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最高の恋人⑷ソウル


 ホテルのカーテンの隙間から、柔らかい日差しが照りつけていた。
 高良淳は顔にかかる日差しの眩しさでベッドから飛び起きた。慌てて携帯に手をやり、半分まだ焦点の定まらない目をこらして時間を確かめる。
 「六時……、ああよかった、寝過ごしたかと思った」
 連日の撮影の疲れからか、昨夜はシャワーを浴びるなりバタンキューだった。この仕事に入ってから、撮影所には誰よりも早く行くようにしている。
 シャワーを浴び、睡眠不足気味の頭と身体にカツを入れる。筋トレで締まった身体に熱めのシャワーは心地よかった。
 今日の台本に軽く目を通しながらコーヒーをすすった。
 俳優業は体力勝負だ。特に韓国のドラマ撮影は日本のそれよりも過酷なことで有名だ。撮影も深夜までだったり、貫徹した上で早朝に撮影が行われたりする。
 ここのところ平均睡眠時間は二、三時間取れればいい方だった。昨日はまともにホテルのベッドで眠れただけマシだ。撮影が遅れているときは、撮影所に止めている移動用のワゴン車の中で寝たり、スタジオのすみで仮眠をすることもしばしばだった。
 久しぶりに疲れが取れた気がして、コーヒーの味を楽しみながら今日の撮影に心を馳せた。
 忙しい一日になりそうだ。
 撮影に行くのに最近はTシャツにジャージというラフな格好で行くようになっていた。ファンが贈ってくれたハローキティーのジャージの上下が今は定番の格好だ。男なのになぜかファンは、キティーグッズをよく贈ってくれる。
 一度、撮影中の写真が公開されたとき、キティーの手鏡を持ちながらメイク直しを受けていたからかもしれない。あの手鏡もファンが贈ってくれたものだった。
 あれ以来、なぜかキティーグッズがやたら送られてくる。
 ファンというものは有難くもあり面白くもある。

 身支度を手早く済ませ、迎えに来たスタッフの車に乗り込んだ。
 「アンニョハセヨ」
 「アンニョハシムニカ。高良さん、いつも早いですね」
 二ヶ月の滞在で韓国語のやり取りも何とか出来るようになった。
 母は韓国人だった。日本人の父と韓国で知り合い、結婚して日本にやってきた。
 母は母国語を教えてくれなかった。日本に同化しようと努力していた母はあえて母国語を使わなかった。
 韓国語を勉強しようと思ったのは、高校二年の秋に修学旅行で訪れた韓国で、ハングル文字を全く読むことも出来なければ何を話しているのかもわからなかったからだ。
 韓国人の母を持つのに、自分のもう一つのルーツである国のことも言葉も何も知らないということに違和感を覚えた。初めは苦労したが、母に韓国語を理解出来るようになりたいと話すと、会話の相手をしてくれるようになった。
 それからは、映画やドラマを極力、原語で観るようにして勉強を重ねた。簡単な会話では不自由しないだけの語学力は身につけたはずだった。
 しかし、現地に来るまでは、実際に自分の会話力がどの程度通用するものなのか、不安でたまらなかったのだった。
 自分が韓国語を話せるということを芸能界に入るまでメリットだと思ったことはなかった。四年前、韓流ブームの真っただ中にデビューしたこともあって韓国人を母に持つというだけで話題にもなった。 
 韓国へ来て二ヶ月になる。
 車外には郊外の景色が広がっている。
 韓国で実際に滞在するようになってわかったのは、明洞やソウル、江南といった都会であってもメイン通りから一歩路地を入ると景色は一変する。ましてやドラマの撮影場所のある水原(スウォン)付近は、大きなビルもなく、時折、高層のマンション群があるだけで、空き地や薄汚れた小さなビルや店が目立つ。
 大きな道路のバイパスを抜けると、さらに日本の地方都市に見えるさびれた景色が広がっていた。
 ホテルから、撮影場所の民族村までは、車で四十分ぐらいの距離だ。民俗村は、伝統文化テーマパークの中にあり、周辺には他に観光施設はない。車は、ゲートを通り、テーマパークの駐車場で停った。ここから、実際に撮影場所のある民族村までは歩いていく事になっている。
 開園前の閑散としたパークには、撮影に関係する人間の姿だけが見える。淳は、朝の日差しを浴びながら、テーマパークに流れている川べりを歩く。今日も暑い一日になりそうだ。
 撮影場所では、まずスタッフやメイクの人達に声をかけて回った。いつも自分がお世話になっている人達だ。こういう人達のおかげで自分の仕事は成り立っているんだと自覚する。
 ドラマの舞台は日本と韓国の二ヶ所だが、韓国が主体で冒頭にある日本の撮影は福岡で済ませていた。

