抑揚を持たない宇都宮誠弥と、彼のモラトリアムな年(16)
「じゃあ、今日は一旦締めます」
マイクを通してアキラ・キタムラが言った。閉館時間になってしまった。セオさんが「나갈 준비 해!」と大声で言った。似たようなことを言っているのだと思うが、怒っているように聞こえた。
フーはノートパソコンを片付けながら「ウイ、ワーキング、アット、ホテル」と宇都宮に言った。ホテルで作業の続きをすると言っているのだろう。「マシャ、プリーズ、メニー、メニー、ポルノ、イラストレーション。アンド……」と、翌日までに用意してほしい素材を宇都宮に伝えた。
「ヤア」宇都宮は答えた。宇都宮も引き続き作業するつもりだった。小倉まで帰る時間が惜しい。
外に出ると真っ暗だった。大学の周りに灯りの点いた建物は少なく、外灯だけがぽつんぽつんと光っていた。丸い印象の女がホールの施錠をした。ここの事務員のようだった。
韓国の学生たちはマイクロバスに乗り、JRの最寄り駅付近にあるビジネスホテルへと帰って行った。駐車場で見送っていると、フー達がバスの中から手を振っていた。宇都宮は手を振り返した。
バスが見えなくなると太田が近づいてきた。「まあまあ楽しいだろ?」別に太田が企画したわけではないのに、得意げだった。
「うん」
「明日、打ち上げがあるらしいぜ」
「あぁ、そう」宇都宮は上の空だった。今晩中にやらないといけない作業のことで頭がいっぱいだった。
「宇都宮も飲むだろ? 明日は電車で来ようぜ」
「……俺、今日帰んないわ」
「うん、え?」
「車の中で作業する」
「……じゃあ俺は?」
「電車で帰る?」
「え~、めんどくさい」
「じゃあ、後部座席で寝て」
「……え~」
太田はその後も、自分がどれくらい家に帰りたいのかということを主張し続けたが、宇都宮に帰る気がないことがわかると、アキラ・キタムラに電話し、「俺、先輩と飲みに行ってそのまま泊めてもらうから」と去っていった。
宇都宮は事務員らしき丸い女に「車、明日まで停めたままでもかまいませんか?」と聞いた。かまわない、と丸い女は言った。車中泊することは黙っておいた。レンタカーの会社に電話をして、返却日を一日延ばす旨を伝えた。
国道沿いのコンビニでお茶とおにぎりを買って戻ってくると、ホールの灯りも消え、学校は真っ暗だった。丸い女も帰ったのだろう。宇都宮はしんとした校庭にピュイピュイと甲高い音を響かせ、車のロックを解除した。思いのほか解除音が響き渡り、びくびくしながら周囲を見回したが、誰も来なかった。運転席だとハンドルが邪魔だなと思ったので助手席に座った。太田のこぼしたオイルの匂いがほんのりした。気のせいかもしれない。宇都宮はエンジンをかけてエアコンを効かせ、ノートパソコンを立ち上げながらおにぎりをほおばった。ステレオからaikoが流れた。
その夜、明け方まで作業をし、シートを倒して眠った宇都宮は夢を見た。白い簡素な部屋の中で、宇都宮は身体が埋まるくらい沈み込むソファに座っていた。向かいにも同じソファが置かれ、ソファの足元からちょろちょろとハムスターが這い出した。ハムスターの身体はみるみる大きくなり、宇都宮の身長と同じくらいのサイズになった。ハムスターはソファに乗り、宇都宮と対面した。
「おい」ハムスターは日本語で話しかけてきた。「おい、エサは?」作業のことで頭がいっぱいで、ハムスターにエサをやることをすっかり忘れていた。
「ごめん」
「いや、ごめんやなくて」
「忘れてた」
「それ、飼い主としてどうなん」ハムスターを後ろ足で耳の裏をすばやく掻いた。
「……すいません」
「俺がな、自分で冷蔵庫開けて、チーズやらキャベツやら、勝手に食えるんならええよ? ええけれどもよ、そうやないやろ?」
「あぁ……うん」
「あ? どうなんかちゃ」ハムスターは北九州の方言で威圧してきた。
