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ポリアモリーの私 と、付き合うということ

割引あり

こんばんは、りえです。ちょっと夜更かしした日は、なんだかこういうことを書きたくなりますよね。

私は高校くらいから、自分のことをポリアモリー(複数人を愛する人)なのではないかと考えながら生きてきました。し、それについてちょいちょい記事を書いてきました。

そんな中でいろいろ試行錯誤して、最近またちょっといろいろ葛藤があったので、それについて語ってみようかなと思います。


「好き」がなんだか、わかりすぎる

私は「好き」という感覚が「わかりすぎます」。

街ゆく人はみんな恋愛対象くらいの勢い。
基本的に誰に対しても恋愛感情をある程度は抱くんです。男子でも女子でも。顔見て五分くらい喋ってればもう「好き」にカテゴライズできるような何らかの感情は抱きます。

もちろん、そこから人付き合いや恋愛付き合いをするとなると話は変わります。人間としてどの程度共感や尊敬ができるか、一緒にいて楽しいか、自分のことを不用意に傷つけてこないか、等々。だから当然自分の中で誰を大事にするかの区分けはあるし、誰に心を開くかも人によって違います。そういう意味では、あまり他の人と違いはありません。

でもなんか、なんというか。

本当に恋愛とはこんなんなのか?

誰にでも感じる感情の中から、人として誰と一緒にいられるかを吟味するようなものなのか?

なんかこう、もっと脳天に何かが突き刺さるような、心を揺さぶるような、そんな何かがあったりはしないのか? 誰か特別な人が自分に生まれて、その人だけを狂おしくなるまで愛したりするもんじゃないのか? そうでない自分は、どこかおかしいのではないか? みたいな、そんな気持ちがずっとあったわけです。

というわけで、いろいろ調べた結果、ポリアモリー的関係性を試してみようとしていました。

第一次ポリアモリー期:付き合った上で複数人を愛する

何をしたかというと、こんな感じ。

・彼氏とは「お互い浮気していい」という約束を交わす
・浮気相手には必ず彼氏がいることと他にも浮気相手がいることを明かす
・その上で了承してくれた人とだけ関係を持つ

まあ緩やかなポリアモリー的な感じでした。

結果は、破綻。
なんと関係者全体が精神的に大ダメージを負う展開に。
本当にごめんなさいとしか言えませんでした。

ここで気づいたこととしては、やっぱり人間、言ってることと思ってることって結構違うんだなってことでした。当たり前だけど。

彼らは「その約束を飲む」ことでしか、私に近づくことができなかった。そうなったら心の奥で何を思ってようとまあ飲むよね。結果的に私は自分に好意を持っている人を好き勝手利用してしまったわけだ。

でもそれは逆でも言えることのはずなんだよな。私は逆を強いられているんだよな。普段の私は「好きかもしれないと思える人といるために『他の人のことを愛さない』という約束を飲まざるを得ない状態」なわけで、それとこれとはどう違うんでしょうという気持ちはあります。

まあでも、とりあえず失敗に終わったことは確か。というわけで、次は何か条件を変える必要がありました。

第二次ポリアモリー期:付き合わずに複数人を愛する

第一次ポリアモリー期から何人かまた恋人ができて別れてした後のことでした。少し様子を見ていたんですが恋人が生えてきそうにはなかったので、せっかくだからとまた複数人とふらふらしてました。
変えた実験条件は「自分に恋人を作らない」というところ。

・恋人は作らない
・遊び相手には自分が遊んでいることを明かす
・好きだよ、とは言わない
・その上で了承してくれた人とだけ関係を持つ

まあ側から見たら遊び呆けてますね。

「恋人」と「浮気」みたいな関係性があるからダメなんじゃない? という友達の助言を受け入れたのと、確かに現状のモノガミーのための制度である「付き合う」をそのまま自分の関係性に持ち込むのはちょっと違うのかもしれないという気持ちがあり、恋人は作らない方針でふらふらしていました。

結果は、可もなく不可もない、やや失敗より。

やっぱり「恋人になりたい〜〜〜〜〜〜〜!!!」って向かってこられると違うな〜となってしまうし、それを了承して一緒にいてくれる人もいるけど、そのうち去っていく人もいる。この形でずっと安定的に一緒にいてくれる人はそんなに多くない。「恋人」という関係があって、それに向かうまでのワンステップでこういう何かがあるわけだから、みたいなことをみんなが思うわけなんですね。だから「恋人」に進展しなさそうだと見切りをつけたり、逆に何とか「恋人」に進めようとする。

みんな、やっぱり安心したいんだな、って思いました。どこか誰か、自分のことを絶対に愛してくれる人が欲しいんだな、と思いました。自分の番が欲しいんだな、と思いました。

誰かと付き合うということは、その他大勢とは今のようには会えなくなるということです。私にとってはそれがとてつもなく重たくて、どうにも落ち着かなくて。「私は他の全員を捨てても、この人と付き合えるか?」と考えると、どうしてもピンとはきませんでした。その割に自分の置かれた環境の不安定さに心が疼くような夜もあって、私は強欲だなあ、と思いました。

