自分の人生に満足していない人は、いつも誰かになりたいと思っている。 自分の周囲にいる友人を羨んだり、 たまたま知ったSNSで見かけた人を羨んだり、 いつも誰かになりたいと思っている。 私もそんな時期があった。 誰かを羨んだり、誰かになりたいと思ったり… 40代以降は、いつも何かを探していた。 音楽の仕事に情熱が持てなかった。 自分が歌うことは好きだったけれど ピアノを教えるという仕事は好きじゃなかった。 それでも他の仕事をするよりは… パートに出るよりは…
私は今、J-POPの音楽評論家をして、日本のアーティストの歌についての評論を書いている。 しかし、ほんの5年前までは、ある歌手のファンの1人に過ぎなかった。 そう、私は、推し活からJ-POPの音楽評論家になったのだ。 こんな話をすると、大抵の人が聞く。 「久道さんは、一体、誰のファンなんですか?」 それで私は答える。 「元東方神起のジェジュンさんです」 そう、私は韓国人歌手ジェジュンのファンなのだ。 私が彼の存在を知ったのは今から13年前の2010年初
祖母宅から手紙が転送されてきたのは、それから十日ほど経った頃だった。 「菜々子宛にエアメイルが来ていたからそっちに送ります」 祖母の添え書きと共に送られてきた封書の差出人の名前は、高良淳だった。 菜々子は、不審な気持ちで手紙を開いた。 高樹優子様 いや、菜々子ちゃんと書いたほうがいいよね。 今、僕は、韓国にいます。日韓共同制作の映画に出演するために。 君は、なぜ、僕が君にこうやって手紙を送っているかわかる? あの日、あのカフェで君に出会ったのは全くの偶然だっ
ドラマ撮影の最後のシーンは、三月の始めの休暇中の校舎を使って行われた。実際に、Love学の授業を学生達が受けているシーンで、教授と希望者を集めて特別授業という形で行われた。 淳はあれから何度か行われた学内での撮影中も彼女の姿を捜して続けていた。 けれども多くの学生達がいる中で見つけることは出来なかった。 「脇坂菜々子です」 教授の部屋で出会った女性はそう名乗った。 四年の歳月は、彼女を見違えるぐらいの女性に変えていた。 制服を着ていた頃の面影はどこにもない。自
目の前に鬱蒼とした樹木が立ち並んでいた。ムッとするような湿り気のある外気が鼻につく。 実際の樹海は、自分の想像していたものとは全く違っていて、ところどころ、ポンと開けた空間があり、そこを抜けるとまた樹林が続いている。 昼間でも太陽の光は樹木に遮られて、燦々とは届かない。 いったい、今何時ごろなのか… 電池も切れてしまった携帯の画面は黒いままだ。 もう何日も歩き続けて、何も食べていないのに死ぬことさえ出来ない。 このまま歩き疲れて倒れてしまえば死ぬことが出来る
「今日、撮影が終わったら、ちょっと話をしないか」 淳は、瑠依にメールを送った。 今夜、決着をつけるつもりだった。 中盤にさしかかったドラマの撮影は、これから、益々彼女と絡むシーンが予定されていた。 心の中にわだかまりを持って仕事をしたくなかった。 「話すなら早い方がいい」 教授にもそうアドバイスされていた。 「いいわよ、食事しながらゆっくり話しましょう」 瑠依からの返事は、どこか呑気なものだった。 彼女の撮影が終わるのを店で待つことにした。 今夜はある意
一冊の週刊誌がある。朝、コンビニへ行った時、買ってきたものだった。 『花崎瑠依、熱愛発覚。お相手はドラマの共演者』 週刊誌の表紙にはデカデカと大きな文字が踊っている。見開きには二枚の白黒写真が掲載され、一枚は、ひと組みの男女が抱き合って路上でキスをしている。もう一枚は、二人がお互いに腰に手を回しマンションへと入る後ろ姿が映し出されている。紛れも無く瑠依のマンションだ。写真には見出しがついていて、『ドラマの熱をそのまま持ち込んだ熱い夜』となっていた。 女優の花崎瑠依が放
韓国から帰国した次の日、淳は五ヶ月ぶりに事務所に行った。 「おはようございます」 声をかけるとスタッフが一斉に顔を向けた。 お帰りなさい、と口々に言われ、ドラマの成功と長期海外ロケの滞在を労われた。 一通り挨拶を済ませ、社長室のドアをノックした。 「高良です」と言って、ドアを開けた。 社長の松倉が笑顔で答えた。 「ああ、お帰り。ご苦労さん、長いロケで大変だっただろう」 「はい、でも楽しかったです」 「そうか、それはよかった。まあ、掛けなさい」 椅子を勧めら
今日から後期の授業が始まる。 朝、ロールアップしたジーパンに足を通す。買ったばかりの白いシャツの裾をジーンズの上に出し、グリーンのニットセーターをボコッと羽織った。 鏡にいつもの素顔の自分が映っていた。 先日、コスメサロンで教えてもらった方法を思い出しながら、化粧水、乳液、下地クリーム、ファンデーションにコンシーラーと、教えられたとおりの手順で顔に載せていく。 ラメ入りのピンクのシャドーをまぶたに塗り、同じくラメの入ったパープルのシャドーを目尻に入れる。 「お客様
ホテルのカーテンの隙間から、柔らかい日差しが照りつけていた。 高良淳は顔にかかる日差しの眩しさでベッドから飛び起きた。慌てて携帯に手をやり、半分まだ焦点の定まらない目をこらして時間を確かめる。 「六時……、ああよかった、寝過ごしたかと思った」 連日の撮影の疲れからか、昨夜はシャワーを浴びるなりバタンキューだった。この仕事に入ってから、撮影所には誰よりも早く行くようにしている。 シャワーを浴び、睡眠不足気味の頭と身体にカツを入れる。筋トレで締まった身体に熱めのシャワ
天国にいる達也に向かって手紙を書くようになって、菜々子は、心の中に溶けることなくあった氷の塊のような感情が僅かに動き始めるのを感じていた。 あの頃、勇気があれば伝えることのできた思いを彼に向かって手紙に書く。いつしか彼と高良淳という人の面影が重なっていく。 仮想の達也に見立てているせいか、あちこちの画像に映る高良淳の姿形は全く違うのに、なぜか懐かしかった。 今日もミナと別れて、お気に入りのカフェに来た。 この場所にいるときだけが心が落ち着く。 「お待たせしました
「菜々子、ちょっと玄関に来てごらん」 祖母が書庫の扉を開けて菜々子を呼ぶ。 菜々子は読みかけの本を閉じ、祖母の後ろをついて長い廊下を歩く。 昭和の初期に建てられたという父の実家は、神戸の御影にある高級住宅地の一角にある。手入れが行き届いていて、建物の突き当たりに書庫が建て増しされている。廊下には、真夏の厳しい暑さを忘れたかのように、ひんやりとした空気が漂う。 高い天井の玄関ホールに着くと、一人の少年が立っていた。 「菜々子、隣りの家に住んでいる達也君だよ。 小学
※あらすじ 実在する大学の講義科目をモデルに、出会うはずのない二人が運命の悪戯によって結ばれていく話。 大学3年生の脇坂菜々子(わきさかななこ)が専門の必修科目に取らなければいけない『Love学入門』講座。 教授から出された課題は、「一年間、誰かに恋文を書く」というもの。 その課題を消化する為に、相手のいない菜々子は、たまたま観た映画の主役だった俳優高良淳(たからじゅん)を架空の恋人に見立てて恋文を書く。 しかし、その内容は実は自殺した幼なじみに書いたものだった。送