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ライフサイクル理論から考察する
暮らし・命・生活・人生
英語では全て
同じ「life」だ
東洋的な感覚では
命→心臓
もしくは、spirit
何となく崇高で
身体の中に含まれているイメージがある
しかし
「life」というと
身体の外側に存在する
現実的な世界観をも包含している
◇
以前
ある研究者が
「命は時間」
「時間は命」
とスピーチされているのを聞いた
確かに、「寿命」「天命」「余命」な
こども心のアイデンティティ
「清濁併せ呑む」ということわざがある
清流も濁流も 最後は全て海へと流れ込む、という観点から
清流も濁流も 分け隔てなく受け入れる、心の広い人を例えている
これは、ライフキャリア
という視点で考えたとき
人生は長い物語だと捉えたとき
かなりしっくりくることばだと思う
「清流も濁流も分け隔てなく」
というのは
心情的にはなかなか難しいと思うけれど
視点を引いて
山頂から見下ろしたとき
飛
思考と向き合うことは、感情と向き合うことより、自分軸への近道だと思う
心理学やカウンセリングを学ぶなかで
「自分自身の感情に耳をすます」
「感情を受け入れる」
的なことを言われる。
「私は今、悲しんでいる」
「私は今、焦っている」
それにより
「今ここ」
「あるがままにの私」
「客観的に自分をみつめる」
ことにつながるとか。
実際に行ってみると
「私は今、悲しんでいる」
…「そうでもないかも」
「私は今、焦っている」
…「そんなでもないかも」
……
アイデンティティを学ぶことは必然だった
両親の最期を看取ったあと
なぜだかエリクソンの第8段階の発達課題「統合 vs 絶望」が頭から離れなくなり
そもそも「統合」とは何かと考えたのが学びのきっかけだった。
そこから現在、成人のアイデンティティを研究するに至っている。
そしてある時ふと思い出したのが
「世界にはこんなにたくさんの人がいるのに、どうして私は私なんだろう」
私は就学前、5~6歳のころ
この考えに取りつかれて、夜眠れない
オンライン化と豊かさと
イレギュラーな形でスタートとなった院生生活。
不慣れなオンライン化に戸惑っているのは私たちみたいな学生ばかりではなく
先生方も、日々変化する状況に奔走されている。
大学では主にMicrosoftのTeamsが活用され
科目毎にグループを作成、その中でオンライン授業や資料の提供・共有がなされている。
初めこそ全てが不慣れであったが
回数を重ねるごとに、主にオンライン上に顔をさらすといった心理的
情緒的豊かさとは、感性が磨かれている状態
院での研究計画では「情緒的豊かさによるところの主観的幸福感」として進めてゆく予定であった。
が、コロナウイルスによるこの状況下において
「情緒的豊かさ」を味わう感覚というのは、とにかく目の前の「命や生活」を守るエネルギーに、ほとんど打ち消されてしまうだろう。
何事においても、環境のもと、優先順位は入れ替わる。
例えば戦時中やその直後の日本でも、人間の「心」を丁寧に見つめ、扱う余裕なんてなかっ
オンライン化がすすむなかでも、泥臭さが好き
コロナショックを受けて、また、今後のウイルス対策に向けて
ますますオンライン化がすすむことは予測できる。
我が子のことにしても
学校の休校において、オンライン化学習の整備を進めていくことは、当然の流れだと思う。
実際私も今回、テレワークを経験したし
夫についても、いつでも在宅ワークができるよう、周辺準備が進められているそうだ。
そのような中、それでもやっぱり人間と人間が直に触れ合える距離感だ
とりあえず、日本風に置き換える
食の欧米化が、日本人にこれまでにはない生活習慣病を及ぼす。というのは、だいぶ以前から言われている。
例えば代表的なのが牛乳。
アジア人やアフリカ人には、もともとこれを分解する酵素が備わっていないとか。
昨今流行りの「地産地消」には、やはりちゃんとした意味があり
もともとその土地で育ち、長い年月をかけ、遺伝子的にも組み込まれ馴染んできたものは
やはりその土地で育った人間の身体にも一番馴染むそ