 物語は在日韓国人の主人公が自分の祖先に生まれ変わるという話だ。朝鮮王朝が舞台になっている。
 韓国語が話せると言っても実際どの程度通用するのかは全くわからなかった。この二ヶ月、必死に勉強をしながら撮影について行った。最近になってやっと少し余裕が出てきたところだ。初めての海外出演、長期でもあり、特殊な環境の中、戸惑うことも多い。日本のドラマや映画には何度か出演していたが、韓国と日本では撮影の方法も進め方も全く違う。時代劇は、デビュー前、エキストラで出演したことがあるだけだ。
 時代劇といっても韓国の史劇は、日本で生まれ育った淳にとっては未知の世界だった。
 朝鮮王朝の武官の役だったため、決まった時から乗馬と武術の稽古に通った。朝鮮王朝の武官の役には乗馬と立ち回りが要求される。
 日本の時代劇すらまともに出たことのない自分に務まるのだろうかと思った。しかし実際に淳に出会った監督は、「さすがに韓国人の血が混じっているだけあって、韓服の似合う立派な武官になるだろう」と言って喜んだ。
 端正な顔立ちと百八十を超える身長は、韓国にいてもひけをとらなかった。さらに準備をする中で筋肉が鍛えられ、がっちりした体格になっていた。顔の肉付きが薄く目鼻立ちがはっきりしている容貌は、「まるで彫刻のよう」と言われたりもする。その為か、今までは「ハンサムなだけの人」という評価しか貰えないことも多かった。
 今回の役柄は、今までに経験したことのないほど本格的なもの。武官というハードな外観と生い立ちに影を持つ人物という二面性を持つため、人物像を深く掘り下げる必要があった。その上、所作や言葉づかいなど覚えることは山のようにある。
 撮影のある日には、誰よりも早く撮影所へ入るようにした。
 少しでも早く史劇の雰囲気にも慣れるためだ。
 また多くのベテラン俳優の演技を観ることは、とても勉強になった。特に自分の上司であり父親役でもあるチョン・ジフン氏の抑えた演技やせりふ回しは、自分の役作りの上でとても参考になっていた。
 「おはようございます」
 いつものようにスタッフや共演者に声をかけてから、隅にある椅子に腰掛けて撮影を見守った。
 「君は熱心だね」
 顔をあげると、ジフン氏がニコニコと笑っている。
 「自分の出番まで、あっちで休憩しないのか」
 「はい、皆さんの演技を観るととても勉強になります」
 「そうか、じゃあ、頑張りなさい」
 ジフン氏は韓国でも有名なベテラン俳優だ。本当の親子のように気さくに声をかけてくれる。撮影が始まった当初、慣れない外国の撮影に頑なになりがちだった淳の気持ちを上手く解きほぐしてくれたのも彼だった。
 暑さがだんだん厳しくなる中、陽射しもきつく、韓服を着て、かつらをつけて刀を振り回すのは大変な重労働だ。
 撮影に入るまでのひと月、毎朝、ジョギングをして体力をつけていて良かったと淳は思う。食欲も減退して、こちらへ来てから二キロも痩せてしまった。衣裳の中は汗だらけである。メイクも剥げやすく、しょっちゅうメイクさんが顔を直しにくる。まるで毎日が暑さとの我慢大会だった。

 撮影のスケジュールが遅れているのか、待ち時間が異様に長かった。
 今日は、武官として盗賊の首領と断崖絶壁で一騎打ちのシーンが待っている。昨日、リハーサルで初めて断崖に立った時は、さすがに足が震えた。
 監督から「下を見ないように」と言われて、なるべくうつむかないようにするのだが、どうしても恐怖心が先に立ってしまう。自然と視線が下へ行くのだ。高所恐怖症ではなくても、結構追い込まれた気分だ。
 今回のように殺陣が多い役では、危険な場面や立ち回りが激しいところにスタントマンを使うこともしばしばで、淳もスタントマンを使ってもいいと言われたが断った。せっかく貰った自分の役を、危険だからと言って他人任せにしたくなかった。そのために自分なりに武術や乗馬の稽古に励んで準備はしてきたつもりだ。慣れない漢服の裾さばきも難しかったし、立ち回りも激しく生傷も絶えなかったが、それでも自分で演じ抜こうと決めていた。特に刀を手許を見ずに鞘に納めるのが難しく、左手の親指と人差し指の間の皮膚を何度も傷つけ血だらけだった。
 
