抑揚を持たない宇都宮誠弥と、彼のモラトリアムな年(17)

窓ガラスを叩く音で目が覚めた。シートを起こして座り直すとサナリに蹴られたケツが痛かった。フーとトゥーンとミンソが車内をのぞき込んでにやにやしていた。三人とも眠そうだ。遅くまで作業していたのだろう。時計を見ると10時前だった。夢のせいでミンソの顔は直視できなかった。ばたばたと荷物をまとめて車の外に出た。いい天気だった。

宇都宮は昨日風呂に入っていないので身体がべとべとした。髭も伸びていた。ホールの事務室にいた丸い女に「シャワーはありますか?」と聞いたら、「あります」と言われ、「お借りできますか?」と聞いたら、「できます」とのことだったので、コンビニでタオルとカミソリを買い、シャワーを利用した。今の所、この丸い女にノーと言われたことは一つもない。車で寝ていたのもばれているだろう。シャワーを浴びながら身体をひねって尻を見ると紫に変色していた。

タオルを首にかけてホールに入ると、サナリが寝転がって柔軟体操をしていた。昨日より頭頂部の髪がピンとしていた。セットしている。「おはようございます」と言うと、「あぁ」と言われた。「ケツ、痛くないですか?」と聞くと、「痛えよ」と言われた。「俺もです」と言った。どのグループも、映像班は眠そうでパフォーマーは元気だった。太田カツキは二日酔いでテンションが低かった。何時まで飲んでいたのか知らないが、アキラ・キタムラの顔色は変わらなかった。

フー達が昨夜作った映像を見せてくれた。ミンソが化け猫に変身する映像で、撮影したミンソのバストアップが大写しになり、モーフィングして徐々に三毛猫の顔と混ざり、中途半端に混ざった所で「ぶにゃあ」と鳴いた。キャッツに出てくる人みたいだった。眠いからみんなテンションが低くて、「ふふ、ふふふ……」と不気味に笑った。
宇都宮が作った素材もフーに見せた。おっぱい、セクシーな下着、水着美女、全裸美女、金髪美女、美女、女子高生、女子中学生、熟女、スカートと足、くちびる、半開きの口、べろ、よだれ、矢印、鎖骨、トイレのマーク、剣、杖、桃太郎、東京タワー、南極3号、ふんどし、壺、π、∞、銃、にんじん、だいこん、ゴボウ、きゅうり、じゃがいも、ピーマン、カレー、ペットボトル、弓矢、69、バナナ、人体模型、がいこつ、地球、海、ブルースウィルス、月と太陽、ハートのマーク、音符、神、レイバンのサングラス、ガーターベルト、イカ、筋肉、ネクタイ、ハイヒール、盆栽、リンゴ、フォーク、ワニ、貝、サーターアンダギー、モザイク、棒、マリネ、ミネストローネ、ズッキーニ、パスタなど、描いたイラストは80点近くあった。途中から朦朧としてエロいのかなんなのかよくわからないものまで描いていた。
フーは「オーケー」と言い、親指を立てた。急いで編集作業を行った。宇都宮もわからないなりに、フーやトゥーンから言われたことを手伝った。時間が飛ぶように過ぎた。宇都宮達のグループ以外はステージでのリハーサルを終えたようで「君たちが最後だよ」とアキラ・キタムラにせっつかれた。昼飯を食っている暇はなかった。

昼過ぎにリハーサルを行った。他のグループからの視線を感じた。サナリは慣れたもので、風俗店でめくるめくサービスを受けるシーンでは、ふにゃふにゃとよくわからない踊りを披露した。脳を通さず、反射で動いているようだった。演技と映像を合わせるのは初めてで、タイミングが合わず、変に沈黙ができたりした。ミンソは緊張していた。練習で普通にできていたことまでミスした。「ミンソ、リラックス」とサナリが言った。ミンソが固い笑顔を返した。「きっかけを決めて」とアキラ・キタムラから指示が出た。セオさんが韓国語でフー達に何かを伝えた。サナリと宇都宮が蹴り合うシーンは手を抜いた。痛いから。「本番は本気で蹴ります」とサナリがスタッフに伝えた。リハーサルの様子を見ながら、同時にスタッフが照明を作り、音を合わせた。壁のスクリーンにミンソの顔が映った。目が合っているような気がして、宇都宮はスクリーンのミンソをじっと見た。リハーサルで何をすればいいのかわからず、用心棒のシーンでちょっとステージに出た以外、宇都宮は呆然と見ていただけなのだが、自分たちの考えたものが立ち上がっていく過程に興奮していた。

リハーサルを終え、演技と映像のタイミングについてサナリとフーが話し合った。サナリの意図を宇都宮が英語でフーに伝えた。リハーサルの興奮と時間がないことへの焦りから、一つ一つの単語に妙に力が入った。フーは理解し、トゥーンと映像の最終調整を行なった。手の空いた者は成果発表会の準備をした。一時間後にはもう客がやってくるのだ。散らかった荷物を片付けたり、ステージの前にパイプイスを並べたりした。事務の丸い女がアキラ・キタムラと打ち合わせをしていた。
薄暗くなったホールの中で宇都宮はぼーっとステージを見ていた。ワークショップの参加者は客席のさらに後ろで待機していた。客がぞくぞくと入ってきた。大半がここの学生のように見えた。教授らしき人も何人かやってきて、アキラ・キタムラがあいさつをしていた。宇都宮は緊張してきた。ちょっとしか出ないのにこれだけ緊張するのだから、ミンソの緊張は相当なものだろう。ミンソはトゥーンと何やら話していた。不安そうだった。トゥーンの腕に触れていた。自分も触れられたいと宇都宮は思った。後ろから肩を叩かれた。フーだった。「マシャ、レッツ、スモーキング」と喫煙に誘われた。

客の流れに逆らって、宇都宮とフーはホールの外に出て煙草に火をつけた。「コンプリート?」と宇都宮は聞いた。「ヤア」とフーが答えた。映像の処理を終えたようだ。目が充血していた。「マシャ、イズ、グラフィックデザイナー」フーが言った。あの落書きみたいなイラストのことを言っているのだろうか。印刷会社に勤めてはいるが、デザイナーではないので、宇都宮は手を振って「ノー」と笑った。ギャルっぽいメイクにジャージの女の子が宇都宮たちの前を通り過ぎた。いい匂いがした。
「ユア、ジョブ、イズ、ハード?」フーに仕事は大変かと聞かれた。繁忙期には当然仕事が立て込む。基本的に受注産業なので、客に「明日までに仕上げてくれ」と言われれば徹夜してでも用意する。家庭用パソコンでチラシのデザインができる時代だし、ネット印刷の台頭や紙媒体の減少など、業界自体が縮小傾向にある。毎年のように合併や倒産の噂を耳にする。客の要望には可能な限り答えないと生き残っていけない。「イエス」と答えた。フーはうなずいた。
「アイ、ウォントゥ、ビー、プロダクトデザイナー」煙を吐き出しながらフーが言った。プロダクトデザイナーは製品のデザインをする人のことだ。携帯電話のデザインなどもそうだ。友達のような感覚で接していたが、フーはまだ学生だった。宇都宮より確実に二、三年後の未来を見据えている。フーなら何にでもなれると宇都宮は思った。適当な言葉が見つからず、親指を立ててうなずいた。フーが照れる様に笑った。スマホを取り出し「テルミー、ユア、メールアドレス」と宇都宮は言った。フーとアドレスを交換した。事務の丸い女が入口から顔を出し、「もうすぐ始まりますよ」と宇都宮たちに声をかけた。煙草を消し、ホールへと戻った。

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