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魏志倭人伝から邪馬台国を読み解く その8 魏志倭人伝の信憑性

 いまさらですが、ここで『魏志倭人伝』について改めて確認したいと思います。

□魏志倭人伝とは?

 『魏志倭人伝』は日本での一般的な通称で、正式には『三国志 魏書 三十巻 烏丸鮮卑東夷伝 倭人条』となります。三国志の中で、その時代の東夷について記載してある箇所で付録的に書かれている内容で、その中に倭国についても書かれているような位置づけになります。わずか二千余字の漢文で書かれた文書です。『三国志』の編纂者は陳寿です。時代は、西暦180年~280年頃となり、日本では弥生時代の後期、終末期に相当します。中国での24ある正史の1つです。なんと、あの映画やマンガやゲームや歴史小説などで超有名な三国志の時代となります!

 『烏丸鮮卑東夷伝』は、中国からみて北部や東部の異民族の事が書かれている書です。中国皇帝の徳に従う東の野蛮な国々についての説明書きみたいなイメージです。倭人は、その中の一種で、他にも「高句麗」や「韓」など複数の国々が記載されています。古代の中国には中華思想と呼ばれる考え方があり、中国を中心にして異なる国々を自分たちより下の存在として差別していました。このため、異なる民族に対しては、卑、夷、倭など、あえて意味の悪い漢字を用いています。

 補足ですが、古代の日本でも大和朝廷時代には東北地方に住む人々を蝦夷(えみし、えぞ)と呼んで差別していました。自分たちを中華に置き換えて世界の中心にみたてた考え方です。当時の日本もこの中華思想の影響を色濃く受けていた事が分かります。
 少し話は変わりますが、現代でも外人(外国人)という区別の言葉は残っています。未だにこのような自分達中心で線引きして考える思想の影響が残っているような気がします。今のグローバルな社会に生きている同じ人間として、マインドとコミュニケーション上での失礼がないように私も気をつけようと思います。

□漢字の読み仮名の発音は分からない!

 漢字については、1つの大前提がある。魏志倭人伝に出てくる国名、人名、地名などは、基本は、中国側で勝手に選んだ当て字という事だ。つまり、漢字の字体にはあまり意味がなく、重要なのは、その読み方の音の方になる。

 私もこの連載内でも一般的な読み仮名を少し用いて来たが、実はあまり積極的に読み仮名を記載してはいない。これには、「きっと当時の倭人の使者が話した事を、通訳者なども交え、中国の役人が聞こえた音に合わて書いているだろう」という思いがあるからだ。

なぜならば、そもそも古代中国(漢)と今の中国とでは、漢字の音の発音が違うという説を読んだことがあるからだ。現在の私たちが、書かれている漢字を今の読み方で発音しても、正しい音なのかは分からない。いや、たぶん差違があるのだろう。本来は古代中国のときの発音で考察するべきだ。

 例えば一説には、邪馬台は、ヤマダイ、ヤマダ、ヤマド、ヤバイ、卑弥呼は、ピミホ、ピメハ、ピメコ、ヒミホ、ヒビコなど。もうこうなってくると、正しくないかもしれない読み仮名だけを最重要視して、似た音の日本の地名から比定地を選ぶのは危うい。適切な当時の音と、その音がどう転じて現在の音になったのが分かるとありがたいのだが。

□中国側からみた魏志倭人伝とは

 中国側からすると、周囲の国々の情勢を把握し、外交を行った正式な記録になる。定期的に貢ぎ物を持ってきて従う国々、各国との外交の記録、未だに国交関係が無い国々、中国に従わずに敵対や反抗する脅威となりうる国々を明らかにしている。昔の中国にはこのような記録を行う役人がいて、文書記録を専門の仕事にしている。周辺諸国の情勢、動向には常に目を光らせ、アンテナを張り周辺諸国の情勢収集をしていると言えると思う。

