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感想随想

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小人閑居してデジタルデトックス

 日頃から「流行りすたりに興味なし」とかうそぶいているくせ、座右のMacBookProがブラックアウトして使えなくなるや早速「デジタルデトックス」と当世用語を並べ立てる節操なき小人が、ここにいる。是非もない、いくら精神を紀元前アテナイに19世紀末パリに遊ばせようと肉体は令和六年ニッポンから逃れられないものだ。それならたまには現代人を気取ってみてもバチは当たるまい、確定申告も済ませたところだし。  前段の「ブラックアウト」は「画面に何も表示されない状態」にふさわしいかと感覚的

凡庸な、あまりに凡庸な

 幼時ピアノを習っていた。思春期にはドラムスを叩きギターを弾いた。やがて「音楽」という概念そのものに没頭し始め演奏からは遠ざかる。それが三十路も半ばを過ぎたころ、あるピアノソナタと知り合った。  どうしても弾いてみたい。第一楽章だけでいい。しかしワンルームに88鍵は大きな買い物だ。悩みに悩んだ末ギターを二束三文で売り飛ばし、本棚二架を蔵書ごと処分して、まあまあ質のよい電子ピアノを据え置いた。  提示部の右手「ド♯ レド♯ ミ ミ」を爪弾いてみるだけでふつふつ込み上げてくる

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言海ヲ游グ

 年始も採点やら試験作成やら齷齪しておりました。少しは暇もありましたから、本を読んだり散歩をしたり、叶えたためしのない一年の計を懲りず念じてみたり、要するに平年並みです。  しかし「齷齪」って、いかにもジタバタした字面で可笑しいですね。似たところに「齟齬」がありますが、これとて通じ合っていない様子が目に浮かびます。どちらも昨今あまり使われない言葉ですが。  どれも偏は「齒」です。近代文学で「よわい」とルビが振ってあったり「年齒」と使われていたりの、旧字です。歯が年輪を語る

もの思う青

 毎年ほぼ欠かさず罹患する病といったら、インフルエンツァでも武漢病原体でもない。大型連休が終わり、今後しばらく祝日なしと絶望する朝ぼらけに突然やってくる、そう「五月病」である。  身も心も泥のように重たくて、どこにも行きたくないし何もしたくない。ひどいときは抑鬱症状にまで発展してしまう、あれだ。  ストレスから自律神経の働きが鈍る、日照時間が減ることでセロトニンが分泌されづらくなる、という二点が病理という。これは年を取ったらひしひし身に沁みるようになった「季節の変わり目」

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めげずくじけずダンディズム

 10年以上ファストフードを口にしていない。  食品添加物への不信感とか、親譲りの「安かろう悪かろう」とか、ショート/トールにグランデ/ヴェンティを並べてしまう薄っぺらい言葉づかいへの反感とか、理由をあげつらったらキリがない。  上京したてのころは、某アメリカ産チェーン店によく通った。地理か英語かの教科書でしか見たことなかったハンバーガーが100円(当時)とは、これが大東京か、とお上りさんは満悦していた。  ある飲み上がりの深夜、最寄駅の店舗に寄った。客も店員もまばらな

あと100秒

 「終末時計」というものがある。もとは英語で "Doomsday Clock"、いかにもSFっぽい用語だが現実のものだ。  とはいえ現実にある時計のことではない。アメリカの隔月誌『原子力科学者会報』に1947年から年一で掲載されている指標のことで、深夜0時きっかりを人類絶滅の時刻と見なして今は「何時何分何秒」に該当するのか、世界情勢をふまえて比喩してきたものである。  2022年は23時58分20秒を差していた。残り100秒である。  『会報』は、1945年8月の両原爆

断病亭日乗

・8/26 前期追試験のため都内の大学へ。対象者16名全員が8月初旬の感染者である。解答を採点、返却。江戸川乱歩『火星の運河』が絶品。蛇だ蛇だ。 ・8/31 ふと変な動悸を感じる。突然胸を内から殴るような、壁に背をもたせていると反動で身が浮くほど強力に打つ。一回ドンッとしたらしばらく収まり、日に数回。直後に立ち上がると軽いめまいと嘔気あり。永井荷風の『新帰朝者日記』とくと味読、戯作精神いたく愉。 ・9/4 動悸に加えて目に違和感あり。乗り物酔いのようなめまいが続き、なにか

