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最高の恋人(1)『Love学入門』

※あらすじ
 実在する大学の講義科目をモデルに、出会うはずのない二人が運命の悪戯によって結ばれていく話。

 大学3年生の脇坂菜々子(わきさかななこ)が専門の必修科目に取らなければいけない『Love学入門』講座。
 教授から出された課題は、「一年間、誰かに恋文を書く」というもの。
 その課題を消化する為に、相手のいない菜々子は、たまたま観た映画の主役だった俳優高良淳(たからじゅん)を架空の恋人に見立てて恋文を書く。
しかし、その内容は実は自殺した幼なじみに書いたものだった。送られるはずのない手紙は、とんだ手違いから高良本人に送られてしまい……


本編

 朝、鏡の前に立つ。
 テーブルの上に置かれた箱から白い大きなマスクを取り出した。
 今日もすっぽりこのマスクが覆ってくれる。
 目から下を隠し、二重の大きな黒い瞳以外、ほとんど見えない。
 脇坂菜々子は自分の姿を確認すると小さなため息をついた。

 春、四月。
 数年前にコロナが流行って以来、多くの人がマスクを手放さない。
 しかし菜々子は一年中マスクをつけている。それは、コロナなんかが流行るずっと前から。
 そう、高校二年の秋から、脇坂菜々子(わきさかななこ)はマスクを外したことがない。鞄の中には、いつもマスクのストックがある。

  菜々子は、授業のテキストが入った濃紺のキャンパス地の布袋を肩からかけ部屋を出た。

 マンションの玄関で管理人と会う。
 「あら、おはよう。早いのね」
 笑顔で話しかけられる。
 おはようございます、と小さく答えた。
 「今から大学?」
 「はい」

 視線をなるべく合わさず避けるようにして側を通り過ぎた。
 駅までの道、あちこちの桜の木はすっかり花が散り、青々とした新芽を蓄えている。
 目に染みるような若芽が葉先を精一杯、光に向かって伸ばしている。
 ひんやりとした空気がマスクの隙間から頬を掠める。
 ラッシュ時のホームは人であふれかえっていて、今どきには珍しい名門女子校のセーラー服が目に眩しい。
 長身の菜々子ですら、顔と顔を突き合わせるように立たなくてはいけないほど車内は込み合っていて、新学期が一斉に始まった事を感じさせる朝。
 電車を下りると、大学までの路、多くの学生達の後ろをうつむきながら歩く。

 授業が始まったばかりだというのに、少し憂鬱だった。
 三年になって、専門分野で取らなければいけない『Love学入門』という講座。先週行われた初日の授業を思い出すたびに菜々子の心は重くなる。
   
 「おはよう」

 振り向くと友人の榊原ミナが小走りに追いついてきた。

 「ねぇ、クマタの宿題どうする? 一年、ラブレター、誰かに書けって言ってたけど、無理だよね。急に言われても出来ないよ」 
 「そうね」

 菜々子は小さい声で答えた。

 「相手がいる人は相手に書け、とか言ってたけど、そんなの今さら書けないって。こんな課題出されるなんて思ってもみなかったよ」
 いつも元気なミナらしく、人一倍大きな声で話す。
 その声を聞きながら、菜々子は、さらに心が沈み込むのだった。

 
 クマタとは、熊川太郎教授。
 働き盛りの五十五歳。ナイスミドルだ。
 学生時代、何かスポーツでもやっていたのだろうか。
 結構、上背があり体格も良い。さりげなくセンスのよいファッションに身を包んでいるところは、さすが看板教授の名に恥じない風体だ。
 三年前から始まった『Love学』という彼の講座は、テレビでも何度も取り上げられるほどの看板講座になっている。
 社会学部にいる菜々子は、専門分野の心理学に分類された講座を今年度からいくつか取らなければいけない。その中の一つに『Love学』があった。必修でなければ絶対に取っていないであろう科目だった。その課題として出されたのが「一年間、誰かに恋文を書く」というものだったのだ。
 
