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私の行先 2021/8/12

私の祖父は奄美大島出身で、太平洋戦争従軍後にシベリアに捕虜として抑留され二十代後半に日本へ帰ってきました。

日本へ帰ってきてから地元の奄美大島で教師として数年教壇に立ち、その後寺院で生まれ育った祖母と縁談があり、私が今住む大阪の寺院で僧侶として60年以上の年月を生きました。

祖父が他界したのが5年前であり、私がまだ二十代半ばの頃で、私の人間としての目標でもあった祖父はこの世を去ったことは私にとって非常に辛いことでした。

私の実家、祖父が住職を勤めていた寺院は京都の東寺の末寺で、東寺真言宗という宗派であり、私も真言宗としてのおしえをたくさん学びました。真言宗、ひいては空海のおしえといってもいいでしょう。

空海の信仰は一般的に弘法信仰と言われており、日本だけでなくアジアの中にもお大師さんを信仰する人は多くいます。

信仰の話はさておき、そんな祖父が夢として目指していたものが「作家」でした。これは私が今目指しているものでもあります。いまだに花咲くことがなく作家のたまごとして日々新人賞の原稿を書く私ですが、十数年以上の間、一度も諦めず作家を目指し続けて来れたのも人としての師であった祖父から教えられてきたからだと、祖父が亡くなってから気づきました。

祖父は生前、私がまだ小学生の頃からよく言っていたことがあります。それは今でも私の心に深く残っており、その言葉を今も尚、そしてこれからも持ち続けて生きていくでしょう。

"多くの人と出会い、多くの人から学び、立ち止まりながらも振り向かずに歩みなさい。この世に受けた生は一度、自分の決めた行先に向かってひたすら歩きなさい。たとえ目的の場所に辿り着けず途上で人生を終えたとしても、決めた行先を歩み続けた人生は自身にとって悔いのないものになるから。”

私は祖父の言葉を生涯忘れることはないでしょう。誰よりも優しく、厳しく、いつも気にかけてくれた祖父の想いを私は今後も心に留め、私は今も歩み続けています。

そんな私は昔から心に病を抱えていました。大人になってから初めてその理由に気づきました。ADD /ASD(一部)という診断が確定した時は、「ああ、やっぱりそうだったんだ」と思いました。

特別友達がいないこともなく、集団生活で孤立することもありませんでしたが、生き辛さというのは高校生の頃から感じていました。しかし、私は自分の気持ちを正直に言うことが苦手だったので、自分の気持ちを押し殺して周りに合わせ生きてきました。

結果的にそれが自分の精神を崩壊させる結果になり、祖父の死も合わさって25歳の年、私は起き上がることすらできなくなるほど精神を壊してしまいました。

パニック障害、自律神経失調症、摂食障害など多数の精神疾患が私を襲い、私は自分の行先、目標、夢に向かって歩むことができなくなってしまった時期がありました。

二十五の当時、あまりしっかり憶えていないのですが、端的に言ってしまうと肉体から魂が抜けた人形のような状態だったとうっすら記憶しています。家族には多くの苦労をかけてしまいました。

当時、いえ、今もなお闘病を続けそれをサポートし続けている家族、特に母には本当に感謝しかありません。また、私の病気を知りながらも側にいて支え続けてくれている今の愛方にもいつか恩を返したいと思い続けています。

今現在、私は薬の治療と医師からの指導で徐々に、少しずつではありますが良くなってきていて、食べる以外の普通の日常生活を送れるようになりました。

ただやはり社会復帰はまだまだ難しく、今は執筆活動、そしてネット上に文章を書くということ、また祖父から長年教えられてきた密教、曼荼羅などの研究を独自に行なっています。

それが何かの役に立っているかと訊かれると、正直誰かの役に立っていることはないでしょう。社会に貢献しているということもありませんし、稼ぎにつながっていることもありません。しかし、自分の成長、自分が目指す目的地に少しずつ歩んでいるとは思っています。

ただ、これは身近な人の支えあってことできていることで、私はそのサポートがなければこのような生活は送れなかったでしょう。今自分が誰かのために行動できないこと、また社会の役に立っていないことが非常に辛く、悔しい気持ちになります。

このような病気になって気づかされたことは、「理解して支えてくれる人がいることの幸せは何にも替えられない」ということです。

今は普通に働くことすらできない状態なので、普通に生活できて働けることの有り難さをこの数年いやというほど感じさせられました。

何の役にも立っていない現状の私を、嫌な顔一つせずいつも支えてくれている家族や愛方にはもはや感謝しかありません。そんな人たちに私は何もしてあげられないうえ、社会に貢献できないことが悔しくて仕方ありません。

