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「駅前旅館」について

はじめに

前回、自己紹介を初投稿として挙げましたが、実際に自分の考えや好きなことについて書くのは最初であり、実質この記事が初投稿にあたると思い、何を取り上げようか一日悩みました。宮崎駿作品について書こうか、最近読んだ本について話そうか、考古学について書こうか、様々なアイデアが頭を駆け巡りましたが、最終的に私が好きな作品である『駅前旅館』について書いていこうと思います。 

『駅前旅館』概要

 駅前旅館と聞き、皆さんは一体何を思い浮かべるでしょう。ある一定以上の年齢の方だと昭和の時代、駅前に存在した旅館の姿が思い浮かぶでしょう。仮にそれを見たことない方でも、勘の良い方はこの文字だけで駅前に旅館があった状況を想像できるでしょう。

 今回私が取り上げるのは、そういった昭和の駅前に存在した旅館の番頭を描いた井伏鱒二原作の小説です。本作は所謂メディアミックス展開されており、1958年に森繫久彌を主演に映画化されています。そして、本作をきっかけに、その後にタイトルに「駅前」を冠し森繁主演で幾つもの映画が作られます。俗にこれら一連の作品を「駅前シリーズ」と呼び、人気を博しました。シリーズは2作目以降には喜劇路線を歩んでいきますが、本作は原作を意識した作風となっており、時折コメディ要素が入るものの、全体的には文学的な作品と感じます。

作品に出会ったきっかけ

 そもそも私が、本作品を知ったのは小説ではなく映画からでした。私は幼い頃からどういう訳か古いものが好きで幼稚園の頃は時代劇やドリフを見て育っていました。小学校のころには更に遡りクレージーキャッツを見るようになり、中学生の頃クレージーキャッツの映画を見るためにDVDを買い、その際一緒に駅前シリーズのDVDがついてきたので、それを見たところ森繫久彌の魅力にどっぷりと浸かってしまったのです。
 こうして、本作と出会ったわけです。原作である井伏鱒二の小説を読んだのは、それから少し後の高校生の頃ですが、その何とも言えぬ哀愁漂う空気感は小説・映画共に同質でありながら異なり、私を更に魅了しました。
 もし私が好きな小説や邦画を聞かれれば間違いなく本作を挙げるでしょう。

感想

 まず、私は小説・映画に共通した感想として、「哀愁」という言葉をキーワードとして掲げたい。原作と映画の間に多少の違いはあるものの、大まかなストーリーや空気感などは大きく共通しており、戦後の混乱期に時代や女性関係など周囲の環境に振り回される哀愁溢れる男の姿がそこには描かれている。昨今の映画は男女の色恋を扱う場合、アイドル出身の顔の整ったイケメンと若手の美人女優が主役を務める。そういった作品を批判するつもりは全くないが、私はむしろ三枚目な男や哀愁漂う男と表現が正しいかわからないが脂の乗った綺麗な御姐さんの色恋を見たい気持ちがある。そっちの方が空気にも味があると思ってしまう。どうも、最近の恋愛作品は無機質なように感じてしまう。もっとも私がズレているのかもしれない。だがそう思うのだ。

 続いて小説の感想を述べていきたい。まず、注目したいのは、主人公である。旅館の番頭である生野次平という人物が本作の主人公であるが、旅館の番頭を主人公に据えるのがまずもって面白い。
 旅館の番頭は当然一般大衆に属する人間である。しかし、独自の符丁があったり、色々な客を相手にする中で𠮷原での遊びなど様々な経験をし、大衆でありながらもマイノリティな存在と言える。そういった特殊な環境の人物を主人公に据えていることが、本作の魅力を生み出している一つの要因と思われる。また、井伏鱒二の作品が持つ特有の空気感とでも言おうか、そういった庶民・大衆の生活を描くとなんともリアリティがあり、読み手を包み込んでしまう。書き手の生み出す空気感が人間の奥にある過去、それは見たこともない情景かもしれないが、どこかに刻まれているもので、そういった懐かしさなどが、匂いによって記憶が呼び覚まされるように、湧いてくるのである。
 小説の方では、女中のジュコさんやお菊といった、他の女性との関係が映画よりも詳細に書かれている。そこには、番頭という仕事の身近に色事があったことを伺わせるのと同時に、生野次平という男がこういった色事に通じていることがわかる。しかし、通じているものの、毎度どこか上手くいかないのは次平の生来の不器用さを表しているように思う。

 映画について、空気感や哀愁などに関しては上記に記したことと変わりない。だが、生野次平という人物が持つ哀愁や助平さ、そういったものが森繫久彌と正しくマッチしており、小説の世界観を視覚的に楽しませてくれる。ここには、森繫の持ち前の雰囲気が働いているが、同時に彼が見せる自然としか思えない仕草などの高い演技力が、作品をより素晴らしいものにしている。そして、それを支える他の俳優陣もまたすばらしい。伴淳三郎演じる水瀬ホテルの番頭である高沢は伴の独特の訛りや胡散臭さが噛みあい、虚言的な性質をもつ人物である高沢がよりクリアに描かれている。また、辰巳屋の女将を演じた淡島千景が、ビジュアル的な綺麗さは勿論のこと、色気をもった女性であるのが良く表現されている。他にも個々に挙げればキリがないため、今回は割愛するが、いずれ語る機会があれば是非語りたいと思う。
 個別のシーンに関して、一つだけ言いたいのは、森繫演じる次平が辰巳屋にて女将に対して「四十男の侘しさよ」と呟くシーンは正しく周囲に翻弄される男の哀愁を如実に表現しており、私の最も好きなシーンである。
 最後に映画版の『駅前旅館』において重要なのはラストシーンである。小説では次平は色々な女にちょっかいを出すものの誰とも結ばれることは無い。しかし、映画のラストには辰巳屋の女将が追いかけてきて、二人で昇仙峡温泉に向かい映画は終わる。ここには、激動の時代に振り回され一度地に落ちた、次平が女将と結ばれ再び歩んでいくことと、戦後の日本の復興などが重ねられているのではないかと感じた。だからこそ、明るく未来に向かっていくようなエンディングなのではないだろうか

ここまで、私の文を読んでいただきありがとうございました。まだまだ、語りたいことはあるのですが、今回はここで終わりとさせて頂きます。
稚拙な文で見苦しい部分や内容に関して様々な意見があると思いますが、一感想として暖かい目で見て頂けたら幸いです。


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