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東京グランドキャバレー物語 ★20 ピンク電話から


   ある日、携帯が鳴った。
今では珍しい公衆電話からだった。
   恥かしがり屋のお客さんや、自分の電話番号を秘密にしたい人からの電話は、非通知でかかって来る。
    しかし、公衆電話からと言うのは、ごくまれで私の電話番号のメモを見ながら、又は、電話番号を記憶して、かけて来た事になる。

    私は躊躇せず、電話に出た。
「もしもし」
「あっ福ちゃん?木下です」
「わぁ!木下さん。びっくりしました!公衆電話からかけて下さるなんて!」
    私は、興奮気味に言った。
「実は、ピンク電話なんだ」
   木下さんは、ゆっくりと私に伝えた。
   私は少し戸惑った。
「ピンク電話?」

   駅の近くを歩いていた私は、急いで人込みを避け建物の中にある物陰に移動した。
   ピンク電話とは、10円を入れたら何秒かでガチャと落ちて行く、あの電話だ。小銭をたくさん握りしめて、切れる前に入れていく公衆電話だった。

「今度、又、お店に行くって言ってたけど。しばらく行かれそうにないんだ」
「えぇ?そんな事で電話してくださるなんて、わざわざ有り難うございます」
「福ちゃんの声が聞きたくなってね」

 木下さんは、70歳を過ぎたとは思えないほど、素敵なロマンスグレーのお客さんだった。日本酒が好きで、お店では、いつも日本酒を注文していた。
 こんな男性だったら、年齢関係なく恋人にしても良いかなと福は勝手に思っていた。
 心の中で想像したところで、誰にも気づかれない。もちろん目の前の木下さんだって福が何を考えているかなど、わからない。それを良い事に、遠慮なく福は木下さんの前でニヤニヤしていた。
 ずっと年上の恋人って、どんな感じなのだろう。
福にとって、未知の世界の人だった。木下さんは穏やかで、お酒を飲みながら、私と何でもない話しをするのが好きだと言ってくれた。
 木下さんが飼っている猫の話し、ヤンチャだった頃の昔話し、お酒の失敗談などなど。木下さんとの話しは面白くて楽しかった。どこにでもあるたわいのない話し。
 木下さんは、ある日こんな話しをした。

 「実はね、福ちゃん。僕はね、二度肝臓の手術をしてるんだよ。若い頃から日本酒が好きでね。それが、体壊しちゃった原因かな。本当はね、お酒なんか飲んじゃいけないのかもしれないけど」
 テーブルには、一合の徳利があり、それをゆっくり小さなおちょこで口に運びながら、木下さんは淡々と話した。

「えぇ!お酒飲んじゃって大丈夫なんですか?日本酒じゃなくて焼酎にしたら、どうですか?」
 びっくりした私は、自分のビールを一気に飲み、うろたえつつ変てこな応対をした。自分の頭の悪さが表面化されるのは、何か言わなくてはいけない事態になった時、とっさに出る言語能力かもしれない。お酒は駄目かもしれないと言っているお客さんに、別のお酒を勧める。
「焼酎は、氷を入れて水で割る飲み方もありますし、それなら薄くなりますし」
 必死に話す私に木下さんは、目を細め優しく言った。
「好きな日本酒を飲んで死ねたら、自分は本望なんだよ」
「そういうものなんですか!こだわりは中々曲げられないって感じかしら?
 最後まで日本酒で生きましょう!木下さんは、不死身ですから!」
 と、真剣な顔で私は言った。

 そんな木下さんからの電話だった。
「今ね、ピンク電話なんだ。実は、今、病院なんだよ」
「えっ?病院?」
 私は、一瞬かたまった。

「明日ね、三度目の肝臓の手術なんだ。手術終わって元気になったら、又、お店行くから。待っていてくれるかな」
「もちろん、待っています!元気になるに決まってます!だって不死身の木下さんなんですから!」
 私は、声を絞り出すようにして言った。

「絶対に待っています!」
「福ちゃん、ありがとう」
 ガチャと鈍い音がして、電話が切れた。

 それから、何度目かの同じ季節が巡って来ても、二度と木下さんからの電話はなかった。そして、お店に姿を現す事はなかった。
 たぶん、他のお店に行ってるのだと思う。
ずっと、そう思ってる。
だって木下さんは、不死身なのだから。

             つづく