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こども心のアイデンティティ

「清濁併せ呑む」ということわざがある

清流も濁流も 最後は全て海へと流れ込む、という観点から
清流も濁流も 分け隔てなく受け入れる、心の広い人を例えている

これは、ライフキャリア
という視点で考えたとき
人生は長い物語だと捉えたとき

かなりしっくりくることばだと思う

「清流も濁流も分け隔てなく」
というのは
心情的にはなかなか難しいと思うけれど

視点を引いて

山頂から見下ろしたとき
飛行機の窓から眺めたとき

あらゆる川は
なだらかな大地に貼りついている

また
海の中では
清流も濁流も潮の流れとともに混ざり込み
やがて水蒸気へと変わり
同じ雨となる

雨は
清流も濁流も選ばずに降りそそぎ
再び海へ還って循環する

そしてこれは
成熟した大人の境地・達観というよりも

誰もが幼い頃
もともと持っていた感覚ではないだろうか



子どもたちは「しつけ」という名のもと

大人から見る正しさに照準を合わせ
透明な心を白色に塗りつぶされる時期がある

そうして徐々に「社会化」が促進されるのだろう

私にも
一律にペンキのような白色に塗られることへの違和感や
葛藤など
学校や集団の場で感じたことはあるが

そうした葛藤と折り合いをつけながら
徐々に大人になってきた気がするのだ

そしてむしろ
置かれた文化や環境の中
ある程度決められた文脈に取り込まれて生きてゆく方が
案外楽なのだ

求められることに、ただ応えてゆくこと

まるで父親や母親が
両手を広げて待っているところに飛び込んでゆくような
揺るぎない安心感にも似ている



子どもは本来
探索的だ

社会生活では
白色を基調とし
その後様々な色を足してゆくけれど

無色透明の素材に乗せる色は
白地に比べ、発色がイマイチだったりもする

良くも悪くも、染まりにくい

順天堂大学の田坂教授は

「真のリーダーは運が良く
そして無邪気である」

と語っている

「運が良い」
はともかく
「無邪気」とは、ある種の純粋性を指すのだろう

それは大人になって成熟して獲得した、というよりは
子どもの頃からずっと持ち続けている
「無色透明な心」によるのではないだろうか


無邪気さは、偏見や忖度、過度な世間体や分別といった
「コスト」を伴わない分
自分のエネルギーをまっすぐ対象物に注ぐことができる

そう考えると
ある種まっとうな大人になるということは
燃費の良くない生き方をすることともいえる

そして
「真のリーダー」というのは
まっとうさの枠を超えたところにいるのだろう



私自身は
白色に染まらなかった部分
大人の理想像に沿えなかったアイデンティティは
自分の不足分とみなした

大人のいわんとすることを
要領よくつかんで実行できるというよりは
常に誰かの見よう見まねで
ようやくついていった子どもだった

何かにつけて、どんくさくてマイペース

今でもやっぱりところどころが
スコンと抜け落ちている

適切に染まらないアイデンティティは
その存在を忘れていたり
何かのはずみで思い出したりしながらも
白地に新たな色が重ねられるのを横目に
なんとなく曖昧で、宙ぶらりんな存在だ


それでも、ようやく今
無色透明なアイデンティティが
自分自身の原動力や好奇心と結びついていると思えるのだ

突如として学びたくなったり
「知ること」「考えること」に喜びを見出だしたり
研究が楽しくなったり

社会化されていない部分
どこにも染まらない部分は
自分自身に誠実で、純粋だ

純粋性は
強さや正しさを
内にも外にも求めないし
おそらく
「あるがまま」
「自分らしく」
なんて言葉もわざわざ使う必要がないのだろう


長いスパンで考えると、こども心や純粋性は
「自分らしく」生きる上で
コスパが良くて心地よい



それでも私は
清流も濁流も吞まずに
日々、割高でコスパのよく分からないシリカ水を飲んでいる