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「もしも〇〇が少数派だったら」──社会モデルのイメトレをしてみたら面白かったの回

この前、何の気なしにこんなツイートをしたら、意外に反応がたくさんあって面白かったので、ちょっとまたブログにしてみようと思います!

どうしてこういう発想に至ったのか、他にもどんな例があるか、などなど、いろんな人からの意見を読んだり返信したりしているうちに多分Twitter上だと情報が点在してしっちゃかめっちゃかになっていったので笑、
一括でここにまとめてみます。気になる人はぜひ読んで〜

※先に言い訳しておくと、心理学に関わっている(かつ、自分自身も発達障害と診断されている)学部3.5年生が障害に関する自分の理解とかを細々綴るだけなので、厳密じゃない部分がたくさんあると思います!なるべく誤解を招かないように気をつけていますが、自分自身もちょっと誤解してたらすみません!!!許せ!!!
※ちなみに私はADHDの診断が下りてて、ASDは診断つけようと思えばつけられるけどまあADHDが強すぎるからいっか〜って言われた人です。

前提:「医学モデル」と「社会モデル」

障害、特に精神疾患や発達障害について考えるとき、よく話題になるのが「医学モデル」と「社会モデル」という障害についての2つの捉え方です。

学部3.5年生の分際の理解をざーっくり言うと、こんな感じ。

医学モデル:障害の原因を障害者自身の能力等に求め、障害者が障害の原因を治療することで生きやすくなるという考え方
社会モデル:障害の原因を障害者と社会のあり方のミスマッチに求め、社会のあり方を変えることで問題を減らしていこうという考え方

詳しく気になる人は、たとえばこのサイトを読んでみてほしい。

で、まあ、基本的には「社会モデルをベースにしつつ、医学で生きづらさを減らせること自体はそれもそれで大切だよね」みたいな着地点で話が進むことが最近は多い気がします。が。

「『障害の原因が障害者と社会のあり方のミスマッチにある』って、どういうこと?」
「障害は障害で、個人が治すべきものなんじゃないの?」

こう感じる人もまあまあいる(というか、実際に障害者である私も、ピンとこないときはこない。なんか自分ができないのが悪いような気がするし、治療した方がいいような気がする)。

でも、その感じ方も含めて疑義を呈しているのが「社会モデル」なのかな〜と今は理解しています。以下ちょっと順を追って説明すると、

=====

①まず「障害者」というものが生まれるまでの過程には、「こういう生き方が現在の社会では『一般的』と想定されていて、そうじゃない生き方は苦労するから支えてあげないといけない」という考え方がある、はず。

例:目が見えるのが一般的で、目が見えないと生きる上で苦労するので、目が見えない人は視覚障害としてサポートしよう!
例:「生きたい」と感じるのが一般的で、「死にたい」と毎日思っていると生活が大変なので、希死念慮が強い人は精神障害としてサポートしよう!

②でも、この「一般的な生き方」って、何か絶対的な正解があるわけではなくて、「マジョリティがどんな生き方をしているか」のみによって規定されているのではないか?

例:多くの人には霊感がないけれど、「霊感障害」と診断されているわけではない

③ということは、「社会が想定する『生き方』」の幅が広くなり、「多くの人が生きやすい社会」が生まれれば、「障害」といものは消滅していくのではないか?

例:目が見えなくても問題なく生きていける仕組みが開発されれば、「視覚障害」という概念自体が減っていく。例えば、現状は「ちょっと目が悪い」くらいならメガネでなんとかなるけど、メガネがなければこの人たちはみんな「視覚障害者」になっていたかもしれない

=====

と、いうわけで、「多数派ずらしイメトレ」やってみよ〜!