 今日の撮影は、夕方の日没寸前、夕日をバックにして撮ることになっていた。
 「淳さん、スタンバイ、お願いします」
 スタッフの声に、淳は気合を入れ直した。
 断崖のシーン撮りの前には、入念に何度も打ち合わせが行われた。
 相手役の韓国の俳優と殺陣合わせをする。ゆっくり実際に刃を合わせて、お互いの立つ位置を確かめる。
 僅かなミスが大きな怪我に繋がる。
 「ここで一回刃を合わせ、右にターンをして振り返りざまに合わせ、左に跳んで足蹴り一回、二回……」と具体的に口に出しながら実際にゆっくり動いてみる。
 「本番行きます」
 「カメラ、OK!」
 「シーン十八」

 相手の背中めがけて飛び蹴りをした。相手からの反撃を身体を反転させながら避ける。
 相手の刃先の切る空気が顔をよぎっていく。
 ピリッとした冷気が頬だけでなく身体全体を覆って、本番だという緊張感が辺りにみなぎる。
 走りながら何度か立ち合いをして、相手を追いかける。 
 「待て! もうどこにも逃げれないぞ!」
 「うるさい! お前なんかに捕まってたまるか!」
 刀の合う音が静寂の中に響き、岩場の上に立つ盗賊を蹴り倒して斬りつけた。
 日本の時代劇と違って、韓国の史劇は動きが派手で躍動感に溢れている。 足蹴りのシーンは必ずと言っていいほど入っていて、立ち回りを事前に決められた順にこなしながら、敵の首領を断崖絶壁へと追い詰めていく。
 夕日を背に相手が立つと、顔の表情は見えない。
 しかし、こちらも芝居とはいえ必死だ。
 頭の中で幾度となく繰り返してイメージしてきたとおりに身体を動かす。 決めた通りの順番で動く。何度か刀が合ったところで、相手の刀を高く払い、喉元に刀を突き付ける。
 昨日のリハーサルでは、上手く刀を払うことが出来なかった。
 あの後、繰り返し練習してコツは掴んだつもりだ。
 「観念しろ!」
 そう言って、相手の刀を高く払った。
 刀が高く上がるシーンをスタッフが別撮りしている。
 喉元に刀を突き付けるタイミングが合った。
 
 「ハイ、カット!」
 「お疲れさん、良かったよ」
 「ありがとうございました」
 「確認してみよう」
 監督のそばに行って、今、自分が出たシーンをモニター画面で確認する。きちんと動けているか、カメラアングルの納まりはいいか、表情や動きに不自然さはないか……
 もし、どこかに不備があったら、もう一度撮りなおしだ。
 すっかり日は暮れているから、そうなったらまた明日にでも撮りなおさないといけない。
 たくさんの人に迷惑をかける。そう思うと冷や汗とも動き回った汗ともわからない汗が背中を一気に流れ落ちた。
 「はい、大丈夫です。これでオーケーですよ」
 ディレクターの声にホッとする。
 緊張のせいか、シーンが終わった後は、ぐったり疲れていた。このあとも延々と撮影は続くことになっているというのに。

 深夜まで及んだ撮影を終えてホテルに戻ったのは、もう明け方近かった。
 部屋に戻りシャワーを浴びて、冷やしたビールを飲んだら、やっと緊張から解放された。
 また明日も撮影が待っている。
 鏡の前に缶ビールを持ったまま、バスタオルを腰に巻いて裸体で立ってみる。夏の強い日差しで、衣装に覆われていない顔と手先だけが日焼けしている。
 もともと色白な肌が日焼けしたところと対比されて益々白く見えた。
 二ヶ月の撮影とその前からの武術の訓練で胸筋と腕筋がやけに発達して、自分で言うのもなんだが逞しい身体つきになっていた。
 「うーん、淳、なかなかカッコいい男前だよな」そう自画自賛して思わず笑った。
 「明日も頑張ろう」
 ビールを飲みほしベッドに入ったら、疲れからか深い眠りに落ちた。

