別世界の住人
この十数年で私が生きる世界はすっかり変わってしまった。個人的には、あの東日本大震災から。そして、この3年ほどは、まるでこれでもかとだめ押しするように、世界はとんでもない速さで変化している。「国境の長いトンネルを抜けるとまるで別世界であった」(川端康成「雪国」からの本歌取り)というような、SF的驚きを感じている。
地球は実はふたつあって、全く同じ人々が同じような環境で暮らしている。見た目はそっくりだが、実はふたつの地球に住む人たちは心の中に全く異なる世界観を持っている。私は何かの拍子にもうひとつの地球に平行移動してしまった。でも、そんなことに気づくはずもないからそれまでと同じように生活していたが、何かが違う。私が知ってる世界となんか違うと思い始める。やがて、私はもうひとつの地球に平行移動してきてしまったことに気づく。パラレルワールドだ。そんなことが本当に起きているのかもしれないと、マジで思う。
目に見える世界にはこれといって大きな変化はない。マスクの群れは消え(日本は除くが)、飲食店や観光地にも人が戻ってきたから一見するとコロナ以前の世界に戻ったように見える。でも、そう思っているのは40代以上だけじゃないだろうか。それより若い世代は、私たちとは全く違う世界を生きているんじゃないだろうか。
私にとって東日本大震災は大きな転換点だった。人によっては、それは2001年の、ワールドトレードセンターが崩れ去った911アメリカ同時多発テロかもしれないし、iphoneの登場かもしれないし、国家より多国籍企業の方が力を持つようになったGAFAM時代の到来かもしれないし、日本でもLGBTQという言葉が普通名詞になったことかもしれない。例の感染症のパンデミックや、昨今のAIの目まぐるしい進化かもしれない。
これらのことを20世紀に予見できた人がどれほどいるだろう。目に見える世界はそれほど変わっていないけれど、21世紀に入ってから、人の考えや心や生き方に大きな影響を与えるようなことが次々と大きなうねりのように襲ってきた。それなのに20世紀と同じ生き方ができるわけがない。
大人は大きな変化を好まないし、20世紀をよく覚えているから、コロナが収まってきたら「やれやれやっと元の生活が戻ってきた」と元の生活に戻ろうとしているように見える。でも、21世紀になってからの”長いトンネル”を潜り抜ける過程で生まれたり、物心がついたり、多感な時期を過ごしてきた、トンネルに入る以前の世界をほとんど知らない若者は、大人たちとは違う世界観を持っていて当然だ。
そんなことを感じていたときに出くわしたのが「ドリハラ」とう言葉。これが「ドリームハラスメント」という意味だということは容易に察しがついた。なぜなら、私の周りにも「夢を持て」とか「やりたいことはないの?」と言われるのが苦痛だという若者がいたし、その気持ちは私にも理解できたからだ。
私自身は若い頃、周囲の大人から夢を持てというようなことを言われた記憶がない。テレビの青春ドラマなどではそういう言葉がよく聞かれたような気がするけれど、自分では「私の夢」とか「将来の夢」という表現を使ったことはないと思う。「夢」という言葉は綿菓子のようにふわふわしていて掴みどころがなくて、私には使えなかったのだろう。「夢を追う」とか「どうしてもこれがしたい」というより、「こういうことは好きじゃない」、「こういう仕事はできそうもない」、「将来こういう生活はしていたくない」という消去法の果てに今の自分があるという感覚が強い。
この「ドリハラ」という言葉が、旧世代と新世代の世界観や価値観の違いを象徴しているように感じた。新世代は旧世代が慣れ親しんだ世界も知らないし、そこでは当たり前に通用していた価値観も知らないから、共感しようもないのだ。私は自分に対して「夢」という言葉を使わなかったが、それを否定していたわけではない。夢を持ったりそれを叶えるべく頑張れるのは幸せなことだと思っていた。ただ、どこかで夢を持てる人はラッキーだなという冷めた目も持っていた。だから夢を持つことの価値も理解できるが、「ドリハラ」と言いたい気持ちもわかる。
もうひとつ、私が別の世界に平行移動していたことに気づかせてくれたものは、「尊厳死」という言葉だった。去年話題になった映画「PLAN75」やフランス映画「すべてうまく行きますように」はどちらも尊厳死をテーマにした映画だったが、これらの映画を立て続けに見たことも偶然とは思えなかった。「お前は新しい世界に移行したのだから、新しい世界で生きるための死生観を持て」と誰かに言われているような気がした。
話を元に戻すけれど、”長いトンネル”以前と以後では私が生きる世界は全く変わってしまった(あなたが生きる世界はどうかわかりません)ので、元の生活(私の場合は東日本大震災以前)に戻れるとは考えていない。まったく新しい生き方が必要だろうと考えている。これまで機能していた価値観や考え、生き方はもう機能していないから、新しく見つけなくてはならないと。もしかしたら、それはこれまでの価値観とは180度異なるようなものかもしれない。
だから、この、私たち世代が大事にしてきた、というより便利に使っていた価値観を否定するような「ドリハラ」という言葉が、古いものを捨てて新しい生き方や価値を模索するしかなくなった、今の私の気分にピタッとハマったのかもしれない。また、尊厳死を扱った映画にピンときたのも、新しい世界に移行した私が必要な生き方を模索していたからだと考えるとすごく納得できるのだ。古い世界では改めて考えたことがなかったけれど(単にまだそういう年齢には達していなかったというだけかもしれないが)、これからは自分の死生観を持たないと新しい世界で生きる舵取りが難しくなるんじゃないか、そんな予感がしている。
新しい世界で生きる準備をしろというサインを送ってくれたのが「ドリハラ」という言葉であり、尊厳死を扱った映画だった。
らうす・こんぶ/仕事は日本語を教えたり、日本語で書いたりすること。21年間のニューヨーク生活に終止符を打ち、東京在住。やっぱり日本語で話したり、書いたり、読んだり、考えたりするのがいちばん気持ちいいので、これからはもっと日本語と深く関わっていきたい。
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