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ため息

ため息

「はぁ……」
 Aはため息をついた。昨日もついた。一昨日も。その前も。たぶん明日もつく。最近、Aのため息は多い。
 これと言って何かがあったわけではない。どうにも気分が優れないのだった。現状に満足しているのかと言われればそんなこともない。じゃあ何が不満なのかと聞かれても困る。つまり、自分で自分の状態を言い表せず、もやもやしているのだった。
 ため息は、質感のある半透明の気体となって口から出、空気に

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抑揚を持たない宇都宮誠弥と、彼のモラトリアムな年(21)

宇都宮が汗だくで目覚めるとすっぱい匂いが鼻をついた。太田が寝ゲロを吐いていた。スマホの時計を見るともう昼前で、不在着信が三件入っていた。全部レンタカーの会社からだった。昨日連絡を入れ忘れていた。すぐに折り返し「夕方までには返却します」と言った。ゲロで汚れているのは言いづらくて黙っておいた。どうせ返す時にバレるが、先延ばしにした。

一昨日から同じ服を着ているので、自分で自分が臭かった。また丸い女に

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抑揚を持たない宇都宮誠弥と、彼のモラトリアムな年(20)

窓ガラスを叩く音がした。事務の丸い女だろうかと思って目を開けると、ミンソが微笑んで見下ろしていた。手招きしている。まだ夜は明けていなかった。後部座席の太田はいびきをかいていた。宇都宮は太田と自分を交互に指さし、「二人とも?」とジェスチャーでミンソに聞いた。ミンソは首を振り、宇都宮を指さした。宇都宮は再度、太田の様子をうかがい、物音を立てないように車の外へ出た。
ミンソはそうするのが自然なことである

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抑揚を持たない宇都宮誠弥と、彼のモラトリアムな年(19)

参加者全員でホールの片付けをした。スタッフの指示に従い、照明機材やスピーカーを運び、床を這うコードをまとめ、長机やパイプイスをたたんだ。お祭りが終わった後のようで、宇都宮はなんだかさみしかった。二時間ほどでホールの中はからっぽになった。

そのあと、大学の近くの居酒屋で打ち上げをした。小さな店内に30人以上がぎゅうぎゅう詰めに座った。密度が高過ぎる。でもこの辺りに居酒屋はここしかないのだった。満足

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抑揚を持たない宇都宮誠弥と、彼のモラトリアムな年(18)

発表会が始まった。最初にアキラ・キタムラがステージに立ち、趣旨の説明をした。
「えぇ、インタラクションデザイン研究室のキタムラです。このたびはお集まりいただきまして誠にありがとうございます。チラシにも書いておりますが、このワークショップは『身体とメディアの融合』を目的として開催いたしました。韓国からセオ教授にもご協力いただき、教授の生徒の方々にもご参加いただいております。えぇ、昨日の昼前からスター

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抑揚を持たない宇都宮誠弥と、彼のモラトリアムな年(17)

窓ガラスを叩く音で目が覚めた。シートを起こして座り直すとサナリに蹴られたケツが痛かった。フーとトゥーンとミンソが車内をのぞき込んでにやにやしていた。三人とも眠そうだ。遅くまで作業していたのだろう。時計を見ると10時前だった。夢のせいでミンソの顔は直視できなかった。ばたばたと荷物をまとめて車の外に出た。いい天気だった。

宇都宮は昨日風呂に入っていないので身体がべとべとした。髭も伸びていた。ホールの

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抑揚を持たない宇都宮誠弥と、彼のモラトリアムな年(16)

「じゃあ、今日は一旦締めます」
マイクを通してアキラ・キタムラが言った。閉館時間になってしまった。セオさんが「나갈 준비 해!」と大声で言った。似たようなことを言っているのだと思うが、怒っているように聞こえた。
フーはノートパソコンを片付けながら「ウイ、ワーキング、アット、ホテル」と宇都宮に言った。ホテルで作業の続きをすると言っているのだろう。「マシャ、プリーズ、メニー、メニー、ポルノ、イラストレ

