よ」

 銘のない刀は、二人が説明を受けている間もドブヶ丘でもっとも低く、汚れた場所にあった。何もかも腐食してしまうこの汚染された大地において、なんら形を崩すことなく姿を保っている様は異様ですらある。

「不満かえ?」
「そもそも人間が振れる物体か、アレは」
「さーあ?殺しの威力だけなら保証はするよ。なんせアレのおかげで、ここいらには害獣も出ないくらいだ」

 その言葉を聞いたレイヴンは、強めに眉をしかめる。

「本末転倒だな。刀が無いなら牛刀かナタか、そっちのほうがマシだ」
「フン、親切のしがいもない」
「人間が持てもしない代物は道具とは言わない」
「センセイッ!」

 話し込んでいた間に意識を取り戻したのか、ヤクザ連中が掘っ建て小屋から溢れ出てくる。当然、すでに銃は巻き上げられているのでさしたる脅威でもない。

「センセイ、本当にそいつらにヤッパを売るっていうんですかい!?」
「いらないってさ。良かったねぇアンタら」
「ええっ、じゃあオレらなんのためにぐぇえ!?」

 会話の途中で、ヤクザ二人が蹴り払われる。やったのはレイヴンだ。そして蹴り込みの勢いのままにサイドステップ。直後、それまで一同がいたポイントに筋骨隆々なる全裸が降り来たり、自身の大質量で産業廃棄物の湿地をへこませる。

「見つけたぞぉ政府の犬共!」

 異常巨躯、特徴的ヒゲ、そして全裸。カニオストロ。異常全裸脅威を見たヤクザ連中が戦慄する!

『露出会!幹部!?なんでどうしてここに!?』
「散れっ!邪魔だ!」

 レイヴンの一喝に、ヤクザ集団は右往左往しながら逃げ去っていく。一方で両腕を広げ殺人ナタを構えるアノート。

「こんなところに遊びにきていいのかい?幹部クラスが」
「グワッハッハッハ!なんのことやら、ワガハイは先の屈辱を晴らしに来ただけのこと!聞けばそこの黒いの、貴様このドブヶ丘ではあの傍若無人な技を使えんようだな!?」
「それはどうかな。まあ、事実だが」
「フハーッハッ!やはり使えんのではないか!好機!このドブヶ丘最終処分場が、貴様らの墓場となるのだ!見よ!ワガハイの極限大露出!ヌヌヌヌヌヌーン!裸ーッ!」

 これ以上どこを脱ぐんだ、などという突っ込みが入るよりも早く、カニオストロの上半身は内側から弾け飛んだ。いな、内側に押し込められたなにかが、まるで筋肉がせり出し服が弾けるように、外側の人体が弾け飛んだのだ。封を解かれた中身はもとより三まわりほども体積をまし、表面は青白の甲殻が姿を見せ、その両腕には解体建築機めいた大鋏が生じた。

 率直に言って、カニである。正確には人間の下半身にカニが上半身としてくっついている、といった表現が似つかわしい。

「なるほど、だから浅瀬ねぇ」
「シューハッハッハッハ!これぞワガハイの内なるケモノを解き放った極限露出体!この姿を見せたからには貴様らの命運もつきたも同然!」
「何を根拠に断言してるんだか……」
「裸ーッ!」

 玉虫色の光彩まとったシャボン玉が、汚濁極まる処分場に吹き出した。一瞬速くレイヴンが鍛冶師をかっさらった後の、そこに残されていた奇怪な遺体にあぶくが殺到すると、湯気となって溶け落ち瓦解する。

「しゃれならないじゃないか!?なんなんだいアレは?」
「露出狂だとよ!」

 レイヴンが飛び回っているさなか、アノートは手にした狩猟ナタを振り投げ、銀の決闘銃より水銀弾を撃ちなはなつ!青紫のカニ甲殻が火花を散らし、身じろぎするも微塵のダメージも見受けられない。カニハサミ強襲!アノートは身長差を活かして懐飛び込み前転からの、カニの股をくぐり背後ショットガン射!やはりわずかに傾いだかしいだのみで、決定打にはならない。

