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【思い出エッセイ】父親と通った名も知らぬ温泉

休みの日に私をどこかへ連れて行くのは父親の任務の1つであった。

母親と父親と私の3人でどこかに出かけた、ということはほんの数回しかなかったはずである。


私が休みに家族で遊んだと言えば、その家族とは父親のことであった。

車を走らせて海釣りに出かけたり、川に泳ぎに行ったりしていたが、中でも記憶に強く残っているのがどこかの山の温泉に通ったこと。


その温泉の名前はわからない。それどころかどの山の近くなのかもどこ方面なのかも全くわからない。

車に1時間弱揺られてやっと着くくらいの距離だった気がするが、その記憶も曖昧すぎてあてにならない。

ただ、当時の私にとって、その温泉がとても怖い場所だったことはよく覚えている。

というのも、その温泉に来るのは父親と同じくらいの年齢、もしくはそれより上のお爺ちゃんと呼んでいいほど年配の方々ばかりで、いつ行っても子供は私1人だったのだ。


小さい子供が珍しいのか、ほとんど毎回ご年配の方に話しかけられた。

はっきり言って何を喋っていいか分からなかった。
実際、会話を一つも覚えていない。


ただ、父親が会話に入って助け舟を出してくれたという記憶はないので、恐らく必死に会話をしたはずである。


父親と温泉で何を話すかと言えば、毎回カニの話をしていた。

その温泉の湯船の角には岩の塊があって、その岩の隙間からお湯が出ていた。
私の父親は決まって「今日はそこ(岩の隙間)にカニいるか?」と私に問うていた。


今思えばそんなところにカニなどいるわけがないのだが、その岩の隙間はいかにもカニがいますよという雰囲気を漂わせていたので、私はすっかり騙されて毎回カニ探しをしていた。


私が成長し、いつからか父親と温泉に行くことは無くなったが、結局最後までカニは見つからなかった。

私があの温泉で覚えていることはそのくらいなので、私の中であの温泉は「カニ温泉」となっている。


もうカニ温泉には一生行くことは無いだろう。

別に大した温泉ではなかったのだが、時々カニ温泉のことを思い出しては懐かしい気持ちに浸っている。

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