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小説 母の手

 「お母さん、起きて!赤ちゃん泣いてるよ!起きて!」

 目を開けると、看護師さんが部屋の入口に立っている。

 そうだ、こどもが産まれたんだった…ほんとだ…泣いてる…こんなにすぐ隣にいるのにぐっすり寝てて気付かなかったなんて…眠い…。

 わたしはベッドからゆっくりと起きて立ち上がった。切開したお腹が痛む。こどもを慎重に抱っこしてベッドに座り、授乳した。まだ抱っこの仕方もよくわからないし、慣れていない。こんなんでいいのかな…眠い…ものすごく眠い…なんで帝王切開っていうんだろ…いったいどこが帝王なんだ…確か1週間くらいの入院なんだよね…眠い…やっと産まれた、こどもも生きてる、わたしも生きてる、ほっとしたのも束の間、とにかく、これから育児をしていくために、抱っこ、授乳、沐浴などの指導を受ける毎日だ。あれっ、わたしも帝王切開した患者じゃないの?そうですよだから入院してるでしょう?赤ちゃんはねお母さんじゃないとだめなところがいっぱいあるんですよ大丈夫です一週間ほどでみっちり仕込ませていただきますので、はい。

 っていう感じというかなんというか想像してたよりずっと厳しい入院生活!看護師さんや医師にすれば、赤ちゃんもお母さんも診なきゃいけないわけだよね…さっきも起こされたというより半分叱られてたのなんか納得…。

 正直、1日も早く退院して帰宅して自分のペースで育児したい…眠い…痛い…。………。

 なんだかひとりじゃ心細いような気分になってきたので、慣れない手つきでこどもを抱っこし、いつでも行っていいことになっている授乳室へ向かった。

 部屋に入ると、10人くらいのお母さん方が授乳していた。看護師さんに抱っこの仕方を教えてもらったり、お乳をためて何やら専用の冷蔵庫で保存してもらう人もいる。お乳を出すために、看護師さんにおっぱいをぎゅうぎゅう押されている人もいる。あんなもん痛いに決まってんだろ…。わたしは血の気が引くような思いがした。乳腺炎にならないためには仕方ないんだけどそれはわかるんだけど!帝王切開は術後が痛い、っていうのも知ってたけど、まじで痛い。とくに用足す時がすんげー痛い。あの痛みは何なの?!

 時計を見ると朝の3時5分頃だった。蛍光灯はこうこうと明るく、看護師さんは仕事の真っ最中だ。本当に今って、朝の3時なのか?…ここは…いったい…どこなんだろう…?……はっ。いやいや授乳室でしょ、病院の。わたしはこどもを一応しっかりと抱き直す。

 …すごく上手に抱っこしている人がいるなぁ…どうやったらあんなふうに抱っこできるんだろう…そう思いながら見ていたら話しかけた人がいて、2人目だそうだ。なるほど。…もっと簡単なものかと思ってたけど全然難しい!何もかも……。

 わたし、ほんとうにこれからこの子を育てていけるのか…全っ然自信ない…ふたりでひとつの存在だったのに、こうして離れて別々の人間になってしまったしね…いや、何を考えているのか。それでいいいんだよ。それがおめでたいことなんだよ。これからは、自分のことよりも、この子を大事にして生きていくんだ。…それにしても、このお腹の痛み。いつになったらなくなるんだろう…フツーにかなり痛いんだけど。赤ちゃん…こども…そりゃ大事だよ…でもさ…あたしだって帝王切開とはいえ、お腹切られてまだ痛いし、せっかく眠れたと思えばすぐ起きなきゃだし………お母さんになったら、そんなこと言ってられないのか…そうだよね…そうなんだ…みんなも、あたしだってこの子が産まれてきてくれてほんとに嬉しいし。そっちのが大事なんだ。

 次の日。また授乳室に行った。時計を見ると、夕方の4時半。蛍光灯がついている。……なんていうか時間が有って無いような…朝も昼も夜もない。

 夫が病院に来てくれた。夫もまだまだ子どもの抱っこの仕方がわからなくてぎこちない。だけどすごく喜んでいるのはわかる。この前も知り合いの人から電話が来て、「ぼくの子どもが産まれたんですよ~」って本当に嬉しそうに言っていた。夫は窓から外をみながらそう言っていた。わたしはその姿をみながら「本当に良かったな…」と思い、無事に一仕事終えたような、そんな気持ちになったのだった。やっぱりこれでいいいんだ。

 次の日、お母さんも来てくれた。こどもは体重を計ったりするために看護師さんが預かってくれていた。

 わたしとお母さんは病室でふたりきりになった。

 「まさかこんな日が来るなんてね…わたしがあんたを産んだときは予定日より2週間くらい早くてねぇ。お父さんはおばあちゃんと出かけてたんだよ、まだ大丈夫だと思ってね。わたしのお母ちゃんはもう亡くなってたし結局病院でひとりで産んだんだけど、もう痛くて痛くて泣きわめいて、お母ちゃんお母ちゃん!って叫んで腕時計外してぶん投げたらしいわ。そんな痛かったり叫んだりして、どうやって外したか全然おぼえてないんだけどね…そりゃ大変だったけど、やっぱり嬉しくてね…わたし母親になるの?!母親になるんだ…と思って。あんた覚えてるかな、っていうか忘れるはずないよね、小さい頃、入退院を繰り返してたんだよ、小学校にあがってもよく通院したでしょ。実は、この子妊娠出産は無理かなってあきらめてた時期もあったんだよ。なのにねぇ…信じられない」

 そう言いながらお母さんはわたしの両手をやさしく握った。

 「手、少し荒れてるね」

 お母さんはバッグからハンドクリームを出してわたしの両手にぬってくれた。

 「孫もかわいいし大事だけど、娘も大事だよ。孫がいてもいなくてもね。…あんたも母親になるんだね。自分のことも、ほんとに大事にしないとね。そうじゃないと子どもにも伝わっちゃうからね」

 わたしはこらえられなくて少しだけ泣いてしまった。夫の知り合いから「やっと妊娠したんだ~」と笑われてあきらかにバカにされたりしたことが頭をよぎっていた。わたしは聞いているような聞いていないような態度で手を洗ってハンカチで拭き、鏡を見て、その場を立ち去った。よくわからないような気もしたのだ。だってその人はおそらく、自分の娘もふだんから楽器の演奏などで活躍していて、それを披露するホールにその日も来ていたのだから。妊娠、出産、育児の大変さがよくわかっているだろうに…。そんなことよりも、わたしと夫のこれからの環境の変化に、どこか、何故か、堪えていたからこそ、そんなふうにわたしだけに言ったんじゃないだろうか。わたしたち夫婦には、そんなことは起きないと決めつけていたのかもしれない。この子も、生きていくなかで、誰かにあんなふうに言われたり、言ったりするんだろうか…。そしてこの子もいつか、母親になる日が来るのかもしれない。

 もう泣き止もう。看護師さんと子どもが戻ってきたら恥ずかしいし。わたしは手で涙をぬぐった。

 「お母さん、赤ちゃん順調に体重増えてますよ」

 看護師さんからわたしの腕の中にこどもがもどってきて、あらためて重さとあたたかさを感じた。

 わたしは今日のこの日を、忘れずにいられるだろうか。眠気と、お腹の痛みは、すっかり忘れていた。わたしはもう母親で、そしてひとりの人間だ。

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