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短編小説 寂しいおじさんと二年後に死ぬ乙女

 乙女に「おじさん」と渾名あだなされるは快、「寂しい」まで添えられれば欣快の至りだ。こちらが独身独居とか俗世的交際ぎらいとか足腰の衰えとか公言せずともたおやかなる目は全部お見通しで、そんな時ほどその奥にシャーロック・ホームズばりの洞察力が冴ゆるを見るも心憎い。

「はいどうぞ」
「……先生なんか慣れてる」
「慣れてる?」
「スタバよく来るんですか?」
「たまにな」
「え~もっとあたふたするかと思ったのに~」
「なんだそれ。だからスマホ構えてたのか」
「そ。緊張してるかなって」
「緊張なんてしないだろ、ただの喫茶店で」
「しますよ。わたし初スタバめっちゃ緊張しました」
「まあ初めてならな」
「ええ~超いが~い、ぜんぜん寂しいおじさんじゃな〜い」

 大学後期の最終回、授業後ある女子学生に連絡先を訊かれた。今様の口ぶり物腰にやや病みがちな化粧と身なりは、知的パートタイマーの薄い財布狙いか、若い心身を持て余した暇つぶし狙いか、一見すると例年ていよくかわしてきたハタチに同じ感である。

「なにおじさん?」
「寂しいおじさん」
「ハハハ、寂しいおじさんねえ……」
「今日からスタバ禁止です」
「なんでよ、たまにはいいだろ」
「だーめ。吉野家ならいいですよ」
「吉野家こそ行かないなあ、自分で作った方が美味いし」
「あ、やっぱり自炊派?」
「というかあんまり外食をしないな、一人だと」
「うん、それは意外じゃないのに……」
「おれはずっと意外だよ、まさかキョドらされるために誘われたなんて」
「え、ちがいますよ!」
「しかもそれ撮ってインスタに上げて全世界に恥を──」
「ないない! ひとりで見る用!」
「これは『不可単位』だな」
「ねえ!」

 だが眼前に立つは四月から素地あり年間通して伸びに伸びた言語表現力の持ち主、毎週のように目を見張らせられ唸らせられ度肝を抜かされてきた乙女だ。どうせ退屈すぎてあくびが出ちゃう今日この頃だし、みさお捧げて気づかうべき相手にも去られたし、大学には今年度も散々コケにされてきたし、まあ後は野となれ山となれ、と立体感ある涙袋のほほえみに応じてみるや、ラクトンかぐわしき腕に腕取られ駅前スタバに早速ご相伴とあいなった。

「前に30代後半って言ってましたよね」
「言ったっけ」
「言ってましたよ。ほんとはおいくつなんですか?」
丗八38
「うそ」
「うそであってほしいよ」
「35か6かなって思ってました」
「誤差のうちだな」
「いやいや二年は大きいですよ。私22なんて、想像するだけで手首切っちゃいそ」
「確かに、誤差って思えちゃうのが老けた証拠なんだろうなあ……」
「あ、遠い目」
「……一回このお手拭きで顔面強めに拭いてみようかな」
「アハハまじむり~!」
「おじさんっぽいだろ」
「ちがうの、先生は寂しいおじさんなの。──あ」
「ん?」
「寂しいおじさんは、ずっとおしぼりで顔を拭いていました」
「……ン?」
「なんか絵本の終わりっぽいなって、アハハ」
「なるほどじゃあ続きは現実で──」
「待ってちがうだめ!」

 大学院をウロウロしていた十年前、やはりハタチの学部生に初対面の印象を「寂しいおじさん」と打ち明けられたことがある。当時から文学の泥沼に首まで浸かって友人もほぼいなかったし腰も痛かったが、なにより「廿八28でもうおじさんなのか」と驚かされた。いざ逃げも隠れもできない年になってふたたびそう渾名されるとは、なんだか感慨深いものがある。