 講座はいつも一番大きな階段教室で行われる。満杯の学生達の前で彼は笑顔で言った。
 「一年間、恋愛について学問的な見地から実践に及ぶまで、一緒に勉強していこう。
 最近の人を見ていると、人との関わりあいを避ける傾向があるね。
 メールで簡単に用件だけ送りつけておしまい。これだと会話しなくて済むからね。いわゆるコミュニケーション能力の低下とかいわれるやつだ。
 そこで、それを一気に解消する方法に恋愛があるのを知っていますか?            恋愛するには恋愛力っていうものが必要なんだが……みんな恋愛してるかな? 今まで勉強ばっかりして異性とつきあうどころか、ろくに話もしたことないんじゃないの?」
 彼は腕組みしながら、さらに続けた。
 「で、僕、考えました。今年の学生には一年間、真剣にラブレター書いてもらいます。決まった人がいる人はその人に。相手がグッと来るような熱烈なやつね。
 相手がいない人は誰でもいいです。片思いの相手でもいいし架空の相手、初恋の人、好きだった先輩とか。
 ああ、僕にくれてもいいよ。一年のうちに関係を発展させてください。片思いなら、どう発展させるか妄想の世界だ。
 みんなのお手並み拝見といこう」
 「先生、好きなタレントとかでもいいんですか?」
 「おー、いいね。二次元のスターを三次元の自分の相手にどう下してくるか腕の見せどころだね」
 調子良く答える教授の顔を菜々子は思い出していた。
 当然、相手のいない菜々子も誰かに書かなくてはならない。
 こんなことになるなんて思ってもみなかった。

 「菜々子、相手どうするか決めたの? 確か来週から手紙の提出だよね」
 ミナから聞かれて菜々子は静かに首を横に振った。
 四月も半ばだというのに、今日は花冷えの頃のように寒い。
 歩くスピードもこころなしかいつもより早くなる。
 横須賀出身で都内に一人暮らしの菜々子にとって、ミナは高校時代から唯一、心を許せる友人だ。

 午前中の授業を終え、昼食を取るために学内にあるカフェテリアに直行した。
 「相変わらず混んでるよね」
 ミナがうんざりした顔で言う。予想にたがわず大混雑だ。空席を探すために彼女は隣で精一杯背伸びをしている。
 百七十を越える長身の菜々子が空席を見つければいいのだが、人ごみは大の苦手だ。視線が突き刺さるのを感じ、なるべく人と顔を合わさない。
 地味な色の服を着て、化粧もせず、肩まで長い髪を垂らして猫背気味にうつむいて歩く。
 一方のミナは、明るく茶色に染めた髪をゴテっと盛り上げ、ヒールを履いても百六十足らずだ。小柄で肉づきのいい身体に、豊満な胸を突き出して歩いている。フリルやリボンを多用した洋服を着て厚化粧した姿は、ロリータの代表選手みたいだ。
 長年、築地で魚屋と小料理屋を営んでいる家に育ったためか、男性のようにさばさばとした性格は、およそ外見とは似つかない。
 並んで歩くと対照的な二人だった。

 「菜々子が身長を生かして探してくれるのが一番なんだけどなぁ」
 そう言いながらも彼女は、中央の柱の影にやっと二個の空席を見つけてくれた。
 椅子に荷物を置き、定番のランチメニューの列へと並ぶ。
 定番のランチは、栄養士が秘策を練ったという人気メニューだ。
 一枚のプレートに彩りよく、カロリーや栄養を考えた食事が、毎日、献立を変えて安価で提供される。
 運動部の学生用食事、脳に良い食事、ダイエット食、体調を整える薬膳食、美しくなるための美容食の五種類があり、美味しく調理されていて、下宿生だけでなく自宅生の多くも、このランチを目当てに連日詰めかけている。
 学内には、他にもいくつかの食堂があるのだが、メニューも豊富で場所も広いカフェテリアは一番人気だった。

 最近、栄養過多気味なミナは、迷わずダイエットメニューのプレートを取り、ダイエットとおよそ無関係な菜々子は、薬膳がお気に入りだった。
 「でもさぁ、まさかいきなり恋文書けと言われるとは思わなかったよね」          