 そのため、私は、魏志倭人伝などの中国側の歴史書の記録には、倭国に対して、よっぽど中国側に都合の良い勝手な話とかが書かれていない限りは、中国側による内容への改ざんや捏造はほとんど無いと思っている。もちろん、内容は、倭国使者からの上告文や説明内容、帯方群などから報告書として上がってきた情報、中国から倭国にやって来て実際に滞在した僧侶からの手紙などからの情報、倭国に関する見聞きした話の伝聞など、様々な情報が混ざっており、正しい情報と正確では無い情報もあると思う。中には誇張された数字や内容もあると思っているが、それにはちゃんとした論理的な理由があると思う。(例えば、中国皇帝の徳(価値)を高めるため、実際より大きな国、遠くの国、多数の国から朝貢に来たように記録する等)

 実際に、後の時代の『隋書』には、倭国からの国書に「日出する処の天子、書を日没する処の天子へ致す、恙無きや」の記録が残っている。蛮族が中国皇帝である自分にしか許されないはずの天子を勝手に名乗り、対等な立場で接して来たことに対して、随帝が怒って、「今後は蕃夷からの無礼な手紙は自分にみせるな」と部下を叱った旨の記録まで残っている。

 日本では、『日本書紀』に書かれていて、あの有名な聖徳太子が小野妹子に持たせたとされる遣隋使のエピソードである。中国側からすると自分たちの皇帝の権威に関わり、記録する側としては大変不名誉な記録である。「日本の蛮族が無礼だったから退けた」とか書いておけば十分で、わざわざ書かなければ良いのにと思う内容だ。

 つまり、中国側ではこんなに悪い事実すら記録するくらい、当時に実際に起きたこと、見聞きしたことを、真面目に記録しており、少なくとも記録者には変な作為はみられず、私は魏志倭人伝(古代中国の記録)の記載内容の信憑性は高いと思う。ただし、各時代の正史の各編者達が、どの記録を正史へ採用して記述して、どの記録を採用せずに記述しないとかには、編者達の意図が込められているとは思う。

※『隋書倭人伝』については、謎の古墳時代を読み解く その4 隋書の倭国 前編 異なる倭王をご参照ください。

 『魏志倭人伝』の信憑性についてあえて書いたのは、古くから『魏志倭人伝』の記載内容はいい加減だ、間違っている、中国側の思惑で改ざんされているなど、記載内容を疑う見方や、魏志倭人伝を懐疑的に捉えたり、軽視したりする見方があるからです。

 例えば、邪馬台国への工程では、記載されている通りに進むと九州の南の海上になり邪馬台国には辿りつかない、倭国には、牛、馬、虎、豹(ひょう)、羊、鵲(かささぎ)がいないと書かれているが、弥生時代の遺跡から牛や馬の馬具等が出土しており弥生時代からいたはず、卑弥呼の朝貢の景初2年(238年)は、魏は遼東の公孫淵との戦闘の真っ最中だから、朝鮮半島経由では魏には行けず、戦いが終わった景初3年(239年)の誤りだ、邪馬台国の7万戸(家)など、そんな大きな人口が暮らせる国が当時にあるとは思えない等です。

 私も『魏志倭人伝』の全てが正確で正しいとは思ってはいませんが、間違っている部分には理由があったり、細部過ぎて大勢には影響が無かったりで、大枠について正しい情報だと思っています。見聞きして書いた内容、想像で書いた内容、少し大げさに書かれた内容、少し中国側に都合良く書かれた内容などがあると思いますが、しっかりと考えて読み解けば、見極めることが出来るはずだと思っています。もちろん、その見極めは重要だと思います。そして、本連載では私なりの考察を行って見極めた結果を記載しています。

 数字がついオーバーになる理由でもある中国人の「面子(メンツ)」や「徳」について、「三国志 魏志倭人伝」の漢文の内容は、複数の解釈や諸説が生まれやすい文書である背景については、以下のコラム内でも一番最後に記載していますので、ご参考ください。

その1 倭の九州北部の国々
その2 特別な伊都国そして倭双国

⬛次回は、邪馬台国への道のりの謎へ

 次回に続く

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最後までお読み頂きありがとうございました。😊

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