「もしも今少数派である〇〇が多数派となったら、今多数派の××はどう見られるのか?」

その1:「ADHDが多数派だったら」


発端となったツイートですね。

ADHDの人は、現在
①多動性(じっとできない)
②不注意(いろんなものに注意が散ってしまう)
③衝動性(我慢が苦手)

があると言われているので、これをひっくり返してみると…

もしADHDが多数派だったら、今定型発達とされている人は
①じっとしていて元気がない
②一つの物事にこだわりすぎ
③思いきりや決断力が弱い、チャレンジ精神がない

とか言われたりするのではないかと思います。

ちなみに、「部屋汚いのはどうなるんだ!?」っていうリプがちょいちょいついてたんですが笑、実は部屋汚い人がデフォルトだったら部屋綺麗な人は「お前潔癖だな〜!」とか言われたりするんじゃないかと(今でも潔癖症とかあるし)

その2:「ASDが多数派だったら」

こちらも↑のツイートが元ネタ。

ASDの人は
①特に非言語的な側面から相手の考えを読み取る/伝えるのが苦手
②特定のことに強い興味や関心がある
③行動にこだわりやパターンがある

と言われているので、

もしASDの人が多数派だったら、今定型発達とされている人は
①物事をはっきり言わなすぎ
②好きなものへの興味・関心が薄すぎ
③行動がブレブレすぎ

とか言われたりするのかな〜、って思います。

特に③とかありそう〜!!!知人の中には本当に判で押したように同じ日々を続けられる人が一定数いるのですが、彼ら一度筋トレとか勉強とか習慣化すると恐ろしく効果出てるんですよね。あれは本当にすごい。

あと、これに関連しての気づきも載せておきます。

前文に書いた通り、自分もASD傾向が結構あって、ASDの人とやりとりしていると、彼らは物事を正確に表現する(その表現が社会でよく使われる表現かどうかはさておき、感じたままのことを明確に表現する)ので、かなりわかりやすいんです。
逆に定型発達の人は「明言してないけど伝わるっしょ?」みたいなことがあるので割とつらい。「言語になってない部分を汲み取る」とかいう曖昧なコミュニケーションに依存したくない、という気持ちがある。そういう気持ちから、「ASDの人に比べて定型発達の人は言語化が苦手」と私は思い込んでいた、んですが。

どうやら、定型発達の人の多くは「ASDの言語化ってわかりづらい」と思っているらしい…………マジで?

自分の発言を内省してみると、話が前後の文脈を汲んでいなかったり、表現が独特だったり、表情や声のトーンと内容がミスマッチだったりするのかな。そういうのを全部度外視してやりとりを言葉通りにそのまま見るとこれ以上ないくらいに厳密だったり正確だったりする気がするのだけど。少なくとも自分はASDの人の言語化は厳密であり正確だと思う。

そう思うと、「言語化」という言葉一つとっても、何をイメージして何が正解とされているのかが人によって大きく違うことがよくわかりますね。期せずして、イメトレではなく素でマイノリティ/マジョリティ問題をやってしまった…

その3:「車椅子ユーザーが多数派だったら」

なんとなんと、実はこのツイートには元ネタがございまして、その元ネタをずばりご存知の方がいらっしゃった。
私も同じく星加先生の授業で「車椅子ユーザーが多数派だったら」という話を聞いて、その派生でADHDとASDをイメトレしたのでございました。

ちなみに、車椅子ユーザーが多数派だったら…
星加先生は授業でこう言いました。
「まず部屋の天井が低くなります」

え、え、え、確かに〜〜〜!!!!!

気になる方、詳しくはぜひこちらの記事を読んでください!

その4:「色覚異常の人が多数派だったら」

うおお、そうやんな。
色覚は本当に全然想像がつかない。いや本当、他人の色覚を想像するのってめちゃくちゃ難しくない?
動物の一部に紫外線とか赤外線が見えているという話を聞いて困惑するのと同じように、色覚異常の人が多数派だったら、きっと今一般的とされている世界を見ている人のことを「何が見えてんの!?!?」って困惑するんだろうな。

ちなみに、これ書くにあたってこんなの調べてました。面白すぎる

その5:「霊感がある人が多数派だったら」

手前味噌ですみません。
さっきの色覚異常の話からちょっと派生して「霊感がある人が多数派だったら」という話を考えてみた。
ここで「霊というものがこの世に本当に存在するのか?」みたいな議論はなしね。人間の多くが観測できない媒体で存在しているから気づかれていないだけかもしれないので。

例えば、霊感がある人なら誰でも避ける隠れ心霊スポットに間違って行っちゃって、大量に霊引き連れて帰ってきて、それから毎日金縛りに悩んでいる、でも霊感ないから自分じゃ解決できない……とか、霊というものが多くの人に知覚される世界線なら見るからに障害扱いされそう。
てことは、霊感ない人用の除霊支援制度とかあるんかしら……

