独りの二人

「まさかダブルブッキングするとはね。生まれてもう三十年になろうとしているけど、こんな体験初めてだよ。しかも今話題の天才高校生俳優と同室だなんてさ」
 ぷはー、とホテルからお詫びとして渡されたそれを、柳田真はさながら運動後の水分補給の如く喉を鳴らしている。
「ここだと、ほら、十六歳からお酒飲めるんだからさ、君も飲んじゃいなよ」
手が痛くなる程キンキンに冷やされたジョッキを渡され、言われるがまま口に運ぶ。しゅわしゅわと音を立てながら、それは枢木蒼の口内を苦みで満たした。「旨い」なんていう感想はいくら探しても出てこないような味。いつもならすぐさま吐き出してしまうのだろうが、今はその耐え難い苦さが不思議と心地よかった。
「ん~、本場はやっぱ違うわね~」
私このために生きてるわぁ、と柳田は眉間にしわを寄せている蒼の事なぞ気にせず、鼻の下に白い髭を作っている。よくこの状況でそんなリラックス状態でいられるものだ、と蒼はもう一度ジョッキの中の黄金色に輝く液体を流し込んだ。
 子役と呼ばれる時期からやっていた役者業。十七歳という多感な時期の蒼には、過酷すぎる日々であった。朝からドラマ、映画の撮影はもちろん、番宣のためのバラエティ番組の収録もある。それらから解放されたかと思えば、レッスンやトレーニングで予定はぎっちり埋まっている。つかの間の休息である自宅も、高卒認定をとるための通信教材がどっさり机に積み上げられている。蒼の親も人気俳優として活動しているため、両親どちらも家というものがありながら、一人息子というものがありながら、一緒に生活を共にすることなんてものは年に数回あれば良い方だ。
 無心に、ただ無心に、日々を過ごしていた。「私枢木さんのファンなんです」なんていう黄色い声援も、もう聞き飽きてしまった。自分の心を殺すように生活していく。偽りの心を自分の中に作っていく。そんなことを繰り返していく内に蒼の演技は日に日に注目を浴びていった。
「そっかそっか、そりゃ逃げ出したくもなるよ。いま日本じゃ大騒ぎだよ、あの若き天才が行方不明! って」
がはは、と女性らしさの欠片もない笑い声。そんな柳田を尻目にソーセージを齧る。パリッとした皮の触感と中からあふれ出す肉汁に唾液がどんどん分泌されていく。久しぶりにこういった人の体温が感じられる食べ物を口に運んだような気がする。
「一人になりたかったわけだね、何もかも投げ出して」
うんうん、とわかったかのような顔をして、柳田は頷きながら新しい瓶の栓を抜いた。
「これも何かの縁だしさ、明日から一緒に観光でもしようよ。どうせ何も知らずにこの国に来たんでしょ?」
撮影で何回か海外に訪れたことがあるとはいえ、何のあてもなく海外へ来たのはこれが初めてだった。一人旅行の力強い味方になるだろうと考え、渋々了承することにした。
「そうと決まれば今夜は前夜祭! ほらほら、グイっとグイっと」
アルハラの悪質さを身をもって実感する。最悪な二人旅が始まろうとしていた。

