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愛を注ぐ女性の話(ルカ 7:36-50)


今回はルカによる福音書の7章のストーリーですが、比較的分かりやすい話のように見えます。しかし、今までの解釈を別の視点、疑問を投げかける時、別のストーリーが見えてきます。
福音書では、しばしばパリサイ人はイエスの敵として描かれています。しかし、このストーリーでは、あるパリサイ人がイエスを食事をしたいと自身の家にイエスを招きます。私たちはパリサイ人というある種のイメージをもっていると思いますが、必ずしもそのイメージに当てはまらないようなパリサイ人もいます。

その食事の場面に、思いもよらないことが起こります。
すると見よ。その町に一人の罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油の入った石膏の壺を持って来た。
「罪深い」女性がそこにいたというのです。当時の家は入ろうと思えば、自由に入れるような造りであったようです。もしかすると、この女性はまさに突然パリサイ人の宴会に飛び込んできたようです。
いろいろな註解書を読むと、「罪深い女」とは売春や不倫をした女性と理解されています。37節にある「その町」とは、カペナウムという町です。比較的大きな都市です。「都市」「女」「罪深い」という組み合わせから、この女性は売春婦であるか、もしくはかつて売春婦であったと伝統的に考えられてきました。しかし、それを明示、暗示する箇所や含意はないものと考えられます。

売春婦という言葉は、40-43節のたとえ話と相性が良いのかもしれません。多くの借金を帳消しにされたのはこの女性を指しているように思えます。そして、48節でイエスは女性にこう告げます:「あなたの罪は赦されています」。こうなると、このストーリーの私たちの理解は、売春をしていた女性が、イエスと出会い性的不品行の罪を悔い改めて、その罪が赦されたというものになります。こういう風に理解するとすべてがしっくりいくように思えます。売春をしていた女性は、その罪の重さを神の前に悔い改め、このような愛の行為に及んだとなります。そして、私たちは悔い改めの大切さと悔い改め、神に赦された後の私たちの生き方はどうなるかという話になります。
このようにしてこの出来事を理解するとしたら、不可解な部分が残ります。借金の譬えですが、もし借金を罪とした時、「多く」というのは罪の量でしょうか。罪の質でしょうか。わかりません。また、この女性の罪の方が、パリサイ人シモンよりも重かったということでしょうか。

そして、仮にこの女性が売春婦だとした時、当時のユダヤ教倫理の世界では、売春は罪の範疇に置かれていたかもしれません。21世紀の世界のキリスト教で「悔い改め」「罪」「赦し」の理解の中では、この女性はかつて売春婦であったけれど、このストーリーの中ではもう売春はしていないと考えられるかもしれません。だとしたら、ルカは何故この女性は「罪深い」と呼ばれるのでしょうか。

そして、48節をもう一度見てみましょう。
「あなたの罪は赦されています」

この翻訳で十分なのですが、もう少し突っ込んで訳してみると、「あなたの罪はもう赦されています」「あなたの罪はとっくの昔に赦されています」と訳しても問題ないと思います。イエスがすでに「赦されている」と描写している女性を、著者のルカはまだ「罪深い」と描写しています。ルカが本当にそう思っているのか、パリサイ人シモンの言葉を引き出すために使った言葉でしょうか。ルカのミソジニー的な考えが現れていると考える神学者もいます。

先週もお話ししましたが、私たちが「赦し」もしくは「罪の赦し」と聞くと、「私たちが、意識的に、無意識的に何かしらの道徳的な罪を犯し、神様に謝罪をし、神がそれを聞いて赦してくださった」という枠組みで考えます。もちろん、「罪の赦し」にはそのようなものが含まれると思います。しかし、ルカによる福音書で「罪の赦し」という時、それは4:18-19のイエスの宣言から考える必要があると考えます。これは、ルカの福音書に記されているイエスの宣教の初めの言葉です。

4:18 「主の霊がわたしの上にある。
貧しい人に良い知らせを伝えるため、
主はわたしに油を注ぎ、
わたしを遣わされた。
捕らわれ人には解放を、
目の見えない人には目の開かれることを告げ、
虐げられている人を自由の身とし、
4:19 主の恵みの年を告げるために。」

ルカの福音書では、「赦し」とは「貧しい私たちに解放と自由が到来したこと」と同じ意味と考えて良いと思います。「罪の赦し」とは「罪と悪の世界からの解放、神の国の民となること、神の国への参画」を意味しています。その中には、個人の犯した悪事に対する赦しも含まれるかもしれませんが、それが中心ではありません。確かにこの女性は罪深いのかもしれません。そのように仮定するなら、パリサイ人シモンも、読者も、そして私たちも同様に罪深いのです。

40節から43節の譬え、それに続くパリサイ人シモンへの指摘は、キリストの福音が伝える神の愛が人間に影響を与える時、何が起こるかを示しています。「罪深い」とレッテルを貼られている女性は、神の愛を通して「罪と悪の世界からの解放され、神の国の民となること」を体験しました。その喜びと感謝が爆発し、義務からではなく自ら進んで、涙でイエスの足を濡らし髪でぬぐいました。イエスの足に口づけをし、イエスの頭にオリーブ油を塗り、足に高価な香油を塗りました。「罪深い」と呼ばれているくらいですから、地域社会の中でも受け入れられない状況にあったのでしょう。しかし、彼女は今や神の国の民の一人になりました。彼女の行為は愛と喜びの爆発です。一方で、パリサイ人シモンは、彼の宗教的サークルの中にいて、自分の心の奥底の状態、つまりこの女性を「罪深い」とレッテルを貼り、神の国から締め出そうという自分の心の状態を受け入れようとはしませんでした。そのような自分にも気づかなかったでしょう。

しかし、イエスは女性に言います。「あなたの罪は赦されています」この意味は、「あなたはもう神の国の民の一人だ。私の愛に浸って生きて欲しい」ということです。彼女の罪深さが何であったか、彼女がどのように生活費を稼いでいるかは問いません。彼女はすでに赦されているからです。神の国の民の一人だからです。神の国こそが彼女の居場所です。

クリスチャンにとって信仰のしるしとは愛です。ここで女性の信仰のしるしは、涙でイエスの足を濡らし、髪でぬぐい、イエスの足に口づけをし、イエスの頭にオリーブ油を塗り、足に高価な香油を塗りました。こうしたのは、他でもないパリサイ人シモンが蔑み、罪深いとレッテル貼られていた女性です。

私たちはしばしば信仰と神への愛を教会の道徳へと変えてしまいます。礼拝や祈祷会に欠かさず出席しているか、どれくらい献金をしているか、礼拝に時間通りに来ているか、毎日何時間祈っているか、何人の人に福音を伝え、罪を指摘し、教会に連れてきたかということに変えてしまいます。
私たちにとって、信仰の証しとはどのようなものでしょうか。
私たちにとって、神の愛の証しとはどのようなものでしょうか。
信仰の証し、神の愛の証しは周りの人にどのように映っているでしょうか。
祈りと共に考えていきたいと思います。
 
 

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