「あの強度、そして曲線甲殻、最新鋭の戦車なみの防御力……!自信のほどは根拠があったということか」
「アンタら、勝てるのかい?」
「俺たちが死んでもそっちには危害は及ばない、今すぐには、だが」
「だったらなんとかおし!」
「脇差の一本でもあればな!」

 悪態をつきつつ鍛冶師を放り出すと、コートより銃を振りだし9mm弾の洗礼を見舞う。硝煙と共によどみを裂いて飛んだ弾丸は、過たずカニ関節部へと突き刺さったが、あっさりひしゃげて止まった。続いてアノートが放ったグレネード弾がカニ頭頂部で炸裂、鮮やかなオレンジ爆発を放出するも、カニオストロはやはりかぶりを振った程度で何の痛痒も見せない。

「シューハッハッハッハ!やはり非脱衣者は弱く!脆く!儚い!我らヒトの限界を脱ぎ捨てし限界突破露出者こそが、この星の真なる覇者!哀れな着衣者はここで滅びるがいい!」

 鋼鉄をも切り裂く蟹鋏かにばさみが、教授に掲げられた石槌を真横一文字に両断。かと思えば教授自身は器械体操パルクールにてカニ腕に飛び上がり、カニオストロの脳天を突く!またも弾かれる一撃!

 二人の攻め手どれ一つとってもまるで通用しない苦境の中、レイヴンの視界を何かがかすめた。白い影。期待の視線。

 続いて、自身が今戦っている相手を観る。ともすれば強引に汚染世界の演者として作り変えられるこの異界で、何故このカニは自分の都合の良いように自己の存在を維持し、あまつさえ変質させられるのか。

 殺人大型シカめいた殺傷速度で繰り出されるカニバサミを柳のごとく流しながら、敵を、状況を、己を観る。敵を倒すとは、解にほかならない。そして、その解は、出た。

「教授!」
「なにかな!」
「アレを抜く!」
「香典は出さないね!」

 言うが早いか、黒ずくめはドブヶ丘のそこ、最終処分場のど真ん中へ。飛び出た廃棄物を八艘飛びはっそうとびの要領で飛び渡り、わずかに盛り上がった小島へ。

「シューッ!?正気か貴様!」

 カニオストロの突き出したカニバサミから、噴射された圧縮水レーザーがわずかにレイヴンから逸れて、向こう岸を貫いた。アノートの水銀弾が一手早くカニバサミを揺るがしたのだ。

 目の前にしたドブヶ丘の汚濁の真髄は、魔剣妖刀などという表現はまったくもって的外れといえるくらい、冒涜的な雰囲気をまとっていた。

 古来より、アーサー王伝説を引用するまでもなく聖剣魔剣のたぐいは引き抜く者を選ぶという。大多数は抜けなかった程度で掴んだ者を滅ぼしたりはしないが、目の前のコレに限っては近寄っただけでも常人ならば発する瘴気に取り込まれ、狂死、あるいは壊死するであろうことは確実であった。

 実際、間近にみれば一層禍々しく、その艶めく黒曜石めいた刀身の根本には、グズグズに崩れた何者かの遺骸が散見される。もっとも崩れすぎて何人犠牲になったかはまるで判然としない。

 そしてこのドブヶ丘の支配者は、掘っ建て小屋の影からひょっこり顔を出してはレイヴンとアノートの間を視線を行き来させ、どう切り抜けるのか見定めていた。

「ええい、やってやるとも!」

 意を決して、このおぞましき刀の柄辺りに手を添え、一息に引く。触れた先から一瞬の激痛が脳裏に走り、それはすぐに無感覚へと移り変わった。辛うじて握りしめた手は青紫に変色し、ほとんど感覚がなくなっていく。

「む……くぅ……っ!」

 じりじりと刀が抜けるのが見て取れたが、まもなく視界も赤く濁った後に途絶し、真なる闇が訪れた。あるいは、意識が残らなければ死とはこんなものかも知れないとさえ思考によぎった。最後に残った聴覚に、けたたましいカニオストロの哄笑が響いてくる。

「シューハッハッハッハ!何をやるかと思えば勝ち目がないと見ての自殺行為、実際哀れ!だが何かの間違いも起こらんようワガハイが介錯してくれようぞ!」

 勝機を見たカニオストロは、アノートの大口径弾を曲線甲殻で受け流しざまに踏み込み、あの恐るべき溶解バブルブレスを放った!一見ファンシーですらある殺戮泡の群れが、死に体の黒い影に殺到!その時であった!

