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絵画のような美しい人生ーSTONER(ジョン・ウィリアムズ)

例えば私の人生が波のようなものだとしたら、寄せては返すその波に抗って生きていきたいと思う。

ウィリアム・ストーナー。
彼は、波と歩調を合わせるように、波と共に生きてきた男と言えるだろう。
決して折れることはないが、それゆえに自分自身の置き場所を宿命的に変えられない、そんな印象を受けた。

多くの人がそうであるように、彼は自らの人生に期待をした。ただ、期待をし、望んだ分だけの責任については、負わなかった。

心の中に差し込む光と共にやってくる小さな影。彼は怒るべき時に怒らず、悲しむべき時に悲しまなかった。心はとっくに気付いていた。

父や母と別れたあの日。
妻と出会ったあの日。
娘が書斎を訪れることができなくなったあの日
戦争が始まり、友が死んだあの日。

著者によるウィリアムの心理描写は繊細で美しく、まるで美しい一枚の絵を観ているようだった。
一人の男が生まれてから死ぬまでを走馬灯のように熱く、それでいて淡々と読者に伝えてくる作品だった。

自らの心の声に蓋をし、永遠に葬ることは多くの犠牲を払った。
個人的な意見として、娘のグレースを気の毒に思う。彼女は結局、周りの大人に責任を取ってもらえずに育ってしまった。

『これは仕方のないことなんだよ。どうしようもないのだよ。』という言葉を顔に貼り付けて、大人達は生きていた。

波に抗うことは、それがもたらす結果にももちろん責任を負う必要がある。
どれだけ傷つき息ができなくても、だ。
抗うことは生きることであると私は思う。

一人の男の平凡な人生が描かれていると多くの書評にあった。
それは間違い無いだろう。
多くの人々(私を含め)は忙しさや何かしらの理屈をつけて当事者になることを回避し巧みに人に責任を押し付けているからだ。
あのときあぁしていれば、など。それも一つだ。


おそらく人生には、タイミングというものがあるのだろう。切り返しが可能なタイミングだ。
それを逃すと、あとは自分の気持ちの置き場所を調整していくしかない。それがいつだったのか、何を期待していたのかもウィリアムは分からなかった。

自分の人生のタイミングとはいつなのだろうか?
もう戻らないものを嘆くのではなく、どうしても心が従わないことに耳を傾けて過ごすことで、自分の人生の舵を取り返すことができるかもしれない。

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