大学生のいいわけに付き合ってみる

 7月下旬といえば、だいたいの大学が前期試験期間である。ここでしくじったら4月からの半期15週がまるまる水の泡となるから、熱帯夜も線状降水帯もお構いなしで誰もが血眼となる。  しかし学業ばかりにかまけてもいられぬ。部活、サークル、合コン、くっちゃべり、バイト、居酒屋、デート等々、「ニューノーマル」なるバカっぽいカタカナ語の占領下とて青春を謳歌したいものだろう。  そこで伝家の宝刀「いいわけ」の出番となる。  毎週マーキングかのように最後列にダボダボの尻を着けてApexに

ことばが絶滅してゆく

 クリスティナおばあちゃんが亡くなった。ヤーガン族の最後の生き残り、つまり「ヤーガン語」の最後の話者だった。  ヤーガン族は南米チリの先住民、6000年前からかの地に定住していた。大航海時代(およそ400年前)のスペイン人の侵略・占領によって混血が進んだが、それでも150年前までは3000人が血脈を守っていた。それが、文字通り「0」となったわけだ。  チリの公用語はスペイン語である。ヤーガン語はそのかたわらで、親から子へ、口から耳へ、ひっそりと伝わってきた。国語ではないの

大学生のいいわけに流される

 ある都内の私立大学、後期は「対面授業」だった。新型コロナとともに遠隔授業が流行っているが、語学は演習科目として事務方から夏にお達しがあったのだ。ただし「学生が体調不安など訴えれば個別に対応せよ、既往症や家族構成等から通学に不安のある学生もいるので柔軟に」との注記あり。  要するに希望があれば「対面と一緒に遠隔もやりなさい」というわけである。もちろん給料は変わらない。教員の負担など目クソ鼻クソにしか考えていない職員の言い分だが、非常勤風情に文句は言えぬ。  10月第一週の

アメリカン・イデオロギーの教科書

 言わずと知れた『シートン動物記』の一編で、北米カランパ渓谷に棲むオオカミの首領「ロボ」の生き様を描いた感動作、という美辞麗句を取っ払ってみれば、なんのことはないただのプロパガンダである。  作者アーネスト・シートンはイギリス出身で、動物に関する専門教育を受けていない、王立協会(ものすごい権威)の奨学金を得たほど有望な画学生だった。本人も「アーティスト」と自称していた。  成人してから父親との仲違いにより渡米し、野生動物の観察記録をつけだした。それをまとめたのが『動物記』

石橋たたいてぶっこわす

 お母さんにおつかいを頼まれたけど外は雨、濡れたくないし危険な目にも遭いたくないから備えあれば憂いなし、でもそれも行き過ぎたら──という絵本の醍醐味が詰まった名作である。  物騒な昨今、特に都会では滅多に見聞きしなくなった「子供のおつかい」である。本作は1970年代のものだから、珠のようにかわいい幼稚園生くらいの女の子がお母さんに申しつけられる。  足もと悪いし髪も乱れる悪天候で外出なんて、大人であっても億劫なものだ。「でも、でも」となんやかんや言い訳するも、  雨具や

生きるという孤独

 雨の夜に出会ったヤギの「メイ」とオオカミ「ガブ」の友情を描いた傑作『あらしのよるに』シリーズ、その番外編である。もしかしたら本編より好きかもしれない。  かつてガブは温かい両親のもとで幸せに暮らしていた。だが群れを治める偉大な父ガルルを亡くすと状況は一変、優しかった母は厳しくなる。  ある日ガブは親友グルリのところへ遊びに行く。するとふたりの上下関係を決めるためケンカをしろと嗾けられる。親友の泣きっ面を見たくないガブはわざと負ける。その結果、仲間うちで一番の下っ端とされ

大人のための絵本

 酒井駒子さんといえば、いわく言い難い感情のまざりをそっと置きにくる画風で、ややもすれば荒めでよそよそしい筆致なのに読後感は不思議と優しく柔らかい、一言で言えば巨匠である。  そんな人と御大あまんきみこさんとの共作なんて垂涎必至、20年近く前の作品だが絵本は新しいからいいというわけじゃない。  なにげない一日に暮らす子たちが、いつもの公園で夢のような世界に紛れ込み、遊び、うちへ帰る。日常と非日常がひとつづきの、ザ・童話である。  銃火に怯えることなく、涙にまみれることも