「で、どのへんが寂しいおじさんなのよ」
「んー、なんとなく?」
「なんとなくねえ」
「あ、おじさんなのは手」
「手?」
「手の甲。年が出るんですよ。先生細いしスーツ着ないしパッと見おじさんぽくないけど、手は結構おじさんかも。ほら──」
「げ……」
「並べると違いがよくわかるって、ママも言ってます」
「そりゃハタチには勝てんな。しかし今日も爪いけてるなあ」
「でしょ! 頑張りすぎて一限遅刻しちゃった」
「それ正直に言ったら見逃してくれただろ」
「むりむり! 先生じゃないんですから」
「頭固いやつばっかりで嫌になるねえ」
「あっ、あと先生腰痛でしょ」
「──座る時か」
「そうそう。わたしは笑っちゃうけど、あれもおじさんっぽいかも」
「だよなあ。我慢してるんだけど、勝手に漏れちゃうのよね」
「今も痛い?」
「いや大丈夫、今年は暖かめだし」

 よくよく考えてみれば「寂しい」と「おじさん」のマリアージュ合体とは奇妙だ。「お父さん」や「パパ」や「役職名・肩書」など他者との関係が前提されておらず、かといって人格容姿など個性を仄めかすわけでもない、未見未聞の正体不明の中年男性という存在のみを表示する不定代名詞「おじさん」とは、はなから社会的な孤立を含意しているものだろう。つまり「寂しいおじさん」とは、「かわいい犬」や「明るい太陽」や「暑い夏」のごとき一種の同語反復トートロジーにすぎない。

「寂しいってのもここ左薬指か」
「や、それもあるけど、そこがなんとなくなんですよね」
「ふうん」
「──あっそうそう、年末最後の授業のとき、終わってからなにかスクリーンで見てませんでした?」
「あら、バレてたのね」
「電気も消えてて、何してるんだろって、ちょっと外から覗いてたんです」
「別に入ってきてもよかったのに」
「邪魔しちゃ悪いかなって。なんかめっちゃ石見てたし」
「彫刻な。石って」
「アハハ。あのときが寂しい感じ」
「一人でごそごそしてたのが?」
「んーちょっとちがう。てかなんでわざわざスクリーンで見てたんですか?」
「前からやってみたかったのよ、小っちゃい画集なんかよりここに映せばいいじゃんって。超重い高解像度の画像をダウンロードしてドーンって、もう気分はルーブル独り占めよ、フワアアって、ああ思い出すだけで空も飛べるはず──」
「あっ今!」
「今?」
「雰囲気? じゃないか、ウーン……」

 若者言葉「ぼっち」のように孤独であることが嘲弄される昨今、「寂しい」は否定的ニュアンスを負わされがちなものである。だが現代にことごとく背を向け「人は孤独である限り自分自身になれる(ショウペンハウエル)」を金科玉条としてきた身にとって、往古の「さび」をまとえるなんて光栄だ。今日び分裂させられがちな自我と自己像のまぎれもなき一致を知らせる福音でもある。それが乙女の口から告げられるとは、いよいよムーサ女神に月桂樹を冠されるにも等しい僥倖、うやうやしくこうべを垂るべきほまれ以外の何物でもない。

「とにかく先生は寂しいおじさんなんです。ぴったり」
「ぴったりなんだろうな、前にも言われたことあるし」
「エッいつだれに?」
「十年くらい前、誰だっけな」
「え~見る目あるう、話してみた~い」
「ハハハ……」
「…………」
「…………」
「泣く?」
「泣かねえよ」
「アハハハ! でも全然知らない人が十年前にも同じ渾名をつけてたって、なんかすごい、ウンメイ」
「あのころはよくわからなかったけどな」
「今は?」
「まあ、わかる」
「でしょ! おじさんって呼ばれるのもイヤじゃない?」
「むしろ快感、今ハタチの女子学生に呼ばれるのは、アア──」
「……やっぱりヘンタイおじさんかも」

 難儀なのは「おじさん」だ。世に数多ある言の葉のうちこれほど呪わしい四文字シニフィアンはあるまい。惰性、老残、加齢臭、ああ字面だけでも泣けてしまう。この涙は嘔気が無条件反射、おじさんはおじさんが嫌いなものだ。駅ホームや公衆便所で前後左右にそれに並ばれるだけで線路上に小便器に蹴り込みたくならないおじさんなんてこの世にいるのだろうか。一般的にそれ呼ばわりが不快を催すとされる心理も、そんな同族嫌悪が根底にあるに違いない。