「南無……散ッ!」

 今にも腐れ落ちる寸前だった黒い影は、内側よりどす黒い紅焔を噴き上げ、一喝と共に突き立てられた刀を引き抜く!返す太刀で迫りくる破滅シャボンを一刀両断!黒刀の描く軌跡は禍々しい瘴気をともなって、一斉に泡を飛沫に変える!

「シューッ!?バッ、バカナーッ!?」

 ほぼほぼ死に体だった存在が猛威を振るう姿にカニオストロが硬直した瞬間、廃棄物の大地から多種多様きわまる瓦礫がせり出し、彼を引き倒して拘束したではないか!?その様はまるで地獄の断頭台めいた惨状である!

「露ーッ!?うごか、動かん!ありえん!惰弱な非脱衣者の技に、この、ワガハイが!」
「一度あったら当然二度ある、もっとも三度目はないね、ご愁傷さま」
「ウワーッ!きさまっ、きさまっ、よもや最初から隠し玉を!」

 カニオストロは戦慄した。いかにも有効打と言わんばかりのあの強制着衣攻撃は、注意を引くためのいわば見せ球だった。彼らはカニオストロが手札を出し切るのを待ち構えていたのである。

「ウワワワワッ!来るなッ!来るなーッ!」

 いまやマナイタの上のカニとなって、泡を噴くカニオストロの眼前でどす黒い閃きが弧線を描いた。

  黒紫の液体が、血脈噴水めいて高々と巨大カニの断面から噴き上げる。だが、哀れなカニの受けた被害はそれだけにとどまらなかった。まるで高級フードカッターですぱりと切り落とされたカニ身は、蒸し料理めいて瞬時に赤く染まり、かと思えばドス黒い色合いに変じて切れ目からグズグズと崩れ落ちていく。

「露ッ露露露露ッ……」

 最後の最後にか細くひと鳴きしたきり、何ら意味のある言葉も残すこと無くカニオストロであった物体は崩壊した。いまや彼の身はこの最終処分場の一部となって見分けもつかない。無惨の一言に尽きる。

 それを成した側といえば、手にしたカタナの切れ味に感嘆するわけでもなく、心底うんざりした顔で握ったそれを杖代わりに深々とため息をついた。カタナを引く抜く際の崩壊寸前ゾンビ状態の面影はいまや無く、いつもどおりの葬式仏頂面へと戻っていた。

「さいあくだ。まったく」
「ふむ。遺体が持ち運べないって事態にはならなくてよかったけど、一体どういう手品を?」
「原理的には露出会の連中と同じ仕組み」

 一戦終えたところで空気の質が変わるわけでもなく、嗅覚が麻痺してなおわかるまずさに辟易した様子でレイヴンは答えた。

「このクソッタレの侵食世界でも、自我境界の内側、自分の肉体については制御を渡さない限り自分がいじれる。後は握った瞬間に取り込まれそうになったのを、意地で押し戻してわからせたってワケだ」
「それってミスったら二度と元に戻れないままだよね」
「そうだよ」
「介錯付き切腹の方がまだ楽そうだ」

 アノート教授の軽口に返す気力もなく、レイヴンは得物を適当に担ぐと隅っこに縮こまっていた鍛冶師に視線を向けた。

「そういう訳で、こいつはありがたくもらっていく」
「良いよ。ただしクーリング・オフは無しさ」
「用が済んだらブラックホール行きの廃棄船にでも載せたいもんだ。それより」

 すっかりおとなしくなったカタナを指先でつつきながら、彼は問うた。

「銘は無いのか、失敗作とはいえ自作品だろう」
「ないね。そもそもあてに名前がない。だからあての作った代物にも、銘はないのさ。ドブヶ丘に鍛冶師はあてだけだからね」
「フムン、そうか」

