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文字書き、文章の解像度を上げすぎ問題

じんるいは自分を標準だと思い、自分以外のじんるいもだいたい同じ感じだと信仰する。が、実際は違う。そうではない。わりと幅があり、同じ人類種でも結構なぶれ幅のデカさが存在する。

なんでこんなことをいきなり書いたかというと、文字書きは自分が処理できる文章表現が標準値だと定義してしまいがちで、これはまあ自戒も兼ねてる。

例えば、会話劇ならホントはLineくらいでもちゃんと伝わる。
LineのUIみたいな会話劇はLineが出来たから出てきたわけではなく、インターネット古代には掲示板で内輪の楽しみとしてあんな感じの会話劇をその場所に集まった人たちでやんややんやする文化も確かにあったのだ。今にはじまったわけではない。

ついでに、Lineはみんな使っているのでLine的会話劇はだいたい使ったことある人には伝わりやすい。単に小説を読み慣れている人には違和感が大きいだけなんじゃないかと思う。まあ、実際俺も違和感が結構ある。文字がある程度バーっと並んでいる方がいいが、これは個人の好みだ。

文章にもTPOがあり、適切な解像度や表現の粒度、ピックアップする語彙や情報の流れ的なサムシングがある。が、個人で好き勝手書いていると自分が一番読みやすい様に書いてしまう。これは人類の仕様で仕方がなく、直しが必要なのも慣れないウチは表現の緩急と粒度の粗密を調整しないといけないからではないか。

いや、文章の解像度は高いほどよいのではないか、とおっしゃる人もいるかもしれない。そういう人は自分の単位時間あたりの文章処理能力が高めで、他の人も同じレベルで処理できるという信仰が無意識のうちに横たわっている。これはなんか本能みたいに勝手に生える感覚なのでこまめに枝切りして剪定しておかないといけない。現実のじんるいの実態とは異なるように見えるからだ。

とりわけ、文章とはデジタル上のデータサイズも小さく、令和の現代ではどれだけ緻密な表現を詰め込んで文章をかさ増ししても文字数が足りなくなることはない。無限に思えるほどの白紙が令和の文字書きには与えられている。一方で、読む側の時間と単位時間あたりの処理能力は有限だ。

ここに、書ける、書きたい側と読む人間の深い断絶がある。

基本的に、長文書ける人間は希少種で、レアな人間だ。
それはつまるところ、同レベルで読める人間もレアってことを意味する。
自分が読めればだいたい皆読めるだろうって思い込みは、まあ、ウソだ。

戦場へ

その緻密な表現、そこに要る?
ってことはよくよく考えないといけないな。

今回はここまで、またな。

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