「次はヘンタイか」
「回りのみんなが呼んでる渾名です」
「今年度ヘンタイ要素なんてあったか……」
「たぶん梅毒の回ですね」
「症状の写真が生々しかったか、いや感染予防について書かせたせいかね」
「どっちもですよ、そんなの英語の授業でやったことなかったし」
「英語だからこそやらないとな。第5文型なんかよりよっぽど今のハタチに必要なことだし、日本語だったらまともに考えようともしないだろ」
「たしかに。でもびっくりしたってのもあるかも」
「びっくりさせてヘンタイなら、いい教員は全員ヘンタイになっちまうぞ」
「まあ一番は、あの絵を解説してたときの楽しそうな感じ?」
「ロップスなあ、まさに現代の予言者だよな。ああやって終末は今もどこかでこっそり着々と進行しているのだ──」
「ほら楽しそう。やっぱりヘンタイおじさんかなあ」

 ただし乙女の口をかすめる「おじさん」は別、そこには楽園にてアダムを禁忌へ いざなうイヴの呼び声にも似た甘美な響きがある。育ち悪しき婦女は「おっさん」を使うが、乙女はこれを相手に明確な悪意敵意や蔑視軽視を抱いていなくば口にせぬ。今生の春を謳歌す野のツツジに接吻したてか程みずみずしき唇がささめく「おじさん」とは、その少なからぬ好意善意を伝える琴線一糸のふるえなのだ。つつしみかしこみ押し頂くべき瑞祥、忌避するいわれは毫もない。

「寂しいとヘンタイと、どっちがいいですか?」
「どっちかしかないのか」
「ハイ」
「迷うなあ、ヘンタイも悪くないし」
「悪くないの?」
「ヘンタイって褒め言葉だからな。ステキと一緒で」
「え~ちがいますよ」
「一緒一緒。ちょっと涙目で言ってみて、いったんおじさん抜きで」
「ヤですよ」
「じゃあ睨みつけて放りつける感じで、さん、はい」
「やだ」
「イヴサンローランのリップ買ってやるから──」
「ヘンタイ」
「早ッ」
「アハハハハ!」
「みんなにも伝えといて、涙目で言ってくれたらアルフォート買ってあげるって」
「安ッ」

 乙女が胸中に宿る親愛敬愛の奥ゆかしき吐露を、なにゆえ拒否することがあろう。かつて「小父おじさん」と書かれた機微を思うべし。この機微を知らずして狩られに狩られいまや絶滅に瀕する「おば小母さん」と同じ轍を踏ませては断じてならぬ。

「でも、もうヘンタイおじさんじゃなくなるかも」
「なんで?」
「さっき先生と話す前みんなでアンケートやってたんですけど、寂しいおじさんにしよって言ったらウケてたので」
「しよって、書いたのか、授業アンケートに」
「書いてませんよ! 口で、話の中で」
「いやS本さんあたりはさらっと書いていそうだな……」
「大丈夫ですよ。みんな先生のこと好きですし」
「詳述せよ」
「え、みんな三年にも先生の授業がほしいね~って話してましたし」
「ほう」
「毎回ちゃんと読んでいっぱい添削してくれて嬉しかったし、先生が相手ならなんでも書けるとか」
「それでそれで」
「初めて英語の授業が楽しいって思えたとか、あっK美ってわかります?」
「Y川さんか」
「そ! 『所有と暴力』の回でカレシのこと書いたら、裏までびっしり返事くれたって、刺さったって、泣いてましたよ」
「DVが結婚後の話だけだと思ってたみたいだからなあ」
「その後みんなで回し読みしたんですけど、わたしも勉強になりました」
「うまいことケリついたのかね」
「大丈夫みたいです。読んですぐ学生支援課に行って、警察にも届けて、親と一緒に泣きながら謝られて、誓約書を書かせて、って」
「ならよかった」
「今楽しいのは先生のおかげ、ですって」
「そうアンケートに書いて教務課にも知らしめてくれたと」
「あ、自由記述欄は空欄のままでしたね」
「書いてくれよおK美ちゃあん!」
「アハハハハ!」

 て世にある中年男性よ、おのが存在理由レゾンデートルのために起て。かくも麗しき「おじさん」を捨て浅ましくも小銭で乙女をたぶらかし「パパ」と呼ばせしめ悦に入りたがるそのいやしき無学蒙昧の横ッ面を、まずは張り倒してやる。