 ミナがまた授業のことを蒸し返していた。
 「手紙書く相手がいないんだもの、困ったわ」
 「そうね、それが問題だよね」
 ミナも少し顔をしかめて答えた。


 「君、男に興味ないの?」
 午後、Love学の二度目の授業が終わったあと、菜々子は熊川に「手紙を書く相手がいないので別の課題を貰えませんか」と話した。
 ホワイトボードに書いた文字を消していた熊川は、振り返ってマスク姿の菜々子を上から下まで確認するように見ながら、さらに続けた。
 「男に興味がないっていうより人間に興味がないのかな」
 熊川に指摘されて思わず視線を逸らす。
 「まあ、そう思いつめないで。誰でもいいんだよ。作家にでもなった気分で、気軽に空想相手にラブレター書けばいいよ、単位あげるから」
 彼は、少し菜々子の顔を覗き込むようにして笑みを浮かべた。
 「先生、ホントに提出さえすれば、単位くれるんですか?」
 隣りで会話を聞いていたミナが尋ねる。
 「ああ、あげるよ。一年、書き続けたならね」
 熊川は真面目な表情で答えた。

 教室を出るとミナがすかさず言う。
 「出せばいいんでしょ、取りあえず。何か書いて出しさえすれば単位くれるって言うんだから」
 作家になったつもりで架空の相手に恋文書けばいい、と言った熊川のことばを菜々子は思い出していた。
 「それにしても、『Love学』っていう思いきった名前の講座開くぐらいだから、もっと現代的な先生なのかと思ったけど違ってたよね。
 『恋愛は、片思いが原点。紫式部の光源氏を読んでごらん。身も焦がれるような恋文が次々出てくるから。昔はメールも携帯もなぁんにもない時代だからね。如何に自分の気持ちを和歌や手紙に託すか、その技量によってしか相手を射止めることが出来なかったんだ。現代の若者はちょっとその手法を見習ったほうがいいんじゃないか』だって。よく言うわ」
 彼女は呆れ顔をしながら続ける。
 「ありゃ、頭の中は明治か大正引きずってるね。
 『いーのちぃ、みじかし、恋せよおとめー、って歌にもあるでしょう』とか言ったときには、何のことだかさっぱりわかんなかったわよ。
 あれって確か昔のコマーシャルソングじゃなかった? 歯磨き粉かなんかの」
 「中山晋平の『ゴンドラの唄』って曲。黒澤明の映画で使われてたのよ」
 小さな声で答えた。
 「菜々子って、相変わらずそういうこと詳しいよね」
 ミナに言われて苦笑いした。
 「そうだ、菜々子、今から売店に行こうよ」
 「どうして」
 「観たい映画があるのよ。前売りチケット買って一緒に行かない? 今度の連休にでも」

 言い出したら聞かないミナに引っ張られるように売店に行き、映画のチラシがいくつも置いてある棚の前に立つ。
 「ほら、これ、知ってる? 話題の映画なのよ。恋愛ドラマとかよく書いてる人の最新作で、すっごくいいんだって。あちこちの雑誌にも紹介されてるから、一緒に観に行こうよ。
 そうだ、どうよ、この人なんか、手紙書く相手にいいんじゃない?」
 彼女は、一枚のチラシを手渡す。

 "死んだ恋人、夫、息子、
 愛する人達に書いた手紙を天国へ配達する若者に出会い、心惹かれていく主人公。
 彼は一体何者なのか。本当に死んだ人に手紙は届くのか……"

 チラシにはそんな文言が並ぶ。
 「ね、面白そうでしょ。一緒に観に行こう」
 菜々子の頭の中で不思議と映画の内容が何度もリピートしていた。


 数日後、ミナと出かけた渋谷の映画館は大混雑だった。
 午前中の部で出演者の舞台挨拶があったとかで、上映が終わって出てきた観客と、菜々子達のようにこれから映画を観る客とで、ロビーはごった返していた。
 「凄い人だね。菜々子、大丈夫?」
 「うん」

 そう答えながらも、実は眩暈がして今にも倒れそうな気分だった。
 それを何とか支えているのは、この映画をどうしても観てみたいという気持ちだけだった。
 チケットを買って帰った日、この映画に関する情報をできる限り検索してみた。
 作者はインタビューの中で、「七年の月日をかけて構想を練り、亡くなった母への思いを込めた」と答えている。

 ”亡くなった人へ届く手紙”

