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生きることへの苦しみ、自我の置き場所ーアンダーグラウンド(村上春樹)

私は想像する。
今日は朝ごはんを7時半に食べた。
10分から15分遅れることもあるけれど、大体毎日それくらいだ。
息子を起こしてトイレに連れて行き、洗濯物は2日に一度。息子が駄々をこねて食べてくれない日もあるが、なんとか上手くやれている。
我が家の、朝の風景だ。
その後、息子と一緒に電車に乗る。
すると、突然変な匂いがする。
周囲の人は、咳き込み出す。
息子が泣き出す。鼻水が止まらず、目から涙が止まらない。おかしい。
いや、涙が止まらないのは私だ。視界が曇って、よく前が見えない。少しずつ息子の顔が暗くなり、歪んでいく。
ぐにゃぐにゃと波打つ地面。
毒ガスだ!と叫ぶ人。息子を守らなければいけない。でも手が震えて何もできない。徐々に息子の顔色が悪くなる。隣に座っていたおじいさんが、泡を吹いて倒れたーーーー


本書は、地下鉄サリン事件の被害に遭われた方々に、直接インタビューをした内容がまとめられたものだ。事件後1年経ったタイミングでのインタビューである。

どんな仕事をしていて、どんな家庭環境で、当日はどんな朝を迎えていたのか。そんなリアルな姿から、当日の様子、そして今何を思うのかということが語られている。
それぞれの方にそれぞれの人生がある。
そしてそれぞれのオウムに対する想いがあった。
残念ながらここで、詳しく言及することは避けたい。
私が了承も得ず人々の姿を書き記すことで、少なからず傷つく人が居る可能性がゼロではないからだ。

ただ一つ言えることは、本書に描かれていたのは、"被害者"ではなく、私たちと変わらず"いつもの朝を迎えてあの日まで生きていた人々"の姿なのだ。
同じ気持ちになることなんてできなかった。
目の前で人が死んでゆく。自分の身体の機能がどんどん蝕まれていく。
このような想像を絶する体験をし、今もPTSDに苦しめられている人たちの苦しみを、わたしが理解できるはずないのだから。

でも大切なのは、『この人たちはわたしであり、わたしはこの人たちなのだ』と想像することだ。
こんなこと二度とあってはならないのだと、何がこの日本をそうさせるのかを考えるきっかけに繋げることだ。そう思い、読むことが憚られる日もあったが読み進めた。

私には1歳の息子がいる。
彼は電車が大好きだし、よく一緒に乗って、電車に揺られることを楽しむ。だからこそ、事件に巻き込まれることを冒頭のように想像することは容易い。
想像してすぐ、私は動悸が止まらなかった。多分きっと、どうすることも出来ずに死んでいくイメージしか持てなかったからだ。
息子と一緒に、ただただ息ができず死んでいく自分…

そんな風にずしりと重い、どこにも救いがないリアルな実情を本書は伝えてくれた。
ゴシップまがいの週刊誌やワイドショーでは決して伝わることのない事実だ。

オウムという存在がなぜうまれたのか?
なぜ多くの人たちは、他人事と思い見て見ぬふりをしたのか?

村上春樹はインタビューを通じて、
【ああでありながら、同時にこうでもありうるという総合的、重層的なーーそして裏切りを含んだーー物語を受け入れることに、もはや疲れ果てている】
【自分自身の置き場所を亡くし、自我を投げ出す】
そして自我を含む全てを麻原という人物に預けた信者たちの姿を見た。

【自分自身の価値を掲げて、自由な生き方をしたいと思っても、世間がなかなかそれを許してくれない】
それがフラストレーションとなり、逆にそれをパワーに変え、ジャンクのような物語を作り、『このように生きれば救われる』と信者に啓示を与えた麻原。その代わりに財産や家族、全てを差し出した信者たち。
マインドコントロールは、する側とされる側のどちらも何かしらをお互いに与え合っている。言わば共依存関係である。

そういった関係性に、自分が全く巻き込まれていないと果たして言えるだろうかとも考える。
オウムが悪、こちら側が善。という簡単にいく話でもないかもしれない。
実際に被害者の方々は、憎しみなど通り越してしまった。と仰る方も多かった。
どうしてこんなことになってしまったんだろう、と。
そして、警察やマスコミ、医療の体制に疑問を持つ人々も多かった。
この社会システムそのものが、もしかすると今もどこかで悪い物語を作っているのではないか。そんな風に、悪しきものの姿を身近に感じておられる方もいた。

生きることは、単純な話ではない。
その裏には多くの涙があるのだ。
そんな時、自我を他人に預け寄りかかることができれば、楽だろうか、もしくは恐ろしいだろうか?
預けた先にあるのは、あらゆるものを自分で決めなくても良い世界なのだ。決めなくても、やるべきことは降りて来る。そう、まるで神様が導いてくれているかのようにだ。

今私たちはそのような世界に生きていないと言い切れるだろうか?
もしかすると、本書を通じてオウムの悪しき物語に触れると、この世界の見え方が少し変わるかもしれない。
自分の自我との関わり方に疑問を持つようになるかもしれない。

それは危険なことではなく、むしろ自分の足で地面を踏みしめ正しさを探す一歩になるだろうと私はおもう。このコロナ禍でも、どこかで感情の飽和が起き、今日もどこかで人が人を傷つけている。こんな状況だからこそ、ぜひ読んでほしいと思う一冊だ。

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