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🔶私の好きな奈良:夏の村屋神社に壬申の乱を想う

村屋神社ってどういう神社?

奈良県田原本町にあるこの村屋神社、もしかすると地元の方以外にはあまり知られていないかもしれません。
平安時代、律令の細則をまとめた法典である「延喜式」内に、官社として指定されている格式のある神社で、正式には、村屋坐弥冨都比売神社(むらやにいますみふつひめじんじゃ)です。主祭神は弥冨都比売(みふつひめ=三穂津姫命、みほつひめ)で、大神神社の祭神である大物主命の妃神にあたるため、大神神社の別宮とも言われ、両方お参りすることでご利益が増すとされます。

神話に登場する三穂津姫命(みほつひめ)について

神様の話って、なじみがないと難しいですよね。この時期のお話は古事記や日本書紀にある神話に基づいているのですが、長い名前の神様がたくさん出てきて、誰が何なのか、理解するのは至難の業です。
とりあえずこの三穂津姫命はどういう神かというと、高皇産霊命(たかみむすびのみこと)の娘さん。で、この高皇産霊命はというと、かなりの大物で、日本を創生したことで有名なイザナギ・イザナミが出てくるより前の代の神で、初代天皇である神武天皇の曽祖父である瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の祖父に相当するため、天皇家の皇祖神・至高神であるとの説があります。日本書紀によると、有名な天照大神(あまてらすおおみかみ)より上の立場で天孫降臨を司令したとあります。

そんな超大物の娘が、どうして大神神社の祭神である大物主命に嫁いだのでしょうか? 
天上の高天原にいる神様たちは、天照大神(あまてらすおおみかみ)の子孫を、地上の国(=日本)の主にしたいと思い、既に地上に降りて地上を治めていた神(かつて因幡の白うさぎを助けた神=大国主命≒大物主命?後述)に国を譲る様に迫りました。大国主命は自分が住むための出雲大社を造ってもらうことなどを条件に、地上の国を譲りました。

大国主命と大物主命が別人か同じ人かについての記載は古事記と日本書紀でも異なるのですが、高皇産霊命は、大国主≒大物主の功に報いるためと、後に裏切ったりしないようにという意味で、娘の三穂津姫命を嫁がせたとされます。
三穂津姫命は、農業及び子孫繁栄の守り神で、婚礼の際に高天原から3本の稲穂を持って降り、地上で耕作を導いたと言われています。

壬申の乱の戦績により、神社として初めて位を賜る

さて、この村屋神社ですが、壬申の乱の際に功績を挙げたという理由で、「正一位森屋大明神」の位を贈られています。壬申の乱は、日本古代史上最大の内乱と言われています。戦績により神社が位を受けたのは、この村屋神社が初めてとされますが、いったいどういうことなのでしょうか?

白鳳時代、天智天皇は大津京に都を移して政治を行っていましたが、白村江の戦での敗北などもあり、臣下の不満が大きくなっていたとも言われます。晩年には、実弟の皇太子大海人皇子(おおあまのみこ;後の天武天皇)でなく、実子の大友皇子(おおとものみこ)を後継者にしようとしていましたが、天智天皇の性格を知る大海人皇子は、自らの身の危険を感じ、吉野宮にいったん隠れ住みました。大海人皇子は自らの地位を奪還するため周到な計画を練り、妃の菟野讃良(うののさらら;後の持統天皇)、自らの皇子らを伴って、672年6月、ついに軍事行動に出ました。当時、天智天皇の体制に不満を抱いていた大和の豪族である大伴連馬来田(まぐた)・吹負(ふけひ)、三輪君高市麻呂らも、大海人皇子の挙兵に応じて近江朝に反旗をひるがえし、飛鳥古京を占領しました。

この戦の経過は、日本書紀に詳しく記載されています。大海人皇子軍は当初、近江路、伊賀方面で勝利をあげましたが、大和では大伴吹負らの軍が敗北し、近江軍は河内方面からも南大和に侵入してきました。大海人皇子方は部隊を編成し、奈良盆地を南北につらぬく三本の幹線道路(上ツ道・中ツ道・下ツ道)に部隊を配備しました。総指揮官吹負将軍はみずから中ツ道の守備にあたりましたが、この際、「村屋神」が当時の当主にのりうつって「わが杜の中を敵が来る。社の中つ道を防げ。」と吹負に軍備に対する助言をし、見事勝利に導いたと言われています。この功績によって神社としては初めて位階を皇室(天武天皇)から賜りました。

