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【ラー博の何故?】第1話「何故?新横浜に作ったの?」

🍥何故新横浜に作ったの?

「何故ラー博を作ったの?」、「何故新横浜に作ったの?」、そして「何故昭和33年の街並なの?」これらの質問は全て連動しておりまして、話の順番として「何故新横浜に作ったの?」からお話させていただきます。

🍥新横浜ラーメン博物館 創業者 岩岡洋志

新横浜ラーメン博物館の創業者である岩岡洋志(いわおかようじ)は、昭和34年、新横浜駅の南口に位置する港北区篠原町に生まれました。

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ちなみに岩岡は高校、大学とラグビーに明け暮れる日々を送っていたバリバリの体育会系です。当時の写真と、本人の希望で当時の新聞記事を貼らせていただきます(^^;)

ラグビー2

館長新聞記事

話を戻しまして、昭和30年代の新横浜は今では考えられないかもしれませんが横浜市内最大の水田地帯で、鶴見川を中心に鴨居・川和方面から小机、新羽、岸根、大倉山方面に至るまで、一面の田畑が広がっていました(笑)

S40 新横浜航空写真 下

🍥当時の新横浜

昭和39年、東京オリンピック開催の年に新幹線が開通し、昭和50年に区画整理が終わり、昭和52年には「ひかり」が停車するようになり、バブル景気と共に新横浜はオフィス街として発展していきました。
ちなみに現在では全ての新幹線が停車する街へと発展しております。

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このような状況の中、岩岡は自分が生まれ育った街が発展するのは嬉しい反面、オフィス街のため、土日になると人が全くいない寂しい街であることが気がかりでなりませんでした。
この当時、横浜アリーナも日産スタジアムもありませんでした。

アリーナスタジアム

岩岡は大学卒業後、専門商社に入社しその後、昭和60年に父が経営する地元新横浜の不動産会社に入社しました。入社時の新横浜は開発ラッシュで、様々な企業が新横浜に進出し、日々工事が行なわれていました。

🍥地元愛が生んだ発想

しかし、岩岡は自分が生まれ育った新横浜がどんどんコンクリートに囲まれた冷たい街になっていくことに寂しさを感じたのと同時に、この街にも話題性があり、週末になると家族が訪れるような施設があれば新横浜は変わるのではないか?という思いになりました。

そこで岩岡は地元の仲間たちを集めて「新横浜にこんなものがあったらいいなの会」という会を立ち上げました。ここで仕事終わりに週3回ほど集まり、色々な議論がなされました。横浜アリーナが平成元年に開業するのをきっかけに新横浜を音楽の町にしようとか、様々な案が出ました。
結果的にこの会からラーメン博物館の構想が出来たわけでありませんが、新横浜の課題点やヒントを得ることが出来ました。

そこからどのようにしてラーメン博物館の発想に至ったかは次のお話「何故ラー博を作ったの?」でご説明いたしますが、つまりラーメン博物館の構想の原点は生まれ育った新横浜の「地元愛」なのです。

だからこそ、その想いがあって「横浜ラーメン博物館」ではなく、あえて「新横浜ラーメン博物館」という施設名にしたのです。

★バックナンバー
第2話 何故?ラー博を作ったの?
第3話 何故?昭和33年の街並?
第4話 どうやってラーメン店を選んでいるの?
第5話 どのようにお店が入れ替わるの?

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