「……ケージに入っているので、冷蔵庫は開けられません」
「そうやろ? そうやわな」
「……すいません」
「ケージも狭いんよ。一日一時間は出たいわ」
「……はい」要求が多い、と宇都宮は思った。
「まあ、小屋ん中にさ、エサは貯めとるけ、飢えんよ。飢えんけれども……、あの『ハムスター』って呼称はさ、『ほおぶくろ』っていうのが語源だから。俺ら、貯めるんよ、小屋ん中に、エサを。だけ飢えんけれども……、これはまあ、満足度の問題やわな」ハムスターはうんちくを交えて愚痴った。ほおぶくろからヒマワリの種を出して宇都宮に見せ、ガリッとかじった。
「ごめん、明日には帰るから」
「何、仕事が忙しいん?」
「うん、ちょっと、やらなきゃいけない作業があって」
「あの子のことが好きなん?」
「え?」
「好きなん、あの子のことが」ハムスターはお見通しだった。
「……でも、ミンソはトゥーンと付き合ってんだよ」
「関係ねえよ」関係なくはない、と宇都宮は思った。
「同じケージん中によ、オスのハムスター二匹と、メスのハムスターを一匹入れたら、オス同士はケンカしてどちらかを殺し、勝った方がメスと交尾するんだよ」
「……へえ」
「強い者がいい思いをする。弱肉強食だよ」
「大変ですね」
「他人事やねえやろ。奪い取れ」
宇都宮は覚えている限り、これまでの人生で誰かから何かを奪い取ったことなどなかった。そしてハムスターの世界は過酷だと知った。
「俺も交尾したいわ」
「は?」
「交尾したい、俺も」ハムスターは正面切って主張した。その顔から表情は読み取れなかった。
「『も』って……、俺は別に、交尾したいなんて言ってないよ」
「したくないんか、交尾」
「……」したくない、と言えば嘘になった。「でもそれは、交尾ありきの関係っていうより、関係を築いた上での交尾っていうか……」
「ロマンチストか」ハムスターに突っ込まれた。「お前、日本にロマンスの概念が入ってきたのは黒船以降で、それまで日本人の恋っていうは色恋だったんだよ。『色』ありきだぜ? 俺的にも、そっちの方が生き物として正常だと思うわ」突っ込まれた上、色恋のうんちくまで披露されてしまった。
「まあ、どうするのかはお前次第だから、これ以上、何も言わんけどよ、エサ忘れるのはマジかんべんな」
「はい、すいませんでした」
「あとハムスターの発情期は、主に春と初夏と言われているよ」うんちくが止まらない。来年までにつがいを飼えと言っている。
「……はい」
「待ってるから」
そう言うとハムスターはのっそりとソファから降り、だんだん小さくなってまたソファの下へ潜り込んだ。
……俺はどうしたいのだろう。トゥーンから奪い取ってまで、ミンソといい仲になりたいのか。……ちがうんじゃないか。彼女は日本に住んでいないし、ワークショップが終われば帰って行く。あとくされのない関係を結びたいだけなんじゃないか。だからと言ってそのために積極的に動くようなこともたぶんしない。なるようにしかならない。いつも通りだ。通常運転。まあ、俺の運転は危なっかしいけれども……。あぁ、明日また、小倉まで運転して帰んなきゃな。ハムスターが待ってるし……。
ーー宇都宮はいつだって何かをいいわけにし、めんどうを避け、流れに身を任せるのだった。自分に都合のいい未来がやって来るのを待っていた。が、そんなものが訪れるはずもなく、たいして都合のよくない結果を「まあ、こんなものか」と受け入れ、不満はあるけれど傷つくことのない、起伏の少ない人生を歩んでいた。いつからか、そういう道を選ぶようになった。もうそのようにしか身体が動かない。ワークショップも楽しいが、まあまあだった。宇都宮はまあまあだった。
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