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ジジェクのパンデミック論

今般のコロナ禍下の市場のパニックは、「市場メカニズムに振り回されない世界経済を再組織化する差し迫った必要性を鮮明にしている」と指摘するのは、スロベニアの哲学者のスラヴォイ・ジジェクである。

ジジェクは、パンデミックを乗り越えるためには「完全な無条件の連帯と世界的に協調した対応が必要」であって、「それはかつて共産主義と呼ばれたものの新しい形でもある」と主張する。

共産主義の新しい形とはどのようなものなのか?

むろん、ここで言うのは、古いスタイルの共産主義ではなく、必要に応じて経済を管理・統制でき、国民国家の主権さえも制限できる一種の世界的な組織のことだ。そのような組織を作ることができるのは戦時中だけであり、我々は今まさに、実質的に医療戦争の状況に近づきつつある。
スラヴォイ・ジジェク『パンデミック 世界を揺るがした新型コロナウイルス』(Pヴァイン、2020年)

ジジェクによれば、昔から「危機においては、我々はみな社会主義者」となり、ただ生き残るためだけの必要性に強いられた「戦時共産主義」的な対応策を採用するという。

確かにコロナ禍では、平時は市場主義を信奉し資本主義の権化のように振る舞う企業や彼らを代表する政治家でさえも、危機に陥れば税金の投入を求め、ベーシック・インカムの導入さえも口にし始めたりする不思議さを目の当たりにした。

だからこそ次のことを懸念する。

2008年に一般人が僅かな蓄えさえも失った時、政府が銀行だけは救済したように、この強制された社会主義は富裕層のための社会主義になりはしないか。
スラヴォイ・ジジェク『パンデミック 世界を揺るがした新型コロナウイルス』(Pヴァイン、2020年)
この感染拡大の最もあり得る結果は、新しい野蛮な資本主義の蔓延である。体の弱った高齢者が、多数犠牲になって亡くなる。労働者は、生活水準の大幅な低下に甘んじるしかなくなる。生活に対するデジタル管理は、永続的なものになる。階級格差は、生か死かの問題に直結するようになる。今、権力者がやむを得ず導入している共産主義的な措置は、果たしてどれほど生き残るだろうか。
スラヴォイ・ジジェク『パンデミック 世界を揺るがした新型コロナウイルス』(Pヴァイン、2020年)

パンデミックの先に実現しなければならないのは野蛮な惨事便乗型資本主義ではない。

「我々に必要なのは、経済回復か人命かと言う消沈するような」二択を回避するための新しい経済秩序であり、その秩序をつくるためには「野蛮か、それともある種の再考案された共産主義か」の二択に向き合わなければならないというのが、ジジェクの主張だ。

しかしながら、共産主義という手垢の付いた言葉にアレルギーがある人もいるだろう。共産主義は自由の制限を伴うシステムである、と。

だが、次のように考えることも可能だ。

「自由主義者」を”自由を尊重する人たち”と定義し、「共産主義者」を”資本主義は危機に近づいており、根本的な変化でしか自由を守ることはできないと気づいている人たち”と定義するなら、今でも自分が共産主義者だと自認している人たちは、卒業証書を手にした自由主義者である。つまり、共産主義者とは、自由主義的価値が危機にさらされている理由を真剣に考え、根本的な変化だけがその価値を救えると気がついた、自由主義者なのである。
スラヴォイ・ジジェク『パンデミック 世界を揺るがした新型コロナウイルス』(Pヴァイン、2020年)

それでも共産主義という言葉への抵抗があり、しかし資本主義の限界が近いと考える人は、どのような言葉を使うのだろうか?

例えば共同主義という言葉だろうか?あるいは「新しい資本主義」に対抗して「新しい共産主義」なら人口に膾炙するだろうか?

重要なことは言葉そのものではない。言葉の中身である。

しかし同時に矛盾したことを言うようだが、目指しつつある中身がおよそ明確になりつつあるのであれば、問題は人びとを団結させるための言葉なのだとも言えよう。

ジジェクは、新型コロナによる「この危機とどう闘うかを提案するときには、誰もが哲学者にならなければならない」と述べている。

野蛮を回避するための産みの苦しみに直面している者にのみ、哲学者になれる条件は与えられている。

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