 誰もが大事な人への思いがある。
 その着想に惹かれた。
 主人公の若者を演じる俳優のことも話題になっていた。
 母を韓国人に持つ若手俳優で、アイドルグループのメンバーだった。
 最近ではソロ活動が多くなり、ドラマにも出たりしているが、この映画が初の主演作とあった。
 何とか人混みを抜け出して、ミナと二人、並んで映画を観た。
 天国の愛する人達に書く手紙。もう二度と会うことの叶わない相手に、自分の近況を書く人。
 生きている時に伝えられなかった思いを書く人。
 悔いてもどうにもならない過去を書くことで消化しようとする人。
 それらの人々の思いを載せた手紙を、若者はポストから取り出し、天国へと届ける。
 何もない草原の真ん中にポツンと立っている赤いポスト。
 緑の草原と赤いポストが印象的で、幻想的な中に現実のラブストーリーが展開されていた。話題の映画だという理由がわかるような気がした。
 「ね、彼に手紙書くとかどう?」
 映画の帰り道、ミナが唐突に言った。
 「菜々子の手紙の相手にどうかな。だって誰でもいいんでしょ、芸能人でも。誰か妄想の相手を作らないといけないんだったら、実在の人の方が書きやすくない? ファンレターみたいなもの、書けばいいんだし。とにかく書けば単位くれるっていうんだから」
 確かにそうだった。相手は誰でもいいのだ。

 高良淳(たからじゅん)

 この映画で初めて知った芸能人だった。
 この四年間というもの、芸能界はもちろんのこと、何に対して興味も関心もなかった。高校の頃は、ただ息をして生きているだけだった。
 あの人は死んでしまったのに、どうして自分は生きているんだろう。その思いにずっと囚われていた。
 マスクをつけ始めたのも人の視線が怖かったからだ。

 ”天国にいる人に手紙を届けてくれる配達人”

 本当に天国にいる人に手紙が届くといい。
 そんなことがあれば、少しは楽になれるかもしれないのに。

 「ね、書きなさいよ、この人に。どうせ届かないんだから、何書いてもいいじゃない」

 どうせ、届かない。
 そうか、それならこの俳優をあの人に見立てて書いてもいいのか。
 菜々子はミナのことばを聞きながら、そんなことを思っていた。


 『Love学』とは心理学の一種だ。
 恋する気持ちというものは人間独特のものである。
 もちろん、他の哺乳類は種の保存という本能的な要求によってカップルが誕生する。他の動物にも相性のようなものはあるが、恋愛感情は人間独特のものであるらしい。
 人間も古来は本能的趣向が勝っていたものだ。
 しかし、文明が発達し知能が発達するにつれ、豊かな感情が芽生えてくる。
 人間にとっては、種の保存という本能的な行為だけでない特別な感情を異性に持ち始めたのが、恋愛感情の始まりという説がある。
 『Love学』は、そのような人間独特の感情の秘密に迫っていき、諸君達の恋愛が成就できるように、学術的見地から学習を行うものである。
 進化論、生物学、経済学、社会学、政治学の各分野から学問追求を行いたい。
 また昨今は、女性の高学歴化で未婚率も高く、晩婚と少子化に歯止めが効かない。これは日本社会にとってもヒト(ホモ・サピエンス)にとっても危機的状況にある。
 これらを回避するために、「最高の恋人」とはどんなものか、またそれを見つける方法を伝授する。



 大学のシラバスには、熊川教授のプロフィールと共に講座の内容が説明されてある。
 昨夜、手紙を書き始める前に、もう一度読んでみた。
 もし、これが実在の人物に手紙を書くのなら、きっとここに書かれているように、最高の恋人を見つけることが出来るのかもしれない。
 でも菜々子にとってはありえなかった。
 高良淳を仮想相手に見立てて、本当は天国にいる彼に手紙を書く。
 彼はもう死んでいるのだ。でも、だからこそ手紙が書けるのかもしれない。
 手紙を一年書き続けたら、少しは自分の中の止まった時間が動き出すかもしれない。
 この四年、いつも彼の面影だけを求めて生きてきた。
 この大学に入ったのも彼が通っていたから。
 自分はあの時、一体、彼の何を見ていたのだろう。
 何も知らなかった。いや、知ろうとしなかっただけだ。
 あの時の自分を決して許すことは出来ない。