ちなみに私は、霊感がある人に「敵か味方かわからん霊が大量に君を見ているんだけど、よくそんな中でぐーすか寝られるね」と言われたことがあります。見えなくてよかったです。

その6:「聴覚過敏が多数派だったら」

またまた手前味噌ですみません、これも載せとこうかな。

私、実はめちゃくちゃ耳がよいです。半分は先天性、半分は後天性。
後天性って何かというと、昔「イヤホンすると耳が悪くなる」という言説に抗おうと思って、イヤホンするときはいつも聞こえるギリギリの音量で聞いていたら、どんどん耳が良くなってしまったという過去があります。聴覚って鍛えられるんやな……

どれくらい耳が良いかというと
①イヤホンで音楽聴くときはほぼ最低音量
②ほとんどの人に聞き取られない人の喋り声が普通に聞こえる
③テレビは音量を家族の半分くらいにして聞いている

というレベルです。

というわけで、私が多数派となるように社会が設計されていたら、今のボリュームゾーンの人は
①イヤホンしても何も聞こえない
②人の話が全然聞こえない
③テレビ見てても内容が聞き取れない

という体験をするのかな〜と思います、というか、私の家族はそういう目に度々遭っています笑
「イヤホン貸して〜」→「何も聞こえんけど!?!?」ってよく言われる笑


とりあえず思いついたのはこんなところだけど、まだまだ付け足すかも!

ちょっとしたQ&A

というわけでひとしきり話したところで、リプでよく寄せられていた意見にまとめてこっちで回答していきたいと思います。

Q.定型発達の人はASDとかADHDの人に合わせられるのでは?
A.多分そういう人もいます。でも、今「定型発達」とされている人の中に、ADHDやASDの生き方にどうしても合わせられない人も間違いなく含まれているはず。
たとえば、私はインターナショナルスクール出身でしたが、「何で白黒はっきりものを言わないんだ!」と何年経っても怒られている日本人は割といました笑。もちろん、場に応じて使い分けられる器用な人もいましたが。

Q.何かができるようになることっていいことじゃない?
A.それ自体は否定しないけれど、
①「できないと障害者としてしか生きていけない」のと「純粋にできるようになりたいからできるようにする」のとでは話が違う
②そもそも「何かができるようになる」というのがどういうことかがマジョリティによって決定されている部分が大きい

という2側面があると思います。
たとえばADHDが多数派で、多くの人が部屋がめっちゃ汚いとして笑、それでも部屋を綺麗にしたいと思う人が綺麗にしたいのはいいことかもしれないけれど、でも今度はその部屋が綺麗な人たちのことを多数派は「潔癖症」とか「人間味がない」とか「綺麗すぎて落ち着かない」とか言うかもしれないなー、とか思ったり。

Q.ADHDの人とASDの人が多数派だったら社会回らんよ
A.それはそういう社会のあり方しか我々が知らないからな気がします。それこそ「ウチナー時間」とか「電車が時間通りに来ないのが当たり前の国」とかが定期的にTwitterでもバズるように、多分全然違った社会のあり方が生まれる可能性は余裕であるはず。

Q.現代社会が高度化しすぎているのでは?
A.もっと踏み込んで、そもそもこれは「高度化」なのかなあ、というところにも疑義を呈していきたいです。なんかたまたまいろんな制度が絡み合ってこれが今の勝ちパターンみたくなっているだけで、意外と数年数十年でマジョリティとマイノリティはひっくり返りうると思ったり。

Q.結局、マジョリティを基準にしたときに何かが「できていない」人は「克服」が必要という構図は変わらないのでは?
A.もちろんマイノリティがマジョリティに合わせることで楽になる側面が多分にあることは否定しないけれど、その「克服」に対する価値観の問題だと思っています。「絶対的に正しいものが一つあって、そこをみんなが目指すべきだから君もここに合わせなさい」という考え方ではなく、「マジョリティが我々なので、ちょっとそうではないみなさんにはご苦労かけちゃうんですけど……すみませんこの社会に柔軟性がなくて……」みたいな気持ちであるべきではないでしょうか?
たとえば、電車の網棚にカバン置けない背の小さい子供に対して「お前がチビなのを克服してないのが悪いんだ!」ってなるかって言われると多分ならんよね。網棚高くて大変やなーってなるよね。障害とかそういうものに関しても、そのスタンスを持っていたいと私は思っています。

なんかまだあった気がするけどとりあえずこんなとこで!