「やっぱり美術館や古典建築もいいけど、本場の教会っていうのは迫力があるわね」
翌日、蒼はズキズキする頭を唸らせながら、柳田に連れられてザクセン州の首都、ドレスデンに来ていた。柳田の言う通り、頭の鈍痛を和らげるほどの風景が広がっていた。石畳の道の両脇にレンガ造りの店や家屋。ファンタジーの世界のような迫力がそこにはあった。
「教会を見学する前の腹ごしらえということで」
柳田に連れられ近辺の飲食店に立ち寄ることになった。柳田は語学留学でこの国に来たことがあるらしく、ペラペラとまではいかないものの、店員とのコミュニケーションは不自由ないようだった。
「昨晩はソーセージ食べたからね、じゃじゃーん、ジャーマンポテトでーす!」
柳田はトレイに乗ったジャーマンポテトと瓶ビールを、蒼の座っていたテーブルに勢いよく置いた。このジャーマンポテトもソーセージが入ってるじゃないか、という突っ込みを飲み込んで、付け合わせのザワークラウトに手を伸ばす。しかしながら、会って二十四時間も経っていないというのに、何故この人はこんなにも馴れ馴れしいのだろうか。
「ん、不機嫌そうな顔だね。昨日飲みすぎちゃったかな」
「なんでそんな自由なんですか」
ザワークラウトの酸味と再び襲ってきた頭痛につられて、不意に言葉が出る。
「私だって高校時代は真面目だったよ? 勉強も部活もやってさ。親や先生からいいように見られようって必死だった」
プシュッ、と音がしたかと思えば、柳田は例によって鼻の下に髭を生やしていた。
「でも疲れちゃった。有名な偏差値の高い大学に進学することは先生にも親にも話してたのに、海外に行くことにしたんだ」
鼻の下を拭った柳田は、どこか真剣な眼差しをしているように見えた。
「世界を旅する仕事をしようって思ったの。ずーっと自分の部屋に閉じこもって、勉強や部活のことばかりだったから。自分の知らない世界を見てみたかったの」
少し寂しそうな顔をする柳田を見て、蒼は少し安心感を覚えた。
「世間だと天才俳優なんて呼ばれているかもしれないけれど、今じゃなんとなく続けているだけで、俳優やってるときの自分と普段の自分、どっちが本当の自分か分からなくなっちゃったんです」
蒼はザワークラウトをつつく手を止め、昨晩言わないと決めていた言葉を零す。あわてて何かを隠すように、既に注がれていたビールを口に運ぶ。苦い。
「誰だってそんなもんだと思うな。内面の自分と外側の自分、それとどう折り合いをつけるかなんて考えだしたらキリがないよ。その時はその時。思春期真っ盛りで自分とは何か考える君と、天才俳優として何も迷いのない君。どっちも本物なんだよ」
どっちも本物。偽りとして考えていた自分のあらゆる側面を肯定されるような気がした。

「この聖母教会はね、第二次世界大戦時に壊されてしまったんだけど、立て直したものなんだ」
昼食を済まし、聖母教会に足を踏み入れる。RPGなんかでよく想像される教会よりも、数レベル上の装飾が教会内には施されていた。柳田が見ているスマホのサイトによると、バロック様式でプロテスタントという宗派のものらしい。
「立て直したとは言っても再建までに四十五年かかったらしいけどね」
柳田の解説を話半分に聞いていると、教会内のオルガンが響き出した。荘厳な音楽とともに讃美歌が流れてくる。
「お、ラッキーだね。せっかくだし聴いていこうか」
流れ続ける讃美歌。柳田はじっと目を閉じ、まるでその宗派の人間の一人のように耳を傾けていた。蒼も目を閉じてみる。いつものレッスン用の音源や、CDデビューのための楽曲たちとは違い、こうしてゆっくりと何かの音楽を聴くことも久しぶりだった。あの曲たちは夢や希望、将来なんてどれもポジティブな歌詞ばっかりだったけど、この讃美歌はそもそも歌詞が理解できない。蒼にはそれが心地よかった。
 讃美歌が終わり、参拝客はぞろぞろと出口へ流れていく。
「そろそろ出ようか、ずっと教会っていうのもつまらないでしょ」
ふふっ、と柳田は屈託のない笑顔で微笑む。参拝客についていくようにして教会を出た。教会を出るなり、柳田はくるりとこちらを振り返った。
「さっき、再建されたっていう話はしたと思うけど、もともと使われていた瓦礫が所々の外壁に使用されているんだ」
「そうなんですか」
「そう。私に似ていると思わない?」
「どういうことですか?」
「以前のそれが所々に残っているってところかな」
もう一度聖母教会を見る。外壁は所々に明らかに年代が違うレンガが組み込まれており、白地の建物に黒く古いレンガがあるせいで、黒子のように見える。
「ボロボロになるんだよ、人も建物も一定の許容量を超えるとさ。でも人はボロボロになっても外見が変わらないから、わかりにくいんだ。」
「人は変わりながらも、変わらないとこを持ちつつ成長していくってことですか」
柳田は一瞬、意外そうな顔をした。
「おっ、流石若き天才ってカンジ?」
プシュッ、と音がする。柳田はいつの間にか瓶ビールを開け、蒼に差し出していた。
「ほら、この出会いに乾杯ってことでさ!」
ああ、また苦い。でもこの苦みは蒼にとって誇らしい苦みだった。あたたかい太陽が二人の足元を優しく照らしている。

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