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NHKの名アナウンサーを追いかけてみるvol.4。声の軽機関銃「志村正順のラジオデイズ 〈スポーツの語り部〉が伝えた昭和」尾嶋義之(洋泉社)

即興で鋭く的確に描写した言葉をリズムカルに放つ。

 野球中継の実況で、二塁にランナーを置いてヒットが出ると、それまではどのアナウンサーも「ランナーは三塁を回ってホームへ殺到」といってすませていました。しかし、この言い方はどこか物足りないと思い、よく見るとランナーは三塁を決して回っておらず、外へふくらまないように鋭角に曲がっていることに気づきました。そこで考えたのが「ランナー三塁ベースを”蹴って”ホームへ」。今では誰もが使っているこの描写を生み出したのが、志村正順です。細部を突き詰め実況アナウンスをイノベートしていった偉人です。

ー名アナウンサーと呼ばれた人はむろん志村正順のほかにもいる。だが、スポーツの実況中継で競技の雰囲気を盛り上げ、面白く聞かせる点で、彼は一頭地を抜いていた。

ー志村正順のような血沸き肉躍る放送は、スポーツ中継では空戦絶後でしょう。まず、しゃべる速さがずば抜けている。志村アナウンサーは”NHKのアレグロ・コン・フォコ”(情熱的に速くという意味の音楽用語)と呼ばれていました。頭の回転が速い。躍動型頭脳です。頭の引き出しに言葉がいっぱい詰まっていて、それが瞬時に出る。しかも講談張りに活写するから、聴いている方は引き込まれてしまう。和田信賢アナウンサーの放送も、綿密に練り上げられた美辞麗句で聴取者をうならせましたが、志村正順のはラフな日常語も使いながら華麗でした」

ー志村は「声の軽機関銃」とも呼ばれた。

ー「お前の放送は北海道に行くとやっとわかる」-東京では速すぎて分からないが、電波が北海道に達するころにはスピードも落ちるからという、一種の皮肉である。

 1913(大正2)年、志村正順は荒川区南千住で手広く雑穀商を営む家に生まれました。正式には<まさより>と呼びますが、<せいじゅん>の通り名のほうが知られています。下町の富裕階級の子弟に生まれ、後継ぎでない三男の気楽さからか、はやくから流行文化にのめりこみ、野球にも没頭します。十七の時に一度僧侶を志して僧籍に入り(この時に得度して本名の正二から正順に改名)大正大学に入学しますが、寺を逃げて明治大学に入学。ダンスに夢中な軟派学生として過ごします。

ー先輩で東大出身の島浦精二アナウンサーが、「志村はまともなことは知らなくて、つまらないことはよく知っている」と評したことがある。

 この時代に雑学的な知識を培い、もとから口だけは達者でした。「大学は出たけれど」の就職難の時代に、学校の成績が悪いにもかかわらず1936(昭和11)年のNHKのアナウンサー試験に合格します。身体検査の検尿では、人からおしっこを分けてもらうカンニングをしたそうです。一期が和田信賢らの昭和9年入局組、10年は試験がなかったので、志村らが二期です。同期には流麗な劇場中継で知られた高橋博の名があります。

 かなりおおざっぱな解釈ですが、ラジオ放送勃興期にエンタテインメント性を打ち出した実況アナウンサーの系譜は、松内則三ー和田信賢ー志村正順となっていきます。スポーツに詳しくなかった松内は講談調の語り口で聞かせ、和田信賢はテンポの速さと美文調で膨らませました。これらの先輩の影響下にあった志村は、スポーツ実況をよりスポーティなものに掘り下げていきました。

 当時、東京六大学野球より人気がない職業野球は、新人アナウンサーが放送実況を担当しました。入局した年の秋、志村は東京巨人軍の試合実況を担当します。舞台は野球史好きにはおなじみの洲崎球場、マウンドには不世出の名投手といわれた沢村栄治。志村は沢村のダイナミックなフォームをこう描写しました。

ー「沢村、左足を思い切り上げて、第一球のモーション。靴底のスパイクがはっきり見えるほど、高々と上げました」-しゃべった途端、すぐ近くで「そのとおり!」と威勢のよう掛け声が聞こえた。背後に立って聞いていた観衆の一人、木場職人風の若者だった。

 特徴を素早くとらえ即時に映像的に表現する高い能力を、新人のころからそなえていたようです。それは比喩や形容の華麗さというより、リアリティーを生み出す感性に思えます。

天才・和田信賢の指摘で大相撲実況の極意を会得

 志村は新人時代からスポーツ実況において特段の能力をみせましたが、その目標はつねに和田信賢でした。その和田からの一つの助言が、志村の実況をよりドラマチックなものにします。