 名無しの親から名付けを放棄された得物を見るにつけ、レイヴンはそれ以上言うこともなかった。もとより、異変が片付けば一緒に消えて無くなるはずの、幻のような代物であった。であれば、わざわざ猫可愛がりするものでもないし、もとより偏執的感情を道具に向けるタイプでもない。

「それじゃ、お達者で」
「お邪魔しました」
「フン、厄介払いが出来て清々したさ。せいぜいソイツでドブヶ丘のロクデナシをぶった斬ってやるんだね。そしたらあての気もより一層晴れるってもんだ」
「まあ、多分そうなる」

 淀んだ雲が、吹き流されて夕闇の橙紫を描いていた。直に夜が来る。ドブヶ丘に来て初めての夜が。

―――――

夕夜が入り交じる黄昏時は、古来から逢魔が時とも呼ばれ、奇妙怪異の跋扈が増す時間とされていた。されてはいたのだが。

「いくらなんでも多すぎる」

 最終処分場のすり鉢廃棄物迷路からなんとか抜け出た二人を襲ったのは、今まで何処にいたのかというほどのドブヶ丘怪異のあらし、あらしである。

 あの子牛めいたサイズの蜘蛛足ネズミなどはまだ可愛いほどで、大型トラックばりの異常成長アメリカザリガニ、殺人ドローンを思わせる大型蚊やら、ドブナイズド変異した生物は枚挙に暇がない。

 二人が進んだ跡には奇怪生物の死骸が、あちこちに散乱しては小型の分解生物(これも多種多様過ぎて、もはや正確に把握する気にもなれないほど)がハイエナもドン引きする速度で食いつぶしていくので、早々に骨だけが残されていく。改造生物ホラーゲームでも、もうちょっと死体が残っているだろう。

「この状況下で歩き回るのは現実的じゃないねぇ」

「まったくもって同意見だ。これで酒呑んで路上酩酊死するとか、いったいどんな神経してんだか」

 とはいえ、流石にそんな度胸のある人間は限られるのか、徐々に宵闇の勢力が増してにつれて入れ替わるように人影は見かけなくなっていく。そして、そこかしこにひしめく気配は明らかに人外の物だ。

 近代的建物の並びに反してまともに明かりがついている電灯はなく、物陰のそこかしこから名状しがたいささやきが、絶え間なく溢れい出て一行の耳朶をおびやかす。幾何学的シルエットに、時折いびつな影が見え隠れした。

「宿を取ろう」

「賛成」

「とはいえ、まともな宿があればの話だが……」

 ドブヶ丘に、あたかも現代日本でございと立ち並ぶ建物の、どれ一つとっても民家か商店か飲食店か、風俗店か、そのいずれとも奇妙にずれていて判別がつかないのである。本来、サービスを提供している店舗であれば時代と業種に合わせたデザインがあるものだが、この街にはそれが全く存在しない。まるで、文明から隔離された幼児が、都会を初めてデッサンしたような認知のズレで、それがまた実に居心地が悪いのであった。

「ここじゃWeb検索してヒットするかどうか……」

「レイヴン、あれは、ホテルじゃないかい?」

「は?」

 アノートの細やかな指先の指す方角。奇妙な建物達から頭一つ抜けて、長方形のそのビルはあった。頭にはご丁寧に『HOTEL』の看板を掲げてこそいるが、灯はまるでついていなかった。

「……アレ、元からあったか?」

「どうだろう、私もここの建物はイマイチ細かく覚えられないし、確証がないや」

「さてはて、いかなるおもてなしだか」

 レイヴンは自称ホテルを見上げながら、蜘蛛の巣を払うかのようにカタナをふるった。飛びかかってきた蜘蛛足ネズミが、真っ二つになってドブ水に突っ込む。

「まあ、のってみないか?路上よりはマシかも、だ」

「ふむう。そうだね。おばけ屋敷ならそれはそれで手がかりがあるかもだし」

「だといいんだが、いや、良くないな……」

 現代らしからぬ暗さの夜道をくぐり抜け、目的の建物へとたどり着く。見通しのいい全面ガラス張り、自動ドアの玄関はこの異界に似つかわしくない小綺麗な門構えだ。もっとも、本来自動ドアであろうガラス戸は二人が前に来てもうんともすんとも言わない。仕方なく手動で開けて入る。