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抑揚を持たない宇都宮誠弥と、彼のモラトリアムな年(15)

ホールに戻ると、太田カツキのグループがステージを使ってリハーサルしていた。太田はコンピュータを扱えないのでパフォーマーだった。床のスクリーンに日本語と韓国語の文字が散らばっており、太田が文字を拾って、壁のスクリーンに投げるジェスチャーをすると、文字が壁にびゅんと飛んで行った。写植のようだった。今は完全にデジタル化されているが、昔は文字の形のプレートを一つ一つ組み合わせて文章を作る写植という方法で印

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抑揚を持たない宇都宮誠弥と、彼のモラトリアムな年(14)

作業をしていると「はかどっていますか?」とセオさんに後ろから話しかけられた。セオさんの日本語は流暢だった。
「演技はサナリさん、映像はフーさんが引っ張ってくれているので、はかどっています」宇都宮は振り向いて言った。
セオさんはうなずき「후, 잘 해봐」とフーに言った。フーはモニターを見たままうなずいた。セオさんの口調は強く、バイタリティのあふれる方なのだろうということがよくわかった。そうでないと2

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抑揚を持たない宇都宮誠弥と、彼のモラトリアムな年(13)

みんなが挙げた好きなものを組み合わせて、「男が客引きの女の子に連れられて風俗店に入ってめくるめくサービスを受けたがお金が足りず、元サッカー選手の用心棒に蹴られてドブネズミのように捨てられ、女の子は実は化け猫で男は食われて死ぬ」というストーリーができた。とりあえず一歩前進した。みんなホッとしたが、フーは何やら考えていた。
「フー?」サナリがフーに聞いた。
「ワット、イズ、ディス、ストーリーズ、テーマ

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抑揚を持たない宇都宮誠弥と、彼のモラトリアムな年(12)

参加者の三分の二は韓国から来た学生だった。先ほど見回っていた女性はセオさんといって大学の教授で、みんな彼女の生徒達だった。アキラ・キタムラと同じようなことを勉強しているらしい。全員がノートパソコン持参だった。釜山から博多までビートルという高速船に乗ってきて、そこからマイクロバスでこの大学まで来たようだ。
緊張と遅刻のバタバタで気付かなかったが、よく聞いたら飛び交う言葉の大半が日本語ではなかった。お

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抑揚を持たない宇都宮誠弥と、彼のモラトリアムな年(11)

広川のインターで降りたはいいものの、「道案内するから」と言った太田は一時間近く前から居眠りしており、インターから大学までの道がわからない。とりあえず備え付けのナビを頼りにそれらしい方向へ車を走らせた。
道幅はせまく、田んぼと、雑草の茂った荒地と、灰色の建物がばかりだった。重そうな雲が増え、空も灰色だった。あとはぽつんぽつんと住宅とビニールハウスと個人商店。のどかである。色あせた選挙の看板と真っ赤な

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抑揚を持たない宇都宮誠弥と、彼のモラトリアムな年(10)

9月になった。宇都宮の鼻は季節の変わり目になると、なぜかガソリンのような匂いをかぎとった。子どもの頃、宇都宮は鼻炎で毎週のように耳鼻科に通っており、鼻から薬を吸入していた。そのせいで匂いの受容体がおかしくなったんじゃないかと思っていた。本当のところはわからない。大自然の中だろうと関係なく、ふとした時にガソリンの匂いがした。

車の窓をあけ、風を顔面で受け止めている時に宇都宮はガソリンの匂いをかぎと

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抑揚を持たない宇都宮誠弥と、彼のモラトリアムな年(9)

マサミ姉ちゃんと会えることになり、宇都宮のテンションは上がっていた。すぐに新幹線の改札を出た。15000円の切符がパスタを食べただけで消えた。
それから宇都宮はシャツを買いに行った。ミートソースのついたシャツでマサミ姉ちゃんに会いたくなかったからだ。駅ビルに入り、最初に目についたオシャレそうな紳士服の店で白いシャツを手に取った。値札を見ると7800円だった。宇都宮は普段、スーツの白シャツに絶対にそ

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