 今日は一通目の手紙を提出する日。
 「菜々子、書けたの? 手紙」
 ミナから尋ねられて、菜々子は小さく頷いた。
 「え、そうなの? それはよかった。それで結局、誰に書いたの?」
 「高良淳」
 「じゃあ、やっぱりあの俳優に書いたんだ。そのほうがいいよ。相手は芸能人だし、空想作りやすい。ファンレターみたいなもの、書けばいいよ」
 「うん、ミナは?」
 「あたし? あたしはやっぱり彼氏に書いといた。だって他に適当な相手もいないしさ。
 でも今さらラブレターなんて、何書けばいいんだろうと思って。
 それに手書きでしょ。
 便箋、揃えるところから始めないといけないし、めんどうくさいね」

 菜々子は、手紙を桜の便箋に書き、同じ柄の封筒に入れた。
 毎年、これだけは買い集めている。
 桜は彼が好きな花だった。

 「さ、みんな手紙を書けたかな」
 熊川が少し嬉しそうにしながら菜々子達に言った。
 「授業が終わったら各自、僕に提出して下さい」
 「先生、読むんですよね」
 男子学生が聞く。
 「そりゃ、もちろん読むよ。そうじゃないと成績がつけられないでしょう? 僕の胸に君たちの青春の熱い想いを注ぎ込んでもらいたいな。
 ははは、大丈夫、もちろん守秘義務は守りますよ」
 「えー!先生、そんなの聞いてません。提出さえしたら単位をくれるって仰ったじゃないですか」
 ミナがふくれ面して食ってかかった。
 「まあ、そう言わずに出してください。
 それから相手が実在しているのか全く架空の相手なのか。
 相手についての情報も簡単につけてね。
 俳優とかだと、僕はあまり知らないから教えてくれなきゃ」

 ざわついているクラスのみんなを尻目に、熊川はさっさと講義に入って行く。
 菜々子は、彼の略歴と先生への手紙を提出した。
 結局肝心の恋文は書けなかった。

 「そう言えば、高良淳ってかなり綺麗な顔してるだけでなく身長も高いしさ。
 それなのにちょっと影があって不思議な雰囲気だよね。
 やっぱり韓国人の血が混ざってるからかな。何歳だっけ」
 「二十五歳だって」
 「じゃあ、私達より四つ上なんだ。
 急に出てきたんだよね、ここ何年かの間に」
 「そうなの?」
 「そうよ、調べたんでしょ? 書いてなかった?」
 菜々子は高良淳の略歴を思い出していた。

 高良淳(たからじゅん) 
 二十五歳 
 KTプロダクション所属  
 愛称 たっちゃん、じゅん君
 アイドルグループ「昴」所属
 昨年、ソロ活動開始。
 現在、俳優としても活躍中。

 ウィキペディアの情報欄には確か、簡単にそう書かれていた。
 三年前にデビューをして、当初から人気は抜群だったと書かれていた。
 しかし、菜々子は、そのグループを全く知らなかった。四年前のあの日以来、世間の出来事に耳も目も閉ざすように生きてきたから。

 高良淳の画像を何枚も見た。
 端正でクールな顔立ちなのに瞳だけは優しそうに見えた。
 映画を観た時から感じていた、どこかあの人に似ていると。
 彫刻のような顔立ちも、大きな瞳も明らかに違うのに、映画の中の何気ない表情やしぐさに彼を思い出させるようなところがあった。

 彼のことばかり考えているから、そんなふうに思うのかもしれないと菜々子は思った。
 手紙を書くのに、教授に資料を添付しなければならなかった。
 高良淳の経歴は知ったばかりだ。
「でもいいよね、架空の相手でもあんなに美形だったら。書き甲斐もあるってものよ」
 ミナが羨ましそうに言う。

 そんなことはない。
 だって本当はあの人に書くんだから。

 菜々子は心の中でそう思っていた。


 ある日、大学の帰り道、ミナと別れて一人で表参道を歩いた。
 表参道は昔から大好きな場所だ。
 五月も半ばになると、すっかり春になった日差しが目に眩しい。
 雨あがりの欅並木の新緑を照らし、木漏れ日がキラキラと光るような午後だ。
 並木通りから一本中に入った道をまっすぐに歩く。
 もう何年も歩いていなかった道だ。
 あの頃はよく二人で、突き当たりを曲がったところの古いカフェに来ていた。
 手紙を書き始めてから、なぜだか無性に彼とのことが思い出され、記憶の断片が次々と蘇る。
 もう二度と思い返すこともないと思っていたのに、一つ思い出す度に次のページが開くようだった。
 当時、通いなれた道は、今も変わらない。
 この通りだけが、まるで時間の流れが止まったように感じるのは余りにも他の風景が変わってしまったからだろうか。

