最高の恋人（8）決意

　「今日、撮影が終わったら、ちょっと話をしないか」
　淳は、瑠依にメールを送った。
　今夜、決着をつけるつもりだった。
　中盤にさしかかったドラマの撮影は、これから、益々彼女と絡むシーンが予定されていた。
　心の中にわだかまりを持って仕事をしたくなかった。
　「話すなら早い方がいい」
　教授にもそうアドバイスされていた。
　「いいわよ、食事しながらゆっくり話しましょう」
　瑠依からの返事は、どこか呑気なものだった。
　彼女の撮影が終わるのを店で待つことにした。
　今夜はある意味、修羅場になるかもしれない。
　店に着いて、馴染みのマスターに「瑠依が荒れるかもしれないから、その時は頼む」と話した。
　「瑠依ちゃん、酒癖悪いからなぁ。様子見ながら、お酒は出しますよ」
　「ごめん、頼むよ」
　「わかりました」
　しばらくすると瑠依の声がして、個室の扉が開いた。
　「ごめん、待たせちゃった」
　パッと大輪の花が咲いたように部屋が一気に明るくなった。
　何を着てもどんな格好をしていても彼女の周りには華やかさがあった。そういう存在感のある女優だった。
　「どうしたの、何かついてる？」
　黙って彼女の様子を見ていた淳に彼女はそう言った。
　「いや、なんでもない。お疲れさん。撮影はうまくいった？」
　「ええ、バッチリよ」
　「それはよかった」

　ウエイターがワインを大きなデカンタに入れ、氷で冷やしながら持ってきた。暖房の効いた部屋で飲む冷えたワインは格別の味がした。
　「ああ、美味しい。もうお腹ペコペコ」
　「注文しといたから、次々料理も来るよ」
　瑠依の好きなものばかり、前菜からメインディッシュまでマスターに注文済みだった。
　「そういうとこ、相変わらず気が効くわね。だから淳がいいのよ。やっぱり淳だと安心する」
　その言葉を聞きながら、話は食事を済ませてからにしよう、と思った。
　それから二人で、撮影のことやスタッフ、共演者の事など、とりとめのない話をしながら食事をした。
　デザートのチーズスフレとエスプレッソが二人の前に並べられていた。
　「ああ、美味しかった。もうお腹いっぱいよ」
　瑠依は満足気な顔を見せた。
　「で、話って、なあに」
　「君こそ、俺に話があるんじゃないのか」
　「ああ、それね。やっぱり私は淳じゃないとダメなのよ。他の人とつきあってみてわかった。だから元の関係に戻してよ」
　瑠依はそう言いながら、スフレにスプーンを差し込み、口へと持っていった。
　「その話だけど」
　淳は、言いづらかった。でも熊川の「ハッキリ自分の考えを冷静に伝えないとダメ」ということばが甦った。
　「ごめん、俺はやっぱり元の関係には戻れない」
　瑠依は、スプーンを持ったまま、淳の顔を見ていた。
　「俺さ、今度のことでハッキリわかったんだよ。君と俺とは余りにも違うって。君が大切なものは、プライドだったりお金だったり、人気だったり……でも俺は違うんだ、君がいらないと思うことは全て俺には必要なことなんだよ」
　「誰か好きな人でもいるの？」
　「え」
　「だってあなたと私が違うことぐらい、最初からわかってたじゃない。わかっててつきあってた。それでも上手くいってたでしょ。それを今さら違うから別れようっていうのは、新しく誰か好きな人が出来たからじゃないの」
　「そうじゃない。ただ、君と僕は、余りにも価値観が違いすぎている。それがわかっただけだ」
　「違っても私はいいの。違うのが心地いいんだから」
　「瑠依はよくても俺はよくない。違いが正直、疲れるんだよ。今から思えば、花崎瑠依という女優が俺の事を好きだと言ったことに舞い上がっていたのかもしれない。君を一人の女性として見ていたのではなく、女優花崎瑠依としてしかどうしても見ることができなかった。
　でも今回のことで、君を一人の女性として見ると、やっぱり俺は君には相応しくないと思うんだ」
　「いいの、相応しいか、相応しくないかは私が決める」
　「凄いな、俺には決定権はないのか」
　「そうね」
　「それで？」
　「え」
　「それで気に入らないことがあったら、また浮気するのか。浮気して飽きたら、俺のところに戻ってくるのか」
　「そんなこと、言ってないじゃない」
　「瑠依、君にはもっと心の広い大人の男性が相応しい。
　俺は、正直、君の浮気なのか本気なのか、そういう関係を他の男性と持ったことを許せない。所詮、君とは違う世界に生きているのかもしれない」
　「私を振るの？」
　瑠依が少し声を荒げて言った。
　「振るとかそういうんじゃなくて、きちんと納得しあって別れよう。
　同じ業界でこれからも生きていくんだ。感情的なしこりを残したくない。今回の仕事だって、これからもっと絡みの場面が増えるだろ」
　「私を誰だと思ってるの？　
　仕事とプライベートな感情とを分けれなかったら、三歳からこの世界で生きてなんかいけないわよ」

　淳のことばに既に感情的になっている瑠依にこれ以上、どう言えばいいのかわからなかった。
　淳は、彼女から視線を外した。
　窓の外から月明かりが差し込んでいた。
　ふと小さなため息が出た。
　静かな空間が二人の間に横たわっていた。
　
　しばらくして、瑠依が口を開いた。
　「ああ、もう、そんなに私が嫌なのね。わかったわよ、別れてあげる。
　もう追いかけたりしないから安心しなさい。
　振られる前にこっちから捨てるの。
　未練タラタラなのは私の方だった。
　ここまで拒否されて、これ以上、すがったら自分が惨めになるわ。
　でも撮影中は、優しい恋人役しなさいよ、あなたもプロなんだから」
　瑠依は大きなため息と共に一気に捲し立てた。
　「もちろんだよ。君が惚れ直すぐらいの演技してやる」
　「じゃあ、別れてあげる。
　その代わり、今夜は付き合いなさい。とことん、飲むんだから」

　瑠依は呼び鈴を鳴らした。
　しばらくしてマスターがやってきた。
　「マスター、今夜はね、淳が私の介抱をしてくれるっていうから、とことん酔いつぶれるまで飲むことにしたわ。
　明日は撮影もないし。マスターもつきあって」
　淳はマスターに両手で拝むようにしてみせた。
　マスターは、淳に笑顔で目配せをした。
　「わかりました。では店をクローズにしておつきあいさせていただきます。
　花崎様、手始めに何からお持ちしましょうか？」
　「わかんない、任せるから、適当にじゃんじゃん持ってきて」
　彼は、少し笑いながら、任せといてください、と答えて、部屋を出ていった。