 
 撮影の中盤になると台本の出来上がりに遅れが出始めた。
 韓国のドラマは日本と違って、クランクインしたときに最後まで台本が出来ていないことが多い。最後どころか、今日、撮影する予定の台本が、今朝出来上がってくるということも珍しくない。
 今回のドラマも往々にしてそういうことの連続だ。
 週の前半には全く台本が出来ていないから、出演者達はただ台本の出来上がりを待つだけの状態になる。
 韓国では、週に二度の放送が普通のサイクルで、例えば、月火、水木、金土というように連続した放送日が設定されている。その為、撮影は二回分続けて行われる。
 台本が遅れている今回のドラマでは、金曜の台本の出来上がりが木曜日にずれ込むことが多かった。
 木曜日に金曜日の放送分を撮影し、金曜日の朝に出来上がってきた土曜日の台本を当日の早朝まで撮影して、夜に放送するといった綱渡りの状況が続いていた。
 昨日の放送分の撮影が終わったところで、今日、明日と何もない状態だった。台本の出来上がりを待つためにオフになったのだ。
 久しぶりに明洞にでも出かけようかと思った。
 こっちへ来てから、撮影や現場に慣れることに必死で観光も買い物も何一つ出来ていない。
 シャワーを浴び、濡れた身体にバスローブを引っ掛け、洋服を選ぼうとしていたら、部屋のインターフォンが鳴った。
 「淳、開けて」
 声に聞き覚えがあった。思わずドアを開けると、その途端、懐かしい薔薇の香りがして、唇を塞がれ強い力で抱きしめられた。
 「ちょ、ちょっと」
 「会いたかった」
 恋人の花崎瑠依だった。
 彼女は淳の首に両手を巻き付かせながら、ちょっと拗ねた顔をして見上げていた。
 「いつ来たんだ?」
 「今朝。昨日、あなたが明日、明後日、撮影がないって言ったでしょ? 私もちょうどオフだったの。だから飛行機に飛び乗ってきちゃった」
 「俺がいなかったら、どうするつもりだったんだよ」
 「そんなことない。淳はきっと疲れてるからホテルで寝てると思ってたわよ。
 どこかに出かけるの?」
 瑠依はちょっと小首をかしげるようにして尋ねた。
 「街でもブラブラしてこようかと思ってさ、
 でもその前にちょっと味見」
 淳は彼女を抱き寄せ、深くキスをして、そのままベッドに倒れ込んだ。

 瑠依は三歳の時、NHKの朝の連ドラの主役の子役としてデビューした。天才子役と言われ数々のドラマや映画に出演。芸能歴は二十年以上になる。子役は身体の成長と共にそのイメージが失われやすく、女優や俳優に上手く転向していくのは難しいと言われるが、彼女は十代の前半を学業に専念するという理由で極度に露出を制限した。十代の後半になって身体の成長が止まってからは清純派女優として再デビューという形で映画に復帰。有名監督との共演をして数々の賞を総なめにし、若手女優としての地位を確固たるものにしている。
 去年、テレビドラマで淳と恋人役で共演してから、密かに交際を始めた。
 気位の高いことで有名で、淳は、最初、彼女から相手にもされなかった。     「どうしてアイドル上がりの新人と組まなきゃいけないのよ」とまで言われたが、撮影に入ると彼女は見事に恋人役を演じきった。
 極寒の冬山で遭難するというシーンのロケ中、本当に吹雪が酷くなり、二人だけ山小屋に取り残されてしまった。
 結局、一晩、山小屋で二人きりで過ごし、それがきっかけで交際が始まったのだった。
 今では、淳の方が完全に彼女をリードする立場に逆転している。

 「ねぇ、撮影って、あとどれぐらいかかるの」
 裸体にシーツを絡めさせながら、ベッドヘッドにもたれて座っている淳の横で彼女は寝転んだまま尋ねた。
 「まだまだかかるよ。たぶん、九月いっぱいかな。今、放送の延長が検討されてる」
 「え、延びるの?」
 「韓国ではよくある話だよ。延びても二週間ぐらいだと思うけどね」
 「いやだわ、私、九月の末から映画の撮影で缶詰めになるのよ。また会えない」
 瑠依は淳の左手の人差し指を自分の口に持っていき、舐めながら甘えるように言った。
 「そっか、仕事決まったのか。『白夜行』だったっけ?」
 「ええ。その小説読んだ?」
 「うん、読んだよ。よかった。あの主人公の雪穂って役、瑠依にピッタリだよ」
 「そうでしょ、私も気に入ってるの。やりがいある」
 「相手役は誰?」
 「淳と同じ事務所の仙道宗太。ねぇ、ちょっと妬ける?」
 「ばーか」
 淳は瑠依のおでこをコツンとこぶしで軽く叩いてキスをした。
 「シャワー浴びて、ごはん食べに出かけよう」