 突き当たりを曲がると、一本の樫の大木が目に入った。
 ああ、やっぱりここは何も変わっていない。

 こんな場所にこんなに広い敷地があるのだろうかと思うほどの前庭には、中央に大きな樫の木が立っている。
 青々とした芽を枝先まで蓄えて、時折吹いてくる風に葉先を揺らしている。
 大木が作る木陰には、いくつものテーブルと椅子がセットされており、午後のひと時を楽しむ人達を迎えている。

 菜々子は、その中の一つのテーブルに荷物を置き、座りながら大木を見つめた。
 よく彼とこうやって、見上げたっけ。

 店員が注文を取りに来た。
 「アールグレイのアイスティーとブルーベリータルトをお願いします」
 「かしこまりました」

 当時、いつもこの二つを注文していた。
 今でもメニューにあるのが懐かしい。

 風が菜々子の頬をそっと撫でていく。
 気持ちがいい。
 菜々子はマスクを外し、目を瞑って深く息を吸い込んでみた。
 思いきり外気に浸りたい気分だった。
 鼻先を澄みきった空気がかすめ取っていく。
 僅かにひんやりとした感触。
 雨あがりの匂い。
 眩しい光が閉じた目の中に入ってくるような明るい午後。 
 目を開けると日差しが大木の葉先の間からこぼれ落ちた。

 「おまたせしました」
 店員が目の前に皿とカップを置いていく。
 ブルーベリーの鮮やかな深紫が白い皿に強いコントラストを見せている。    フォークを手にとって、タルトをひと切れ、口に入れた。

 美味しい。

 懐かしい味が口の中に広がった。
 アールグレイのアイスティーも口に含んだ。
 あの頃の味が蘇る。

 変わっていないことがこんなにも満たされるのだと初めて知った。
 ここでは、あの頃に戻る事が出来る。
 あの頃の彼、
 あの頃の自分。
 彼はレモンタルトが好きだった。
 甘酸っぱいブルーベリーに比べて、レモンタルトはさっぱりした味だと言っていた。
 いつかレモンタルトを注文してみよう。
 
 タルトを食べ終わると、菜々子は鞄から桜の便箋を取り出した。
 もうすぐ二通目の手紙の提出日だ。
 一通目は高良淳の略歴だけを書いて提出していた。
 何度、書きはじめても、一言も続かなかったのだ。
 でもここなら恋文を書けそうだった。
 彼と二人でよく来た思い出の場所。 
        

 この場所があるかどうかもわからずにやってきた。
 こうやって座っているとまるで彼がやって来るかのような錯覚にとらわれる。
 ここは何も変わっていないのに、
 彼だけが居ない現実が心に重くのしかかる。

 伝えられなかった思い。

 彼を思いながら言葉を連ねてみた。

 好き
 恋してる
 あなたが好き
 あなたが大好き
 あなたに会いたい
 あなたのそばにいたい
 あなたの心に寄り添っていたい
 あなたの声が聞きたい
 あなたの笑顔が見たい
 あなたのことばかり考える
 いつもあなたしか考えていない
 あなたしか考えられない
 あなたが恋しい
 恋しい
 恋しい
 恋しい
 恋しい
 こいしい
 こいしい
 こいしい
 コイシイ……

 何度も書いてみた。
 
 漢字の「恋しい」
 ひらがなの「こいしい」
 そして、カタカナの「コイシイ」
 そのどれもが彼を思い起こさせる。

 あの頃、どうして思いを素直に告げなかったんだろう。
 勇気を持って一歩踏み出すことが出来ていたら、今頃、彼は自分のそばにいたかもしれない。
 ふと涙がこぼれた。
 天国に届く手紙。
 本当にそんなものがあったらいいのに。
 菜々子はそっと便箋を閉じた。

 



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