「みんな後期どの回がおもしろかったって言ってた?」
「んーいろいろ、動物実験とルッキズムが多めでした。デブリシリーズも」
「やっぱりショッキングな方が記憶に残るよなあ」
「わたしの推しは『自信と自殺』ですけどね」
「ハハハ、おじさん構文のインパクトな」
「そうそう! みんなドン引きで」
「あれちょっと重すぎたかなって思ったけど」
「ぜんぜん。楽しかったですよ、やっぱ心理学オモシロ~って」
「あの回のあなたの作文は特に凄まじかったもんな」
「え~ほんとですかあ?」
「ほんとよ。あのぐっちゃぐちゃのドロドロのギャアギャアうるさいやつ、でも一本スウッと、なんていうの、芯みたいなのがかよってて超透明な冷たい感じ」
「え〜」
「気負いもてらいもなくてさ。。去年も一昨年も他大学にもあそこまでのものはなかったくらい、ずば抜けて芸術だった」
「え〜へ〜」
「まあそんじょそこらのハタチが書ける代物じゃなかったな」
「エ〜ヘヘエ、ヘッヘッヘ」
「えっこわッ」
「怖くない!」

 おらぬか、あえて口中の血が苦々しきを舐め知的苦行の極致「自己批判」に目をひらかんとすをのこは。せむかたなし、せむかたなし、浮世にあるは男ばかり、立てば芍薬座れば牡丹のあえかなる一輪に比して度し難きまでに醜く愚かな有象無象、怯懦きょうだ魯鈍ろどん豚児とんじたるけがらわしき糞袋ばかり。

「そういやあの日マッチングしたって言ってた相手、結局会ったのか」
「会いましたよ。チャット見ます? 続き」
「見る見る。──ゲエきもちわり~オロロロロロ」
「アハハ! リアルゲロうま!」
「実物のおじさん構文はきついな……」
「本人もきかったです」
「どんなやつだった」
「めっちゃ声うるさい汗くさいおっさん、ややデブ」
「ひええ、そんなのと──」
「違うんですよ聞いてください、会ってすぐホテル連れ込まれそうでまじむり~って、逃げちゃいました」
「よく逃げ切れたなあ」
「ちょっと追いかけられたんですけど、超遅くて余ッ裕でした。ずっと鼻息やばくてほんときもかった」
「危ない危ない。しばらく六本木には近づきなさんなよ」
「はあい」

 しなう髪明るく染めて巻きつけて有名店が紙袋手に赤坂青山表参道を彩る乙女、それを高嶺の花と指くわえ眺むる薄弱男子が「量産型」とせせら笑うは見苦し。ありく百合たる彼女ら一人一人と文を介して睦んでみれば、輝かしき個性がもれなく備わってあると知れる。みじめなりルサンチマン。

「しかしおぞましいな、これこのまま授業で使いたいくらいだわ」
「使っていいですよ、スクショいります?」
「いいのか、ありがとう。個人情報ちゃんと隠すからな」
「心配してないですよ、先生そういうとこすごいしっかりしてるし。あとで送っときますね」
「ありがとう。四月からどの大学でも学生あての連絡は全部おじさん構文で書こうと思っててさ、ちょうどよかった」
「先生がおじさん構文? アッハウケる!」
「女子の身の回りにある危機について、もっと自覚させられそうだろ」
「たしかに。でも他の大学でもやるなら男子は引きそう」
「引け引け。めっちゃ声うるさい汗くさいおっさんややデブ予備軍に用はねえ」
「アハハハ!」

 はて「量産型」とはなんぞ。昨日は木こりのジレづくし今日はブカブカベージュの綿パンずらり、さして可笑おかしからぬ話柄にも総員ゴリラ玩具かと両手を打ち笑い右見て「ウェーイ」左見て「オツカレーイ」、同じことしか表せず同じふうにしか感ぜず同じようにしか生きられぬ肥溜め系男子よ、「量産型」とはなんぞ。一人で立てぬと群れに群れるも吹けば消し飛ぶ塵芥ちりあくた、先ごろ首都をけざやかに染めた雪晶ひとひらにも劣るおのれ自身を、なによりもまず刮目して見よ。