終わりに①:「治療」という概念とどう付き合うか

「終わりに」がなんと3つもあってすまん。全然終わってないやんな。
でも、今回のことを総括して自分の中で3つ感じたことがあるので、全部書いちゃおうと思います。

まずは「治療」という概念について。
今回は社会モデルについて色々思考を膨らませたから、まるで私が医学モデルに大反対しているように見えたかもしれないけど、実は私個人としては全然そんなことなくて、「医学モデルが社会通念では困るが、医学自体はありがたい」という立場です。

そりゃADHDが多数派だったら楽やな〜と思うんだけど、現実問題そうじゃなくて、私を助けてくれたのは社会じゃなくて薬だったんだよね。
社会モデルの気持ちを持ちつつ、でもどうしてもミスマッチが起きてしまう部分を物とか医療とかで埋めていくことは決して悪いことでもないのかなって。

でもそこに頼りきりになると今度は「マジョリティではないものは悪!」みたいになってしまいそうで、やっぱり難しいねえ、、、。という、結論のない思索でした。

終わりに②:パイの奪い合いを無限に続かせない

これはあるときからよく考えていること。
「誰もが幸せになる社会」ってどんな社会なんだろう、っていう。

これまで見てきた通り、マジョリティとマイノリティがひっくり返ったら、今度は誰か別のマイノリティが発生する。それってその「別のマイノリティ」が不幸せになるだけで、幸せの総量って本当に増えているんだろうか。
言い換えれば、私が特定のマイノリティのために足掻くことは、本当に意味があることなんだろうか。

これには自分なりにいくつか結論があって、
①より多くの人の生き方が想定されている社会は、より多くの人が同時に幸せになれる社会のはずだ。総量は増えているはずだ
②仮にパイの奪い合いになったとしても、よりイーブンな配分を目指して試行錯誤していくことは無駄ではないはずだ
③その中で、私にできることは、自分が思い入れのある特定のマイノリティの被っている被害を主張し、イーブンな配分に混ぜ込んでいくことだ

という考えに落ち着いているのだけど、今回諸々を見返しながら改めてこの決意を新たにしました、というお話でした。

終わりに③:「普通が壊れる」ことを楽しむ

「マジョリティ側でどうやって社会モデルを実感するのか?」という質問をいただいたので、思いついたものを試しに書いてみた。

そしたらこんなお返事をいただきました。

おお!確かに!
思い返せば、私は「相対化を楽しめる」という特性、というか趣味を持ち合わせているのでしょうね。
ごちゃごちゃイメトレして、「うわ〜〜〜普通ってなんだ?わからん!」って気持ち悪くなりそうな困惑に頭を浸して、そういうプロセスが単純に楽しくって仕方がない。

そう、実は発端となったツイートも、元々なんにも当てつけとか抗議のつもりはなくて、単にイメトレの一貫として遊んでいたらなんか伸びちゃったんです…………

このブログも、ひたすら「多数派」にレッテルを貼っていくという際どい内容だから、嫌な思いをする人も多分いるだろうけど……わがままを言えばできれば一緒に楽しんでいってほしいな〜と思って書いてみました。

まあ、「普通」が瓦解するのを楽しむ趣味、多分なんかジェットコースターに乗るのが楽しいとかホラーを見るのが楽しいとかそういうのに類しているので、向き不向きがあるのもわかる。しかも自分の善悪判断とかまでごちゃらせないといけないから、さらに精神的負荷がかかりそうなんで、無理にとは言わない。嫌だなって思う人がいるのも自然なことだと思う。
だけど、こういうのを面白がれるきっかけみたいなのが一つでも増えたら、それはだいぶ社会モデルの達成に近づいていくのではないかと思ったりもするのです。


長々と読んでくださってありがとうございました!
気が向いたらまた書き足すかも〜


そして最近恒例の、勝手に自分の関連記事を紹介するコーナー↓

★私が「社会モデル」を目指してやっていること〜「ずぼら」にとっての「メガネ」を作りたい!

★「ゲームしながら勉強する」とかいう謎ライフハックの話

★「一人の人を愛さないといけない」という規範との付き合い方

★東大の発達障害支援について


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