それでもやはり、その自分の強欲さと向き合って、どちらを選びますか?と言われたとき、私は「他の全員を捨ててでもこの人を受け入れたい」と思うことはできなかった。みんな大事だから。みんな大事で、みんなに会いたくて、だから自分からそのカードを切ることはできなかった。

多分、ポリアモリーとそうでない人の差って、このほんの少しの差分なんだろうなと思いました。51:49で、好きな人への思いや自分の安心を取るか、自由を取るか。もちろん90:10くらいで確信を持って誰かを好きになれる人もたくさんいるのだろうけど、同じくらいぐらついた末に誰かを好きになったことにしている人もたくさんいるんだろうなと思います。
私はそのギリギリの天秤で、自分の不安を押し殺して自由であることを取ろうとしていただけ。

そんな私に見切りをつけて去っていく人々を見ながら、ごめんね、と静かに思っていました。

51に、天秤が傾いたとき

まあそんな私にもここに至るまでにいろいろな感情が湧いたりすることはあり、付き合いたいと思う誰かがいたり、アプローチされて真剣に考えたこともあったりしたんですが。

その葛藤の中で、どうしても「ああ、この人にさよならは言えない」と思うことがありました。

さっきも触れましたが、私にとって、誰かと付き合うということは、誰かにさよならを言うことです。誰かに告白されたり、誰かにアタックされたり、誰かにアタックしたり、その度に「私はこの人に『もう会えないよ』と言えるだろうか」と思いました。

言えませんでした。悪夢に出てくるくらい。

他の人にももちろん言いたくないんですよ。さよならを言いたい相手なんていない。でも、もしこの人とさよならしなきゃいけなくなるとしたら、私はきっと毎日が本当に楽しくなくなるだろうな、と思いました。そして、さよならを告げた後のこの人の顔は、私は絶対に見られないな、と思いました。

そしてきっと、今の日々のままだと、すぐにさよならを迎えざるを得なくなるだろうな、と思いました。

そこまで考えて浮かんだのは、「ポリアモリーの敗北」という文字でした。

これは、「ポリアモリーの敗北」か?

私にも、できてしまった。さよならしたくない人が。
これが本当に好きなのかはわからないけど、あの鮮烈で脳天を揺さぶられるような「好き」なのかはわからないけど。でも、やっぱりこの人とはさよならしたくないな、って思える人ができてしまった。

これは「真実の愛に気がついた」という話なのか。

私が一人を好きになれないとぼやくたびに、人々は言いました。「まだ知らないだけだよ」「本当に好きな人がいないだけだよ」そう口々に言われて、私は辟易していました。違うのに。本当にみんなが好きで、それは私にどうすることもできないのに。

それともこれがそうだというのか。
これこそが運命で、本当に好きな人で、こういう恋を私は大切にしていかなければならないのか。
やはりポリアモリーは間違っているのか。

何てくっだらねえこと考えてるんだろうな、と思いました。

私は大事にしたいものを大事にするし、既存の枠組みがそれに適しているならそれを使うだけだ。中身はこれから決めていけばいい。

関係性に正解も終わりも勝ち負けもあるんだったら、きっとこの世はもっと楽なんでしょうね。でもそうじゃないから、だから結局その場その場で頭を捻って心に聞いて、一番大事なものを掴み取るしかないだけで。

確かに、ポリアモリーは私のアイデンティティでした。ポリアモリーである自分を守ろうとマジョリティに抗い、さまざまな言説を遠ざけて否定してきました。
でも私はポリアモリーでありたいからみんなを愛していたんじゃなくて、みんなを愛していたからポリアモリーであっただけ。一番大事なのは私という人間が大事にしたいものを大事にすることで、それがポリアモリーという形で守れるならそれを選ぶし、恋人という形で守れるなら、やっぱりそれを選びたいと思います。

同時に、「やっぱり本当に好きな人ができるんじゃん」と言われても、それは違うんですよね。
私には今、確かに大事にしたい人がいて、その人と一緒にいる時間は楽しくて、それを守れるための手段を講じたいと思っています。でも、いろいろな人にそれぞれ違う形の愛情を抱いている、その瞬間も本当で、偽物の好きではない、と思う。この世には本物の好きも偽物の好きもなくて、「どれくらい自分の人生を注ぎ込めるか」が人によって違うだけ。
私は確かにあなたにそんなに多くは注ぎ込めなかったけれど、それでもあなたのことをとても大事だと思っていて、一緒にいる時間をとても大事だと思っていた。そんな「あなた」が私にはたくさんいることを、私はやっぱり恥じたり否定したりしたくないなと思う。

それから、大事だと思っている人が、それだけ私にとって大事な存在でいてくれることも、ありがたいな、と思います。私が誰かを大事に思うということは、それだけその人が私を大事にしてくれていたということで、私が相手を大事にするのはある意味その恩返しというか。

そんなことを考えながら、この長い試行錯誤を今後も続けていきたいと思います。願わくば、私にとって大事な人たちが幸せでいてくれるように。


(2024/1/14追記)

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