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"愛している"の先に見る自我ー草の花︎(福永武彦)

もしその人の魂と呼ばれるものが目に見えたなら、私はきっと急に怖くなる。

他人の孤独など、目には見えない。

でも自分に向けられる眼差しから、伝わるものがある。

愛とは、眼差しだ。

『あなたは、私の先に、何を見ているの?』

忍と千枝子の声は、彼に届いただろうか。


孤独を抱えて生きていくということは、自我が超越された状態のことを言うのだろうか。
汐見は自分という人間の潔癖さや孤独、精神性、目に見えないものを大切にした。
もちろんそのように捉えることもできる。

一方で、目に見えるものを蔑ろにしすぎたとも言えるかもしれない。

"目の前の、血であり肉であるわたし自身を見てほしい"という愛する人の声は、彼には届かなかった。

喜びも哀しみも消滅して、残ったのは自らの自我だけだった。
一番必要のない自我だけが残ってしまった、そう汐見は嘆いて生涯を閉じた。

汐見の、忍を通して感じた魂の震え
千枝子との接吻
魂の震えと肉体の喜びを知った。
しかし愛を通わせ合うことはできなかった。
臆病だったのは汐見なのか、忍か、千枝子か?

胸が引きつられて張り裂けそうな感情、どこにも出口のない苦しみ。

美しく滑らかな文体で、まるで詩のようにそれらを描いた福永武彦の文才を堪能できる一冊であると思う。

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