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4年間の4キロ

 そもそも毎朝走り始めたのは、4年前。娘が高校へ行かなくなった時からだ。それまで長男が生まれてから、4人の子どもたちに振り回された18年間だった。これを機会に、自分のためだけの時間を作ろうと思ったのだ。そして、ちょっとばかり願掛けの思いもあった。いつの日か娘が自分で走り始める日が来ることを願って。

 娘の症状は無気力症候群か、適応障害といったところだろうか。まじめな性格の彼女は勉強も優秀で、高校では合唱部に入りたいと言って、合唱の強豪校に入学。一年生で全国大会進出という快挙だった。ところが、合唱のほかは何もかも手がつかなくなっていた。もともと人見知りが激しく、おとなしい性格で、慣れるのに時間がかかる。電車通学やクラスにもなじめず、宿題すらできない。次第に朝になると、学校へ行きたくない、と言って泣くようになった。合唱は続けたいというので、しばらくはだましだまし通っていた。しかし、お正月が過ぎてまた学校が始まる頃には、心身に限界が来ていた。高校一年生で学校生活はギブアップした。
 退学してからは、ほとんど自室で寝ていた。来る日も来る日も本気で眠っている姿をみて、この子は一度壊れたんだなと思った。これは長い目でみなければ治らない。ゆっくりゆっくり、少しずつだ。
 半年ほど過ぎたころから、少しずつ起きてくる時間が増え、家事の手伝いができるようになってきた。それでも、すぐに疲れてしまってまた眠り姫になる。家族以外の人とは会いたくない。にぎやかな環境や映画館などの大音量、肉体労働などは拒絶。そんな日々が続いた。
 娘にとって幸いなことに、我が家は自営業をしており、合わせてNPOを立ち上げてデイサービスや保育園も運営していた。仕事が山ほどあったのだ。娘が動けるようになると、事務仕事を少し頼んでみた。疲れやすいけど、きっちり仕事はできる。もともとまじめなのだ。家業の方も、忙しいときには手伝ってくれるようになった。少しずつだが、デイサービス、保育園、厨房とNPO全体の仕事をこなしていった。そんなことをしているうちに、スタッフや利用者さんたちとも馴染めるようになった。気力も少しずつ戻り、高卒認定を取得することができた。少し自信がついたのか、精神状態も多少上下しながらだが、落ち着き始めた。2年後、自力で大学入試に合格。社会福祉士を目指して再スタートを切った。
 山里で生れ育った彼女にとって、都会でのひとり暮らしは、なかなか慣れず、再び不安定になったり自信を失ったりが始まった。大学も続けられないと、泣き出す日もあった。週末は実家に帰るというリズムでなんとかかんとか、退学せずに大学生を続けていた。
 そんなある日、住んでいた寮が火事になった。娘は幸い我が家に帰って来ていたので、無事だった。娘の寮の建物は全館閉鎖となり、別の寮へ移動になった。他の学生さんも、みんな無事だった。それまでは個室だったが、同い年の子と同部屋になった。初めて家族以外の人との生活が始まった。慣れてくると会話もはずんだ。かえって一人の時よりも調子がいい。同部屋生活は半年間だったが、火事騒ぎのお陰で、なんとか1年間クリアし2年生に進級した。
 「バイトしようかな〜」
昨年末、突然そんなことを言い始めた。やれるのかなぁ、またストレス貯めないといいけど、と心配もあったが、自分で考えたんだから大丈夫だろうと本人に任せた。自分でバイト探しを始め、寮の近くのファミリーレストランで仕事を始めた。接客業をやるなんて想像もできなかったが、電話での声は以前よりトーンが高く元気な声になった。バイト先でもまじめな働きぶりが認められたのか、担当テーブルが増えた、と嬉しそうに話してくれた。子ども食堂のボランティアも始めた。
「一緒にボランティアに行ってる友達に難聴の子がいてね、マスクしていると話ができないから、すごく困るんだって。そういう時はスマホを使って会話するんだ。」
と、生き生きと話してくれる。
 我が家に帰ってくる日がめっきり少なくなった。会えないと心配にはなるし、寂しい思いがする。しかし、自分で世界を広げ始めた娘の姿は、4年前を思い出すと奇跡が起きたような成長ぶりだ。

 先日、久しぶりに娘が帰ってきた。
 いつものようにジョグに行こうとすると娘が出てきて
「散歩に行こうかな」
と言う。いいね!と言って走り始めると娘もついて来る。
「あれ?走るん?」
と言ってもだまってついてくる。ちょっとうれしくなった。頬を真っ赤にして、無言でどこまでもついて来る。
「無理すると明日動けなくなるよ」
と、脅してもついて来る。とうとう、4キロの道のりを走り切った。中学生の時以来の長距離走だ。
 4年前、いつかきっと、と願った。実際に一緒に走る日が来るとは、思いもよらなかった。あの日、娘は
「自分の足で走り始めたよ」
というメッセージを私に送りたかったのだろうか。

 自分のために走り始めた朝ジョグ。この4年間、自分自身もどんどん開けてきた気がする。気持ちが前向きになり、できることが増えてきた。始めは100mすら走れなかったけれど、今は10キロ近く走ることもある。いつも、一歩一歩大事に走ることを心掛けている。生きていると、うれしいことがたくさん待っている。