「これはまた、なんとも」
「普通だね」

 白基調の意匠で飾られたエントランスは、昭和風のレトロさこそあるものだがドブヶ丘らしからぬ落ち着いた雰囲気の室内。ただし全体的に薄暗く、よく見ると照明はどれも半分の数しか点灯していない。

「あーっしゃ、珍しい。お客さん?……うっわ血スッゴ。ダイジョブ?」

 呼びかけられた声が聞こえた右手を見ると、木製のチェックイン・カウンターに独特の褐色肌ギャル風の女性が、気だるげにこちらへ視線を投げかけていた。

「自分の血ではないから心配は無用だ。それより、ここは宿泊施設であっているか?」
「見りゃーわかんでしょ。そーだよ」
「見ても聞いてもピンと来ないが、まあいい」

 エントランスの広さに反して、店員らしき人影は目の前の女性だけだ。

「ドブヶ丘っぽくない建物だけど、バブル期由来だったりする?」
「ナニソレ、ウケる。そーだって。あーしは産まれてないから爺ちゃん婆ちゃんからの又聞きだけど」

 フロントの回答に、レイヴンは眉をひそめた。大破壊のおり、過去の建築物で破損を免れた物は決して多くないからである。もっとも、そうなにもかも壊れたわけでもない。著名なランドマークには奇跡的に残った建物もいくつもあるが。

「いくらだ」
「一人、まー3000円ってとこかな。今日の気分は」
「ん。釣りはいらない」
「まいどありー。好きな部屋使ってちょーだい。どうせどこも空いてるからさー」
「鍵は?」
「ないよー、そんなの。ここに泊まりに来るのは裸一貫の文無しばっかりだから、盗れるものなんて命くらい。きひひ」

 ここまでのやりとりで、レイヴンとアノートはどちらもこのホテルが、バブル期に立てられたはいいが放棄され、地元民が勝手に占拠貸し出ししている廃墟……という設定だと理解した。もっとも外に比べれば天国と地獄ほどには差があるだろう、今の所は。

「マシな部屋はあるか?」
「そーねー、上に行くほど手つかずでマシかも。下はほら、忍び込みやすいし。あ、エレベーターは動かないからあっちの階段でヨロ」

 ほったらかしとあらば、電気設備がまともに動かないのも致し方ないかも知れない。フロントが指差したほうの逆側には飲食店の掛け看板もあったが、当然のごとく灯りはついていなかった。もっとも、やっていたとしても入ることはなかったであろう。

「それじゃ、ありがたく」
「どーぞごゆっくりー」

 言うが早いか、フロントはすでに女性誌に視線を落としていた。今どきなら大抵はスマホの役割なので、やはりこの辺りではスマホを持ち歩くのは一般的ではないようだ。

 灯りは歯抜け、自動ロックはオフ、当然のようにひと気のないホテルは、廃墟と営業中の境界のギリギリ一歩廃墟のほうへ踏み出していた。下層階は教えられた通りにひどい有様だったが、最上階まではいくこともなく中層ほどでまともな部屋を発見出来た。特に特筆すべき点もないビジネスホテルの客室に、ベッドが二台。

 一行がシャワールームで血糊を落とし、携行食を腹に押し込むと、黒い方はさっさと布団をかぶって横になってしまった。いわく、キツい時ほどしっかり寝るのが信条、だそうだ。

 星のない夜の、黒く塗りつぶされた大海原。それがアノートが窓からドブヶ丘の夜景を見下ろした感想だった。灯りはやはり現代日本とは思えないほどまばらで、この一帯においては電気設備がひどく不安定なのが伺い知れる。

「まあ、彼を見習って私も……?」

 窓側のベッドに腰掛けた時、ソレと目があった。さして広くはない暗い客室の片隅に溶け込むようにつやめく黒髪を流し、暗闇の中でもわかるほど無垢の白をまとった少女。

 とっさにアノートはレイヴンの方へ振り向いたが、熟睡していた。いな、まるで動きがない。石の像めいて、彼の動きは停止している。少女のガワをかぶった何かを刺激しないように、平静を保って向き直る。

(殺すつもりならいつでも、いくらでもできるはず。それがこうして目の前に出てきたのは、つまり……対話がしたい?)

