抑揚を持たない宇都宮誠弥と、彼のモラトリアムな年(21)
宇都宮が汗だくで目覚めるとすっぱい匂いが鼻をついた。太田が寝ゲロを吐いていた。スマホの時計を見るともう昼前で、不在着信が三件入っていた。全部レンタカーの会社からだった。昨日連絡を入れ忘れていた。すぐに折り返し「夕方までには返却します」と言った。ゲロで汚れているのは言いづらくて黙っておいた。どうせ返す時にバレるが、先延ばしにした。
一昨日から同じ服を着ているので、自分で自分が臭かった。また丸い女にシャワーを使わせてもらおうと思ってホールに向かうと鍵がかかっていた。今日は開いていないようだ。今のお前にはべとべとで汗臭いのがお似合いだと丸い女に言われている気がした。おとなしく車に戻り、ゲロに呆然とし、エンジンをかけ、ナビに帰り道を入力した。今aikoはちがうと思ってステレオは切った。太田はまだゲロにまみれて寝ていた。
高速道路を走りながら、宇都宮は昨日の夢のことを反芻した。ミンソの手の感触をかなり鮮明に覚えていた。それはたぶん、昨夜校庭でした握手の感触だった。観光バスに追い抜かれた。窓をあけ、風を顔面に受けた。ガソリンの匂いなどはせず、ゲロの匂いだけがした。筑後川にかかる橋を渡った。白い柱がトラスのように組まれており、幾何学模様を描いていた。でかい積み荷を緑のほろで覆ったトラックに追い抜かれた。宇都宮が最低法定速度で走っているからだ。何を積んでいるのかは見えなかった。青い空を斜めに飛行機雲が横切っていた。
久留米を過ぎた辺りでふと思い立ち、ミンソ達の乗って帰る船を見送りに行こうと思った。何時の便に乗るのか把握していなかったが、それでも行きたかった。スマホで場所を調べ、ナビを入力し直したりしていると道路の壁で車の横腹をこすった。危ない。死ぬ。急いでハンドルを切り直した。スマホが足元に落ちたが、もうこわくて拾えない。スマホを踏んで運転した。太田が「……う~ん」とうめいた。それからまた静かになったので起きてはいないようだ。今はまだ寝ていてほしい。aikoを流した。
太宰府で九州道から福岡都市高速に乗った。宇都宮はETCカードなど当然持っておらず、料金所は有人ゲートをくぐるのだが、太田が寝ているため小銭の用意で相当もたつき、後ろからクラクションを鳴らされた。大野城を通り過ぎて博多に入ると街並みが急に都会っぽくなった。道路の分岐が複雑過ぎて、ナビされてても間違えそうだった。
博多港にある高速船の発着ターミナルに着いた。バックで駐車する際、アクセルとブレーキを踏み間違えて勢い良くぶつけた。テールランプが割れた。けたたましい音でピュイピュイ鳴り出したので、カギのボタンをあれこれ連打して止めようとしたが、鳴っているのはぶつけられた黒のミニバンの方だった。車を返却するのがどんどんおっくうになった。さすがに太田が飛び起きた。「え、何、おえっ、くさっ……、何?」と状況が全く理解できていなかった。「ちょっと、いろいろ、あれしてくるから、待ってて」と、宇都宮は説明もそこそこに車を降りた。周囲にいた人たちが遠巻きにこっちを見ていた。宇都宮は早歩きでその場を去った。
潮の匂いがした。ターミナルの中を覗いたが、学生達の姿は見当たらなかった。もう帰ったのかもしれないし、まだ着いていないのかもしれない。港はフェンスで囲まれ、侵入されないように警備員が見張っていた。フーにメールしてみようかと思ったが、スマホは運転席の足元に落としたまま忘れてきた。フェンス越しに船を見た。警備員がこっちを見ていた。
昨日の発表会のことを思い出しながらフェンス沿いに埠頭を歩いていると、でかい倉庫や大量のコンテナが並ぶ通りに出た。フェンスもなくなり、業者のトラックしか見かけなくなった。入る道を完全に間違えた。荷を積んだ船が出たり入ったりした。船乗りが足を乗せる台があった。乗せてみた。ビーっと笛の音がしたので、怒られたと思って急いで足を下ろした。音のした方を見ると、船に赤と白の手旗で合図を送っている男がいた。男が機敏な動きで合図を送ると、船から汽笛が返ってきた。何かが伝わったようだ。そして男は合図を送り終えると、走って宇都宮に近づいてきた。笑顔だった。
「飛び込まないでね」
「え?」
「海、飛び込まないでね」笑顔だった。
「はい」
「だめだよ、飛び込んだりしちゃ」
「飛び込みません」
「いや、飛び込みそうな顔してたから」
「こういう顔なんです」
手旗の男は首にかけた笛をくわえてビーッと吹き、ばばばっと手旗で船に合図を送った。宇都宮は笛の音で耳がきーんとした。
手旗の男は「君、なんだか臭いな。これ使いな」と言ってポケットから汗拭きシートを取り出し、宇都宮に差し出した。宇都宮はシートをもらい、顔を拭き、胸から脇の下にかけても拭いた。すーすーして気持ち良かった。手旗で合図を送った船からボーと汽笛が返ってきた。
「手旗信号ですか?」
「何に見える?」
「え?」
「何に見える?」
「手旗信号に見えます」
「じゃあ手旗信号だよ」男は意地が悪かった。
「さっき、何て合図したんですか?」
「ススメ、だよ」男は旗を振った。
「トマレもあるんですか?」