この感情が心を満たしてしまうと、私が存在する意味は?という考えが頭を巡り、存在意義のない自分は生きている意味がないと思ってしまい、家族や愛方、周りに迷惑をかけて生き続けるくらいであればいない方がよいと思うことが少し前まではありました。

しかしながら、ある言葉をきっかけに私はそのようなことを考えなくなりました。それは私を支えてくれている相方が言ってくれて言葉でした。

「他の人がどうとか社会がどうとかじゃなくて、私があなたを必要としている。どんなに大変でも、仕事が忙しくても、世界で一番心が優しいあなたの隣が私の帰る場所だから。だから一緒に頑張ろう?」

この言葉がなければ、今も私は以前のように自分の存在意義、価値というものを考え続けていたでしょう。祖父のような皆から慕われる存在になりたくて、誰かの役に立ちたいと、誰かの役に立たなければならないと思い続けていた私はその考えを止めることはなかったはずです。

また愛方に助けられてしまいましたが、これも祖父が言っていた多くの人から学ぶということの一つだと、今となっては思うようになりました。

今はまだ闘病の真っ只中であり、私ができることは非常に少ないですが、これも私の行先にある苦難の一つなのでしょう。病気に限らず、苦しい思いをしている人は世の中に数え切れないほどいます。なので、皆苦しいことを乗り越えて生きているのだと、今では思えるようになりました。

この先、どれだけこの病気と闘う日々があるのかはわかりませんが、祖父から教わったことを心に持ち、これからも前向きに歩む努力をしようと思い、この記事を書くに至りました。

ここまで読んで下さった方々、本当にありがとうございます。おそらく相当読みにくかったことでしょう。ご容赦いただけると助かります。

このnotoという媒体で最初に書いた記事がこのような内容で非常に申し訳ありません。今後の記事については私のこれまでの経験や私が日常で感じたことなど、明るいものを綴る予定です。

もしこの記事を読んで下さった方の中で、興味を持ってくださったり、今後も私の書くものを読んでみたいと少しでも思って下さった方は是非読んでいただけると嬉しいです。

最後に、少し間で私自身の経歴が抜けていたので追記しておきます。

私は大阪の枚方市というところで生まれ、その隣の市である交野市という場所で育ちました。大阪の中でも比較的田舎で自然豊かな場所です。

地元の小中学校を卒業し、高校は京都の芸術専門高校で学びました。私の親は勉強よりも自分のやりたことを見つけてそれに打ち込んで欲しいという教育方針だったこともあり、音楽や絵、スポーツ、格闘技から料理まで色々なことをさせてもらいました。

中学高校時代は悪い方向へ行ってしまい親にはたくさん迷惑をかけてしまいましたが、両親は「それもいい経験だったと思えばいい」と今では笑い話として話してくれています。

大学は一回生の冬で中退しています。自分のやりたいこと(作家になること)のため、働きながら執筆活動をしたと親に頭を下げて、社会へ出ました。

祖父の言葉通り、色々な仕事をしながら色々な人と関わり、色々なことを学びましたが、二足のわらじ生活で睡眠時間を削ったことと、最後の職場での過重労働、そして上司からのパワハラもあって私は精神を病みました。暗い話は先にしていますので、ここでは省きます。

他に私のことというと、祖父含めうちの家族は生き物好きで、家ではたくさんの生き物がいました。そのお陰で今でも生き物好きが爆発しており、今うさぎ、猫、鳥、昆虫を飼って毎日癒されています。

尊敬する作家や人物は「司馬遼太郎先生」「西尾維新先生」「養老孟司先生」です。

音楽も大好きで、4歳からピアノ、小学生高学年くらいからギターをやっていました。バンドもたくさん掛け持ちして、中学生では吹奏楽部も掛け持ちでやっていました。ちなみにフルート、ピッコロ吹けたりします。

ピアノは16歳までヤマハ音楽院でクラシックをやっていましたが、コンクールで何度も入賞を逃したこともあってジャズへ転向し、18歳までジャズを学びました。

勉強は、それなりにちゃっかりやっていて、中高共に学年席次は6位〜10位の間をキープしていました。

私のことといえば、あとは十代からバイクに乗っていて、今でもバイクや車が大好きです。

色々と好きなこと、やってきたことが多いのはやはり祖父の影響が大きいからだと思います。どのようなことからでも学ぶことがあると私は思っているので、これからも色々な経験をしたいと思っています。

長くなりましたが、今回の記事は以上です。

最後まで見て下さった方々には本当に感謝致します。

これからも少しずつ更新していきますので、よろしくお願い致します。


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