 未知の存在を前にざわめく生存本能を押さえつけ、表面上はきわめて平静を保ってアノートは目の前の何かに挨拶した。

「いい夜ですね、お嬢さん。なにか私に御用でしょうか」

「縺ッ縺倥a縺セ縺励※縲∫エ?謨オ縺ェ邏?謨オ縺ェ縺雁ョ「讒倥?ゅ%縺薙?遘√?螟「縲√≠縺ェ縺溘?螟「縲√∩繧薙↑縺ョ螟「縺ョ縺雁沁」

 目の前のソレが口を開いた時、名状しがたい音なるささやき声がアノートの鼓膜ではなく、脳を直接揺らした。猛烈な不快感、視界が揺れるほどの眩み。少女の像がぼやけるが、かすんだ姿でもなおわかるほど奇妙な挙動をしていた。あたかも、油の切れたブリキ人形細工が、軋みながら芸をしているかのようだ。辛うじて、相手に攻撃の意思はないことだけがわかる。今はまだ、だったが。

「縺ゅl?溘♀縺九@縺?o縲√■繧?s縺ィ邱エ鄙偵@縺溘?縺ォ縺ゥ縺?@縺ヲ縲ゅ%繧薙↑縺薙→縺倥c縺?繧√?∝ォ後o繧後※縺励∪縺??縺ォ」

 すさまじい目眩にかぶりを振るアノートへ、それは出来の悪いラジコンめいてガタつきながらにじり寄ってきた。レイヴンの方は、この期に及んでピクリとも動きがない。

(どうする、迎撃……しかし、相手にコミュニケーションを取る意思があるなら、攻撃すればご破産になる)

 小刻みに震える人型の手がアノートの頬に触れた時、世界が揺れた。明らかに自分ではなく、建物が揺れている。少女の夜空のような瞳孔が開くのが見えた。

 視界が、何もかもが揺れる中、相手の瞳とだけはアンカリングされたかのように合ったままだ。目の前の存在はアノートの手を取ると、首を横に振った。

 そして次の瞬間、目の前の少女像は、ザクロが弾けるように爆発四散。血の紅が一面に飛び散り、手足が無造作に転がった。続いて部屋全体が夏にさらされた蝋細工のように歪んで溶け出し、血と混じり合って流れ出していく。ひどく気分が悪い。世界の揺れはますますひどくなって、とても身を起こしてはいられなかった。

「起きろッ!」

 かけられた一喝に、アノートは眼を見開いた。目の前にあるのはレイヴンの顔でひどく近くにあり、ついで天井が目まぐるしく後ろへ流れていっている。とっさに、何が起こっているか把握しようとするも吐き気と目眩だけは現実で、頭が全く回らない。

「起きた!?起きたな!なら自分で走ってくれ!」
「あ、ああ……しかし君は先に寝たはずじゃ」
「もう起きたさ!」

 レイヴンが投げ出すようにアノートを放り出すと、投げ出された方は猫めいて身を丸め着地。そのまま走る仕事仲間の背を追う。

「一体なにが!?」
「まだわからん!急に地震で叩き起こされてこの有様だ!脱出しようにもそっちはうんともすんとも言わないから、やむなくひっつかんでトンズラこいてた所さ!」
「それはご丁寧にどうも!」

 地の底から突き上げるような衝撃が、駆けている今この瞬間にもドゥン、ドゥンとホテル全体を揺らしている。ひかえめに捉えてもよくある地震等ではない。そして階段にたどり着く前に、客室から一斉に人影が飛び出してくる。薄暗がりの中で、それらの人影はワカメめいて揺らめいた。

「ミュルミュルーッ!」

 薄紫色の細触手で作ったような奇怪触手人間の群れは、広くもない通路を埋め尽くしまっすぐに二人に襲いかかる!ムチめいて繰り出される触手殴打が、絨毯をえぐり壁をヘコませる!