「やっぱり絵文字と終助詞が勘所か」
「全部カタカナがいいってわけじゃないですよ、ここ今夜はなにしてるのかナ?の『かな』は断然この方がきもいです」
「なるほど、言われてみれば絶妙だな……」
「ハートはごりッごり揺らしてくださいね」
「ちょっと練習しないとなあ。今度サンプル書いて送るからさ、添削してくれるかね」
「添削? 先生の? わたしが?」
「そう。おれがやってきたみたいに、今度はあなたがおれの作文を──」
「えーおもしろそう! やるやる!」

 幾つになっても小さきサル山にたか右顧左眄うこさべんするばかりの凡百匹夫より、巨大頑迷なる父権社会に身ひとつで差し向かいのし上がらんとする乙女こそはたくましく勇敢で、しなやかで、清廉で愛らしく、賢く、儚く、美しい。

「やっぱ目ですね」
「目?」
「目。先生の寂しいところ」
「死んでるか」
「死んではないけど、死にそう」
「あなたもあの作文を出しに来た時は、今にも死にそうな目してたよ」
「そうだっけ、忘れちゃった」
「……目はうそと言ってますねえ」
「アハハ、さっすがあ」
「まあそうやって忘れようとするのもありよ」
「でもそれって、にせものって感じ」
「……まあな」
「先生の目は、ほんものって感じ」
「寂しいおじさんだからねえ」
「今も?」
「ん?」
「今も寂しい?」
「寂しいよ」
「わたしも」

 時めけ乙女、またたけ乙女、弥増いやまし光の化身たれ。成熟まぎわの刹那を封じし虹をも赤らませる肉体の、迫り来る腐敗を予感しおののいて今この時にも涙す精神こころの、うたかたをとどめて結べし世に、天なる星地なる乙女よ!

「わたしは二年後に死にます」
「……」
「卒業して、おしまい」
「うまく生きていける気するけどな、あなたなら」
「ヤですよ。きれいなうちに死にたいし」
「散りたいし」
「散りたいし。散りたいし?」
「乙女の命は散るもんだよ」
「……」
「おれの授業で『単位』を取った女子学生は乙女だからな」
「…………」
「どんな過去があっても、これから先どうなっても、今は綺麗に咲いてる花よ」
「──エヘヘエエ、ヌフウフフ」
「不気味な花よ」
「ひどーい!」

 かくして「寂しいおじさん」とは、夢も希望もなく、扶養家族も友もなく、もはや味のしない苦虫をまだ噛み噛んで噛みつぶしては「なんで雪が降る直前って生暖かいんだろう」とか「なぜ昇りかけの月は黄ばんで大ぶりなのに天頂では青みがかって小ぶりなんだろう」とか「どうすれば美しく生きられるんだろう」とか世間様には無益無害のあれやこれやで頭が一杯の、あわれな生き物である。

「いざって時は連絡しろよ。見届けてやるから」
「え、先生は生きてるの?」
「──まあ、オカンが元気なうちは」
「へえ親孝行~」
「それくらいしかしてやれないからな、こんな生活くらしだと」
「そんなことないですよ。ありますよ、お母さんにしてあげること」
「あげられること?」
「あげられること。授業に呼んであげましょ」
「おれの? なんで」
「講義してる時は、先生の目すんごいキラキラしてるから」
「……」
「声だって、マイクなしでも一番後ろでも、よく聞こえたよ」
「……」
「喜んでくれますよ、ぜったい」
「……そうかねえ」
「講義が終わったら、わたしも、この先生は寂しいおじさんで、優しいおじさんで、おもしろいおじさんで、ヘンタイおじさんです、って講義します」
「いやオカンおりますけど」
「アハハハ、たのしい絵本のはじまりはじまり──」
「……」
「……ねむ……」
「早く寝な、明日も一限なんだろ」
「うん、おやすみなさい──」
「おやすみ」
「………………」

 乙女とは、いつの時代も目ざとく耳ざとい、口さがない生き物である。





しこうしてその寂寞たるは遂に恋と死とにくなし。
恋は人の世の花なり。死もまた人の世の花なり。

田山花袋






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