「トマレは、こう」男は旗を振った。機敏だった。
「無線とかじゃないんですね」
「ん、素人は、そう思うよね」手旗の男は鼻で笑い、得意げに言った。宇都宮はイラッとした。
「無線だと複数の船が同時に送ると混線しちゃうでしょ? だからアナログでやってんの」
「あぁ」
「中国語とかロシア語も入ってくるんだから」
「……韓国語もですか?」
「入るよ、そりゃ」
「……韓国に行く高速船にも合図を送ったりますか?」
「ビートルのこと?」
「はい」
「昼の便はもう出ちゃったから、次は二時間後だよ」
「……そうなんですね」
「君、ゲロ吐いた?」男は鼻をすんすんさせて顔をしかめた。宇都宮はまだ臭いようだった。
「いや、僕じゃないんですが、車ん中がちょっとゲロまみれで、えぇ」
「……使いな」手旗の男は汗拭きシートをもう一枚出した。宇都宮はまたすーすーした。
事務所らしき建物の横に皮のやぶれたソファや冷蔵庫が無造作に捨てられ、ビニールシートがかけてあった。ひからびたタイヤが山積みになっていた。業者のジャンパーを着た髭面の男が海を見ながら煙草を吸っていた。
「乗るの?ビートル」手旗の男が言った。
「いや、乗りませんけど」
「じゃあ何?」
「見送りです」
「……二時間後だよ?」
「いや、その、昼の便を見送りに来たんですが、間に合いませんでした」
「彼女?」
「友達です」
「友達以上彼女未満?」
「友達です」
「不倫?」
「友達です」手旗の男はぐいぐい来て鬱陶しかった。
停泊している船からボーと汽笛が上がった。男は船に手を振るように旗を振った。
「なんですか、それ?」
「返礼。あいさつしてんの」
「へえ」
「あの船の船長、俺の同僚なんだぜ」
「あ、そうなんですね」興味がなかった。
「俺もなりたかったな、船長」
「なれなかったんですか?」
「船酔いがひどいの」
「そうなんですね」
駐車場らしきスペースに赤のカラーコーンが二つ置かれ、一つは倒れていた。釣りをしている人が何かを釣り上げた。遠くてよく見えなかった。
「……俺も振ってみていいですか、旗」
「振りたいの?」
「はい」
「ちょっとだけだよ」手旗の男は宇都宮に旗を渡した。「右が赤で、左が白ね」
宇都宮は言われた通りに旗を持った。「ススメって、どうでしたっけ?」
「こう」男が腕を横に広げ、上下に広げ、顔の前でクロスし、腕を下ろした。それをもう一度し、今度は腕を斜めに広げ、顔の前でクロスし、下ろした。「ス・ス・メだね」
宇都宮は海に向かって、ススメと旗を振った。
「そんなふにゃふにゃ振っても伝わらないよ。ス・ス・メーっ! くらいのつもりで振らないと」
宇都宮は言われたように、力いっぱい旗を振った。ススメーっ! と振ったつもりだが、身体がついてこない。運動不足だった。
「ス・ス・メーっ! だよ。言いながらやってみ」
「……ス・ス・メー」宇都宮は言いながら旗を振った。
「もっと腹に力を入れて!」
「ス・ス・メーっ!」
「もっと!」
「ス・ス・メーっ!!」
「そうそんな感じ!」
「ス・ス・メーー!!!」
「いい、いい」
「ス・ス・メーー!!!!」
「そう、それでばっちり」
「ス・ス・メーーーー!!!!!」
「うん、いい、いい」
「ス・ス・メーーーーー!!!!!!」
「いい、もういい」
「ス・ス・メーーーーーー!!!!!!!」
「君、もういい」
「ス・ス・メーーーーーーー!!!!!!!!」
「もういい、もうやめて」
「ススメーーーーーーー!!!!!!!!」宇都宮は旗もそこそこに絶叫した。
「もうやめなさい!」
「ズズベーーーーーーー!!!!!!!!ズエーーーーー!!!!!!!!」
「やめろこの野郎!」
船からボーと汽笛が返ってきた。宇都宮の手旗が伝わった。宇都宮は言葉にならない叫びを上げて大きく旗を振り、返礼した。
「バカ、伝わっちゃったじゃないか!」男は宇都宮の頭を叩いて旗をひったくった。「おい、今のは違うぞ! まちがい、右に旋回、右に旋回ー!」と言うとばばばっと機敏に旗を振った。再度汽笛が鳴った。合図が伝わったようだった。
「……まったく、とんでもないな、お前……」手旗の男はぶつぶつ文句を言いながら去っていった。
宇都宮は男に叩かれた頭をかきながら海を眺めた。船がゆっくりと右に旋回していた。大声を出したので喉が痛かった。ジュースを買おうと思ったが、財布は車の中だった。夕方の便を待つのはやめた。ゲロまみれの太田と待つのは気が滅入る。それより、小倉に帰ったら韓国のガイドブックを買いに行こう。海外にはまだ行ったことがない。パスポートも作らないといけないな。パスポートってどれくらいお金かかるんだろう。ネットで調べよう。とりあえず、事故の処理と、レンタカーの返却と、ハムスターの世話だ。めんどうだなーー宇都宮は来た道を引き返した。潮の匂いにまじってガソリンの匂いがした。もうすぐ秋だった。
終わり
・参考文献
宇都宮誠弥「Flag」
北中「physical integration」
・韓国語翻訳
北村加奈子
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