「ええい鬱陶しい!」

 黒い閃きが瞬くたびに、触手人はバラバラとウッドチップ解体されて飛び散り、肉片はすぐさま壊死して崩壊するも数がとてつもなく多い。レイヴンが切り倒すたびに、後から後から湧いてくるのである。個体が弱くてもこう多くては少々厄介ではであった。

「やはり罠だったかね」
「どうかな、利用されたのかも」
「フムン?どうやら夢見は良くなかったようだ」

 高性能稲刈機器めいて触手人を狩り倒すレイヴンの後衛より、大口径決闘銃を次々うちはなつ。不幸な触手人が、風穴を開けてちぎれ飛んだ。

「だが後だ。現実は袋のネズミ、そして敵だらけ。まずはここを出る」
「了解」

 またたく間に討ち取られるほどに、そのままではらちがあかないとみたか、触手人の残存数体が寄り集まって紐を撚り合わせるように絡み合うと通路を塞がんばかりの大型触手人へと変貌する。すぐさまアノートが一発かますも、銃弾はいくらか肉をえぐった後に浅くとどまった。

 触手人、いやすでに触手がより合わさった壁、触手壁ともいうべき存在は、無機質なホテル回廊を埋め尽くして押し寄せてくる。なんとも悪夢的光景であったが、アノートが叩き起こされた通りこちらが現実である。

 「疾ッ!」

 引き絞られた弦が解き放たれるように、レイヴンの渾身の突きが通路ど真ん中を貫く。あたかも砲弾のごとく絞り込まれた瘴気の螺旋が、触手壁を根こそぎする勢いでえぐりゆくも、やはり畳縦二枚ほど撃滅した辺りで止まってしまった。古代ドットゲームのMOB崩壊じみて霧散する前面触手の跡を押しのけ、積層奥の触手壁が新たに迫ってくる。

「こいつはとんだ物量押し」
「一旦、後退は?」
「残念ながら後ろも居る」

 言うが早いか、振り向いた先後方の通路は、触手壁とは別種の丸太めいた紫紺触手が格子のように突き出て通路を塞いでいく。今はまだ距離があるが、直に二人のところまで到達するのは目に見えていた。

「さあて、前後がダメなら横か上下か」

 黒いのが一人ごちた時、脈絡なく天井が垂れた。階段が忍者屋敷のからくりのように現れたのだ。

「行こう!」
「都合が良すぎないか!?」
「触手プレス死よりはマシだと思う!」
「まあそうだが!」

 二人が階段に飛び上がって駆け上がると、登り切るのをまたずして階段ごと上昇し、上の階へとたどり着く。済んでのところで奇怪触手まみれで死を迎えるという誰も得しない結末は回避出来た。

 上の階はまだ触手の侵攻が進んでいないのか、打って変わってひっそりと水を打ったように静まり返っている。振動は続いているが、先程の丸太触手が突き破ってくることも今のところない。

「フムン、なるほど」
「あの触手の群れは、ドブヶ丘の主の管理とは別物って感じかな」
「おそらく。だとするとまあ露出会の方って考えるのが妥当だが……まったく今までの連中とは無関係の怪異ってのもありえなくもないのがイヤだな。まったくもって」

 深々とため息をつくが、当然それで状況が好転するわけもなく。この調子ならこの階から下はもはや触手がぎっちり詰まったタコツボになっている可能性が高かった。

「下に抜けるのはちょっと無理がある、穴を掘り進める前に相手に押しつぶされるのがオチだな」
「横に移動しても状況はさほど変わらないだろうね」
「ああ。とすると後は上だが……」
「私が縄を用意できるから、特殊部隊バンジーと行こう」
「それでいこう。紐なしバンジーよりはマシ」

 話がまとまったところで、一際強い衝撃と共に二人のちょっと離れた隣にタケノコめいて巨大触手が生え突き出た。どうやら安全というわけでもないらしい。そろって駆け出す二人。

