"誠実さ"の解釈、社会人として生きること。
「”飛び降りろ”と言われたら飛んで死ぬのか」
-ジョセフ・クーパー(インター・ステラー)-
社会人生活も早いもので2年目を迎えた。
後輩ができたことによる変化、自分でもやれることが増えてきた感覚、1年前と比べ確実に自分の世界は動いた。
ここ最近「次はどんな姿を目指す?5年、10年先の姿を考えてみて」と問われた。
問いに対する答えはまだない。
けれど、問いを見つける上で必要かもしれないことは少しずつ見えて来た。
答えが出ないなりに向かうべき先、向かいたい方向性について書いてみようと思います。
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恥じらいを捨てる難しさ。
1年前に比べ、仕事ができるようになったとはいえ、それは会社全体で見ればまだ微々たる進歩。
同じチームの先輩のように会社に目に見えて貢献できるようになるための道のりはまだまだ長い。
そんなここ数日、同期から仕事に通じる内容を教えてもらうことがあった。
僕は基本的にアドバイスやサポートというのは全面的に大歓迎のスタンスではある。
だが今回のケースは「自分が理解できなかった内容を同期に教えてもらう」という局面であり、正直に言えば恥ずかしさもあったし、素直にアドバイスをもらう心苦しさもあった。
シンプルに、優秀な同期に嫉妬したのだ。
しかし、この嫉妬がいかに無意味な感情かも理解はしている。
自分が今の部署に配属されるタイミングで社長に直接言われたことがある。
比較対象は同期ではなく、上司にすること。
横ではなく上と比較するように。
今の自分にはピッタリな言葉を僕は既に貰っている。
自分で自分の軌道修正をすることの難しさ。
これを最近は実感する。
自分は自分としてどのように生きていくのか、
答えを本に求めても、人に求めても”しっくりくる答え”は出てこない。
こうした悩みの大抵の結論は、方法論を探す前に”試す”こと。
やりながら方法を確立することにある。
「次はどんな姿を目指す?5年、10年先の姿を考えてみて」
この答えは探して見つかるものではなく、覚悟にある。
気づいた時が変化するタイミング、そう信じて進む。
恥も苦しさも一息ついて飲み込み、また毎日を生きていく。
正しさと誠実さの解釈
また別の話をすると、社会人になって求められたのは”誠実さ”ではないかと自分では思う。
社会人になる前の自分と今で感じ方や考え方に変化はあったが、この”誠実さ”についてもその中の1つに該当する。
そのことを実感するのは日常の何気ない会話にある。
例えば、誰かが何かについて言い間違いをした時。
普段の僕は誰かの発言の齟齬や間違いにそれほど言及しない。
言葉は違っていても、意味は通じるし、言いたいことも何となくわかる。
少し本音をいえば「ココは違う」という形で指摘をする為のエネルギーは僕にとっていくらか負担だからでもある。
とはいえ、相手のその場での面子を守る、相手を尊重するためにあえて指摘をしない、それが僕のスタンスであった。
けれど、ビジネスではむしろその「ココは違う」と指摘できることを求められる。
それは間違った認識で進んだ話が大きな食い違いになる事を防ぐため。
業界の用語などもそうだし、企業名やサービス名など間違えやすい認識はいくつもある。
それぞれの意味を正しく理解し、正確な合意の上でプロジェクトを動かさなくてはいけない。
指摘できる人が良いよ。
そういう人は信用される。
いつだったかそんな言葉も頂いた。
よくわかる気がする。
これが日常とビジネスのギャップなのか、そんなことを感じた。
どちらかの”誠実さ”が正しい間違っているということではない。
ただその先に見据えるものの違いなのかもしれないとは思った。
前者、これまでの僕の誠実さとはきっとその場限りの誠実さ。
その場では誰も不幸にしない。
一方の後者、ビジネス的な誠実さはその場ではきっと恥ずかしさや苦しさが生じると思う。
しかし、長い目で見たときにその時に痛みを負って得た教訓、認識は今後も忘れることはないだろう。
僕は少しずつ、後者の視点を持つ必要があると気付いた。
意思決定とは、誰かに言われたからやる、考えるものではない。
きっかけは誰かの一言であったとしても、
自分自身がなりたい姿を自分で決断し、自分で実現していく必要があるのだ。
「”飛び降りろ”と言われたら飛んで死ぬのか」
-ジョセフ・クーパー(インター・ステラー)-
映画の何気ないワンシーンも時々、グッとくる。
ライ
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