1話 両親の生きた歳を超えた頃。
もうすぐ、48歳なろうとしている私。
両親が生きた44年という年齢を越えた頃、
私が経験した幼い頃の出来事を文字に残しておきたいと思いました。
ここでは私が歩いてきた道のりを自分の想いものせてお話していきたいと思います。
「はじめに。」
現在は熊本の片田舎で
地元の食材を主に使った彩り豊かなワンプレートランチや
県産のフルーツを盛ったスイーツなどを提供する
古民家カフェを一人で切り盛りしています。
2001年にオープンして昨年20周年を迎えることが出来ました。
「振り返れば」
2001年、27歳だった私は熊本市南区で倉庫物件を改装したお店をオープン。
2階建ての店舗は40席を設け、スタッフも雇い約11年営業していました。
その11年は本当に忙しくさせていただき、たくさんの出会いも実りもあり
そこからの10年先を見据えてもう少しゆっくりとした環境で仕事を続けたいという思いから、現店舗(古民家)への移転を決め、2012年の5月から再開して現在に至ります。
ありがたいことに以前からのお客様や新たな地でのお客様にも恵まれ、自分のペースを保ちつつお仕事をさせてもらっています。
27歳でお店をオープンするまでに至る私は数年前まではそんな勇気がどこにあったのかというくらいたくさんの葛藤の中で生きてきました。
幼い頃の経験が私の礎となり、自分を作り上げて来たことをここに書き記しておきたいと思います。
最も大きな転機は私が9歳の頃、11月のとても寒かった日に遡ります。。。(続く)
〜〜〜〜綴るアルバム(余談ですが)〜〜〜〜〜〜〜
まずはなぜ、現在熊本なのか、のお話。
熊本は父の郷であり祖母が生まれ育った町。
祖母は熊本・天草のもっと田舎の方、枦宇土(はじゅうと)という場所で生まれ育ち、戦時中に軍人だった祖父と知り合い、結婚しました。
父達は満州で生まれ、戦争が終わって祖父が捕虜としてソビエト(現在のロシア)に連れて行かれてしまった時、祖母は二人の息子を連れ人々で埋め尽くされ立っていることしかできない船で命からがら満州から天草へと逃げ帰ったと話していました。
父達がまだ2〜3歳の頃です。
帰ってこれるかもわからない祖父とこうなった時のために、祖母の郷である天草へ帰るという約束をしていたそうです。
祖父は山形生まれで9人も兄弟がいたそうですが、19歳頃には兵隊となり生まれ育った山形を去りました。
祖父は捕虜としてロシアで過ごしたのち、青いバナナと一緒に船で日本へ帰国したそうです。
日本に着いた時にはバナナは黄色になっていたと笑っていました。
そして迷わず天草へ向かい、祖母の郷で家族は再会したと。
その話を祖父の晩酌のつまみに毎日聞かされ、幼い私はいろんな質問をして祖父母の馴れ初めを尋ねては当時の想像を膨らませていました。
それからは祖父はずっと天草で働き、家族を養いすっかり天草人でした。
そういう経緯で我が家の根源は熊本・天草というわけです。
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