「まずは階段だ!」
「オーケイ、急いで上がろう!」

 階段の方向へ駆ける二人の後を、ドリル突出触手が追う!雨後の筍と表現するのが適切な勢いで次々生えるのはまったくもって脅威の一言に尽きる。

 ホテル特有の星あかりの乏しい通路を、駆ける、駈ける。駆け抜けるそばから、大木然とした触手が突き出、天井さえも刺し貫く。正確にこちらの位置を把握できていないのが目下の幸いだったが、さりとて立ち止まっていれば一発で木っ端微塵になる程度の誘導性はあった。ついでに闇雲に突き出した一本が進路を塞ぐ程度の厄介さも。

「ええい鬱陶しい!」

 レイヴンがドス黒い剣を振るうたびに、眼にも止まらぬ速度で触手はずるりと滑り落ちて壊死のち、崩壊する。触手を切り落とすたびに後方の触手もまた痙攣して動きが止まり、二人は進路前方に飛び散った汚らしい汁の飛沫を踏み散らかして前へ進む。

「私、気づいてしまってんだけど」

「わかってる!」

「あの太い触手、根本でつながってるよねぇ」

 そう、触手の二種のうち、太い方は明らかに干渉を受けるたびに脈打ち、のたうちまわっていた。もっともあの恐るべきドブ塊の一太刀を受けて骨の髄まで全損しないあたり、ダメージコントロールとして先を切り離す機能もあるようだったが。

「だろうな!だとすれば下に行こうが上に行こうが頃合いを見て本体が出る!」

 左の角を曲がって階段に駆け込むと、切れかけの電灯がちらつく踊り場を数段飛ばしで登る。早回しのツタ植物めいて、その後を触手が埋め尽くしていく。いまや使いまわしのホテルは下から上まで隙間なくのたうつ触手が詰められた押し寿司だ。足を止めればすぐさまもみくちゃにされてすり潰されてジ・エンドだ。

 階段の天井がとどまる、屋上へつながる鉄扉を蹴り破って、都会とは思えないほど輝きに満ちた星空の下へと飛び出した。屋上を何重にも取り囲む触手の檻がなければ、あるいは良い眺めといえたかもしれない。

「こりゃ、いくらなんでも初対面がやるこっちゃない」

「まあ、彼だろう」

「フハハハハハ!そのとーり!復讐するは我にあり!」

 ホテル全体を揺るがす笑い声とともに、巨大な何かが正面にせり上がってきた。小山ほどのまるっこいシルエットの真ん中に、非常滑り台めいた管が取り付いている。そして管の両脇には蠢き正面を注視する水晶玉の目玉が鎮座していた。色が紫紺であることを除けば、そう、巨大なヒョットコである。もっとも首元にあたる箇所から無数に触手を伸ばすさまはおぞましいの一言だったが。

「よくもよくもよくも!昼間は世話になったな腹立たしい狩人ども!先は遅れを取ったが貴様らのおかげで小生、神なる露出に開眼なったならば、もはや貴様ら哀れな非脱衣者など物の数ではない!」

「居たっけこんな奴」

「オク・ダークである!!!あれからまだ一晩もたってないであるぞ!?」

 とぼけられて、巨大ヒョットコタコこと完全露出体オク・ダークは怒りに震え、その余波でもってホテルまでも夜の闇に打ち震えさせた。

「まあよいのだ!ふざけた態度を取れるのもここまで!貴様らそろって念入りに引き裂いてくれる!」

【全裸の呼び声 -おまとめ版-:更新待ち|第一話リンクマガジンリンク

おまとめ版は連載版の更新にあわせて加筆されます。

注意

このものがたりは『パルプスリンガーズ』シリーズですが、作中全裸者については特定のモデルはいない完全架空のキャラクターです。ご了承ください。

前作1話はこちらからどうぞ!

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パルプスリンガー、遊行剣禅のパルプ小説個人誌です。 ほぼ一日一回、1200字程度の小説かコラムが届きます。 気分に寄っておやすみするので、…

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