ー《一月中のある場所のある打ち出し後、東両国の小さな飲み屋で例によって一ぱい始めた時、和田さんが、改まった口調で、「君の相撲実況も大分、イタについてきたネ」と言い出した。めったにそんなことをいわない人なのでビックリしていると、「だが、ただ一つ、物足りない点は、立ち合いが悪い」という。そして、私の相撲放送の欠点と思われる所を丁寧に説明してくれた。私の放送は、両力士が手を下ろして呼吸が合い、立ち上がった時に、すでに一いきアナウンスが遅れているというのだ。このため、あとの手さばきの変化が一こまずつ遅くなってゆく感じとなって、なんとなく迫力を欠いてしまうのだそうだ》

 つまり力士を動きを見てから「立ち上がりました」といった時には、すでに力士は次の動きに移っており、描写が一こまずつ遅れ、勝負がついて「○○が勝ちました」としゃべった時、それは場内の歓声にかき消されて効果が薄いとということです。

ー和田の指摘に、志村は目の前が開けるように感じた。以後、志村の相撲放送は変わる。

 つまり力士が立ち上がるか上がらないかの瞬間に、「立ち上がりました」といえば力士の動き、会場の雰囲気の変化についていけるのです。

ー相撲は立ち上がりの直後に勝負がついてしまうことがままある。こんなことがあった。                            「立ち上がりました。ケタグリ!」と、志村が思わず叫んだ。「ケタグリ、吉葉山の勝ち」と言いそうになったが、いわない方が良いという考えがパッと浮かんで、じっと沈黙。吉葉山はケタグリを得意技としている。相撲ファンもそれをよく知っているから、どちらが勝ったかというのはヤボというものだ。次いで「この歓声をお聞きください。相撲ファンにはもうお判りでしょう」という。間を置かずに「吉葉ァ山ァ!」の行事の声が流れる。この子呼吸の良さは解説者として隣にいた和田信賢が「ただ今の志村アナの放送、まことに見事でありました」と、放送についての解説までやってしまった。

 単に実況コメントの上手い下手でなく、廻りの変化を利用して、中継全体を劇的に演出しています。

 志村の放送は形容詞や修飾語をふんだんに使うため、「感嘆詞放送」と名付けられていました。しかも競技の特色を殺すことなく、野球は野球らしく、相撲は伝統的な古めかしさを出すために歌舞伎を見ているような気分で。

ー「打ちました、三遊間の深いゴロ。ショート木塚、横っ飛び、捕った。一塁へ矢のような送球。サーカスプレー!」

ー「球は三遊間を文句なく抜きました。各塁の走者が一斉に、まるで走馬灯のようにスタートしました」

ー「突貫とったり、とっさの内掛け栃錦」

ー「吐く息、吸う息、止める息、・・・いわゆるあうんの呼吸が合いません」

ー「右四つ真一文字、一気呵成に寄り切りました東土俵」

ー和田信賢の格調の高さとはいささか異なり、志村はくだけていながら名調子。和田を侍とすれば志村は町人だ。町人的な軽快さと自由自在性がある。

 周到に準備をした和田に対し、志村はあえて準備をしないで臨むタイプだったそうです。日頃から積み上げた材料をもとに、場に合わせてプレイするインプロビゼーション。

 また志村正順は、野球では小西得郎と相撲では神田川と組んで、解説者とアナウンサーが掛け合う実況スタイルを生み出した人でもあります。

戦争とアナウンサーと出陣学徒壮行会

 戦時中のアナウンサーのなかには、軍から兵役を免除され、東部軍の報道班に組み入れられた人たちがいました。志村正順もその一人です。その軍属のアナウンサーたちは特殊な要求をされたようです。

ーアナウンサーに対しても敢闘精神なるものが要求され、日本軍の成果を報じる際など、大声で、満身の力を込めて、絶叫するようにしゃべらなければならなかった。単に戦果を知らせるのではなく、国民に対する宣伝と洗脳が目的だったのである。

ーそもそもアナウンサーは、できるだけ感情や主観を交えず、淡々と、上品にしゃべるように教育されてきた。ところが今度が逆に感情を込めなければいけないというのである。このような激しい口調は、放送局内部で誰いうともなく「雄叫び調」と名づけられた。

ーある時、内閣情報局の情報官がやって来て、第八スタジオにニュースを読むアナウンサー約十人を集め、「鬼畜米兵」と、マイクの前でひとりひとりに言わせたことがある。敵愾心がどの程度あるか試したのである。憎々しげに、力を込めていわないと何度でも繰り返させた。

 屈辱的だったでしょうね。このような状況下で、志村はニュースを読むことを停止させられたことがあります。先輩の山本照から見た志村評は、賑やかなことが好きでいつも陽気、舌が良く回ってポンポンしゃべるから、ついたあだ名が”お祭りポンちゃん”のポンちゃん。ルーズな面があって、遊びは一人前だが、アナウンサーとして生まれてきたような男。そんな男が大事なニュースを読んだところ・・・