参道。県天然記念物のイチイガシ社叢に覆われる。

7月22日、大海人の軍は瀬田の戦いで勝利しました。大海人皇子はその年の冬、飛鳥浄御原(あすかきよみはら)に皇居をつくり、即位して強力な中央集権国家のしくみを完成させました。

その後も村屋神社は何度か位を賜り、現在も正一位森屋大明神の呼称が残っています。

村屋神社の夏越の大祓式(なごしのおおはらいしき)

今回私が村屋神社を訪れたのは6月中旬。タイトルの写真にある様に、本殿の前に茅の輪(ちのわ)が設置されていました。毎年、村屋神社ではこの時期に夏越し大祓式(なごしおおはらいしき)が行われます。

夏越の大祓式は、半年間の無事を感謝し、残りの半年間の息災を祈願するものです。701年(大宝元年)の大宝律令で規定された正式な宮中行事で、現在も全国の神社で行わています。村屋神社ホームページによると、茅の輪をくぐった後、「人形(ひとがた)」に息を3度吹きかけて、半年間の罪穢れをここに移し、使い終わった茅の輪、忌竹、人形、麻、爪を神社の東側を流れる初瀬川(大和川)に流し祓い清めます。古くから現代に引き継がれてきたこの神事には、暑く厳しい奈良盆地の夏を無事に過ごしたいという古人の素朴な願いが込められているとのことです。

ところで、なぜ茅(かや)が神事に用いられてるのでしょうか?
「茅」の文字は、「草の矛」と記され、古来中国では祭礼の供物としても使われていた様です。日本でも矛・剣・太刀などの刀剣が、魔を祓うアイテムとして神事に使用されてきました。剣状の葉をもつ茅も同じように神聖な力を持つと考えられていたと思われます。

うっそうとした社叢に囲まれた夏の村屋神社で、古の時代を想う

私は神社のウェブサイトにある地図に示された専用駐車場に到達すべく、マイカーで現地にアクセスしました。こんもりした森を目印に、カーナビを見ながら目的地を目指したのですが、社叢をとりまく道路は、森に接して車一台がやっと通れる幅しかなく、もしかすると壬申の乱の頃の神社の姿が、ほとんどそのまま残っているのではないかと感じました。

村屋神社の社叢は県の天然記念物に指定されており、高木層はイチイガシが優占しています。森林の高さは29mにも及ぶそうです。
社叢に覆われた参道は、まわりに比してかなり薄暗く、この中を近江軍が進もうとしたのか、大海人軍はこの道を塞ごうと待ち伏せしていたのか、と、当時に思いを馳せ、感慨を新たにしていました。

壬申の乱は、日本書紀によると6月24日 - 7月23日の約1ヶ月に及ぶ戦いでした。当時の暦とは1-2カ月のズレがありますが、夏越の祓を迎えるこの時期と近い、暑い時期の戦いであった様です。

私が訪れたのは6月中旬の雨上がりだったのですが、境内に池があり、周囲には水田があって、森の中のはとりわけ湿度が高かったこともあって蒸し暑く、耳元では蚊の羽音がかなり気になりました。
蚊取り線香の金鳥さんのホームページを見ると、日本人は弥生時代から蚊に悩まされていたとあり、実際、奈良時代の万葉集にも、防蚊対策を行っていたと思われる記述があるようです。

古代史最大と言われる内乱の中で、命の危険を賭して国家体制を確立しようとしていた人たちにとって、文字通り「蚊に刺される」程度のことなどは、全く意に介しておられなかったのかも知れません。
ふと空調の効いた安全な部屋でのんきに文章を書いている自分の境遇に気付き、妙なところで当時の人々の生き方を想うことになりました。

今年も暑くなりそうです。
村屋神社の夏越の大祓式は、6月30日16時から、どなたでも参加できるそうです。
この夏の無事を祈って、参加されてみては如何でしょうか。

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