  明洞の繁華街を誰に見咎められることなく堂々と瑠依の腰に手を回しながら歩いた。
 スキンシップが欧米並みの韓国では、街中で平気で抱き合うしキスもしている。そんな開放感が二人を包み込んでいた。
 明洞のメイン通りの奧にある高級焼肉店で昼食をし、アイドルがオーナーだというカフェに行って二人でお茶をした。
 韓国に来たばかりの頃、スタッフに連れて来てもらった店だ。
 日本にいればひと目を気にして普通の恋人同士のように一緒にお茶をしたり食事をすることもできない。
 
 瑠依は、一泊して次の日の朝早くに日本に戻った。
 次に会えるのはいつになるかわからない。
 お互いのスケジュールの都合で何ヶ月も会えないかもしれない。
 芸能人同士の恋愛はすれ違いが前提だ。
 「浮気したら許さないわよ」
 「そっちこそ」
 別れ際にキスをして、瑠依は部屋を出ていった。
 一歩廊下に出た瑠依の後ろ姿は、もう女優のそれになりきっていた。

 韓国内でドラマの放送が始まると、話題性もあって久しぶりに高視聴率のスタートだった。
 テレビ局関係者も監督も気分をよくしていた。
 日本のTV会社にも高く放映権が売れたらしい。
 韓国の武官の役を演じている淳には、日韓双方のメディアからいくつもインタビューが申し込まれた。
 制作発表会では、日本のマスコミも参加していた。それだけこのドラマの話題性が大きいという事を感じた。
 日本でまだ放送されていないにも関わらず、ネットユーザー達はドラマをパソコンから熱心に観ているのだった。
 番組のホームページには日韓ファンから、たくさんのコメントが書き込まれ、それを読むたびに淳は、一層頑張ろうという気持ちになるのだった。
また、韓服の似合う淳には、「花武官」というニックネームまでついた。

 今回のドラマでは、妾の子テギョンという複雑な人物像を演じることが求められた。
 父親の愛情を求めてやまない彼は、悪事に手を染めていく父親の側でやがて彼自身も悪事に加担することになっていく。彼自身の正義感と父親への思慕の情との葛藤を演じなければならなかった。
 通訳のスタッフにセリフの一つ一つを確かめながら、テギョンの心情を理解するようにした。
 今まではどんなに役に集中しても、心のどこかに高良淳という自分が存在していた。しかし、今回は、自分が高良淳だということを忘れた。
 韓国語のセリフが自分をテギョンという全く別の人物に作り上げていくのがわかった。

 ドラマの最後のシーン。
 陰謀が露見し追い込まれた父が、ピストルで自殺をして彼の腕の中で死んでいく場面の撮影になった。
 台本を貰った時から、セリフを読むだけで彼の気持ちが痛いほど伝わってきた。
 どんなに蔑まれ、疎まれて、悪事に加担させられそうになっても、テギョンは父親の愛情を求めていた。
 父を悪事から救いたくて、結果的に裏切ることになっていく彼の気持ちを思うとリハーサルの時から涙が出て、監督に「まだ早い」と何度も言われた。

 「本番行きます」

 撮影が始まった。
 自殺を図った父の身体を抱きとめ、「アボジ、アボジ」と泣き続けるシーンでは、感情の波がとめどなく押し寄せ涙が止まらなくなった。涙なのか鼻水なのかわからないものが、口の中に流れ込み、何度も咳き込んだ。咳き込みながらも父の亡骸を抱きしめて泣き続けた。

 「はい、カーット」
 監督の声が響き、暗い部屋の中に一斉に照明が点いた。
 そう言われても、しばらくその場を立ち上がることが出来なかった。涙が溢れて泣き続けた。

 
 今日は、クランクアップの日。
 淳は、スタッフや共演者から大きな花束を貰い、拍手で撮影の無事終了をみんなで祝いあった。
 最後に、出演者達全員が、一言ずつお礼のコメントを話すのに、淳は通訳をして貰いながら、日本語で話した。
 「準備も入れて五ヶ月もの長い間、本当にお世話になりました。
 無事に撮影を終えることが出来たのも、監督やスタッフ、共演者の皆さんのおかげです。
 拙い韓国語で迷惑をおかけしましたが、僕自身はとても貴重な経験をさせていただきました。先輩の俳優の方達の演技から、たくさんのことも学びました。本当にありがとうございました。
 また韓国で一緒に仕事をしましょう。
 カムサハムニダ」

 最後に韓国語で挨拶をし、共演者と抱擁して別れた。
 五ヶ月あまりの撮影を終えて日本に戻ったのは、東京に秋めいた風が吹き始めた九月最後の日だった。


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