ー日本軍による大場鎮陥落の臨時ニュースを読んだ時、「しゃべり方に熱意がない」と逓信省の放送監督官に注意され、しばらくニュース方法に出場停止を命じられたのである。

 遊び人で美意識の高い志村は、要求された興奮口調が性に合わなかったようです。

 1943(昭和18)年10月21日に明治神宮外苑陸上競技場で行われた出陣学徒壮行会は、先輩の和田信賢の担当で志村は補佐につきました。しかし和田は前夜に新橋で飲みすぎ、ひどい二日酔い。総理大臣から軍の幹部まで席についた3分前に、ようやく姿を現した和田は、足取りがおぼつかなく、顔面は蒼白で、氷嚢を入れた鉢巻を巻いています。

ー和田はしばらくじっと黙っている。それから、            「志村、おまえやれ」と、こともなげに言った。放送開始の1分前だった。「えっ」。志村は聞き返した。

ー出陣学徒壮行会という厳粛な式典の放送である。しかもニュースと違って原稿はなく、あるのは式次第の紙切れ一枚だ。

ー「征く。東京帝国大学以下七十七校××名、これを送る学徒九十六校、実に五万名、今、大東亜決戦に当たり、深く入隊すべき学徒の尽忠の至誠を傾け、その決意を高揚するとともに、武運長久を祈願する出陣学徒走行の会は・・・

ー「・・・隠して学徒部隊は征く。さらば征け、征きて敵米英を撃て。征き征きて勝利の日まで大勝を目指し戦い抜けと念じ、はなむけといたしましてここに外苑競技場の出陣学徒壮行会の中継放送を終わりたいと存じます」

ー志村正順はこうして二時間半にわたるアナウンスを結んだが、これが歴史的大放送になろうとは思わなかった。

 原稿なしで式典の推移を追って、抑揚は控えめだが、格調ある言葉が途切れることなく流れでました。この放送は高い評価を得て、記録に残る名放送のひとつとされています。これに対して志村は気になる二つのことを言っています。

ー情報通の和田さんは戦局の行く末を見通していた。学業途中の学生まで借り出すほど、日本は非常時も非常時、大非常時である。学徒の前途を思って心が痛んだでしょう。

ーとにかく急にやれと言われたでしょう。だから考えている余裕はない。頭の中で考えるよりも先に、口のほうが勝手に動いていた。(中略) 学生が行進するんだから、勇ましくやればいいんだろうぐらいの軽い気持ちでした。そう、野球中継と同じ感覚です。

 和田は準備を尽くすタイプですから、志村自身も和田がやった方がより歴史的な名放送になったはずだったと言い切っています。しかし準備し考える時間があったからこそ、死にに征く若者達を美辞麗句で飾り立て、鼓舞して送り出すという行為に心が痛んだことでしょう。そしてこんなことは何も考えずにしか出来ないと考えた和田が、志村に突然マイクを渡したとも想像できます。和田は締めの言葉まで考えており、それは「壮士ひとたび去ってまた還らず」。こんな言葉で締めたら陸軍は激怒し、和田もNHKもただでは済まなかったでしょう。でも和田の性格を考えると、マイクを握ったら言ってしまったでしょう。自分で自分を止めたのかもしれません。

 メディアが体制に組み込まれると、現場が苦しむのですよね。

ラジオの黄金の日々からテレビの時代へ

 戦前戦中から昭和20年代までラジオの黄金期に、スポーツ実況で「志村時代」を築き上げた志村正順は、テレビの時代をむかえてアナウンサーとしての終わりを感じはじめます。

ー二十年間、喋りなれた口はともすれば動きに従って動いてしまう。ところがこれを見ている方に言えば、余計な描写わかり切った説明はまことにわずらわしい。そこで文句も出るし悪口も言われる。『いわぬは言うにいやまさる』というセリフの意味を、この時間ぐらい痛切に感じ取ったことはない。

 ラジオ時代に作り上げた志村の描写力やアップテンポで繰り出される言葉の気持ちよさが、テレビの時代になると邪魔になってしまったのですね。少なくとも志村自身はそう考えました。テレビの実況アナウンサーは、映像を観せたいときは黙り、過分な修飾や形容を極力はぶく、”沈黙の苦痛”に耐えなければなりません。そしてテレビの普及とともに、志村正順はマイクの前から徐々に姿を消していきます。晩年は心を痛め鬱になり、人前に姿を現すことも少なくなったそうです。

 それから半世紀近くたったテレビでは、見ればわかることを説明するナレーションがぎゅうぎゅうに詰め込まれ、スポーツ実況は美しくリズミカルな描写ではなく情報が次々とアナウンスされます。単なる情報の伝達が大量に行われています。味わいや色気のある言葉の実況が少なくなりました。

 でも一緒に仕事をしてきた経験でいわせていただければ、実況アナウンサーほど、スポーツの詩情を(巧拙はあるけど)語り上げたい人たちはいません。自分が現場で見て感じる臨場感を伝えたいと頑張っています。だからこそスポークンワード、フロウ、ライム・・・なんでもいいや、若いアナウンサーが新しいスタイルでスポーツ実況するような機会を、与えてあげたいですねぇ。だって志村正順だって、今でいえばフリースタイルだもの。


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