見出し画像

早蕨(さわらび)②

大阪は一説に、少し早い菜種梅雨か、なんて言っていたら寒の戻り。まだしばらく春とはいかないようです。


わらび自体は緑ではないのです~

今日の菓銘は表題と同じく「早わらび」です。

万葉集?興味ない~、と思っていても

石走る 垂水の上の さわらびの 萌え出づる春に なりにけるかも

の歌は聞いたことがある、という方もいらっしゃるかもしれません。

巻八 1418のこの歌は「志貴皇子の懽(よろこび)の御歌一首」として春雑歌の最初に載っています。春雑歌で他に詠まれているのは梅や桜や柳など。蕨を詠っているのはこれ一首のみ。後世、早蕨を題材にして詠まれる歌もこの歌を意識しているものばかりといっても過言ではありません。蕨を春の風物詩として、早々に日本人の心に焼き付けた歌なのです。

岩にぶつかって水しぶきをあげる滝のほとりのさわらび。水温む(ぬるむ)春といえど、流れのはやい滝の水などまだまだ冷たいと思われます。その傍に頭をもたげてきた蕨は、決して緑鮮やかなものでもありませんが、それでも命の芽吹きとして目を留め、歌に詠みこんだ志貴皇子の感性も素晴らしいですが、この歌の良さのもう一つは節回しです。

万葉集の歌は長歌・短歌問わず、声に出して詠むとより良さがわかるとも言われますが、その中でもこの歌の持つ調べは出色です。

わたしは、この歌を小学校の教科書で知りました。文字で読み、授業で音読されたものを聞き、何の知識も無いのに、強く印象づいた歌でした。長じて万葉集という歌集に興味を持ち始めた後、今も一番好きな歌です。

詠者の志貴皇子は、天智天皇の息子ですが、母の身分が低く皇位には遠い人でした(よく不遇の皇子だったと言われるのですが、当時母の身分が低くても政権内で高い地位を得ることができたのは、大友皇子(父天智から高い地位を与えられたが壬申の乱で滅ぼされる)と高市皇子(壬申の乱で勝利した天武天皇側で先頭に立って戦った)くらいで、他は存在は記録されていても、政治的に活躍した記録はほとんど無く、不遇というより当時の感覚ではこれがごく通常の取り扱われ方)。が、後年異例の事態で、彼の息子が即位することにより(光仁天皇)、彼も「春日宮御宇天皇(かすがのみやに あめのしたしらしめしし すめらみこと・・・難読過ぎる・・・)」と追尊を受けます。彼は生きている間は、そんな未来など考えつきもしなかったでしょうね。ちなみに光仁天皇の息子が平安京遷都で有名な桓武天皇で、現代の天皇陛下にまでつながっています。そう志貴皇子は現在の皇室の遠い遠いご先祖様なわけですね。

まだしばらく気温が低く、雨模様の日も多いようです。三連休お仕事の方、行楽の方、どうぞ暖かくしてお出かけを。

参考文献:「萬葉集 釋注四」伊藤博(集英社文庫ヘリテージシリーズ)




この記事が参加している募集

古典がすき

日本史がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?