映画自評:安部公房は現代を見越して書いていたのか「箱男」。それとも永遠の普遍的問題なのだろうか。
「箱男」を観てきた。(原作要約は以下)
阿部公房原作だ。
シュールな映画にも関わらず平日の昼間でもお客さんはそこそこ入っていた。
ポップコーンとコーラを手に館内に入ったがこれ程マッチしない映画はない。何故この映画でポップコーンを買ってしまったのだろう。w
ボク的な理解としては、存在(アイデンティティー)と居場所の映画(小説)なのかな、と。ま、それぞれの見方、感じ方があっていいのだと思うし、どれも間違いではないのだろうが。
最後の方で病院を段ポールで塞ぎ大きな箱に見立て安心したかのように見えた主人公も、一端「内」に取り込んだ女性が「外」に出て行ったことで「箱」の外に出ていき女性を追いかけていくうちに多くの「箱」に出合うことで気付くのは、誰しもが「箱」の要素を持っていただけに過ぎないということではないのだろうか。
引きこもりや、
パソコンオタクや、
チョットしたこだわりを持って世間を見ている人からすれば、自分が「箱」に入っているようなモノだろうが、実は多かれ少なかれ、実態の差は色々あれど皆が「箱」であり、決して交わることができないのだ、と。
ただ、それに気づくか気づかないかの差があるだけ。
認識の差。
昔はまだなかった概念「マルチバース」をもってこの映画を見れば、理解しやすい。なんて便利な!
ただ、「箱男」たるや都会の条件が必須とはいかに!
つまり何が言いたいかといえば、田舎では成り立たないのは、見られたくないわけではない、という不条理。見る人がいないところでは「箱男」にはなれない。なっても仕方がない!
商店街では、誰からも無視はされていたが、街にいるという認識はされていた。この絶妙のバランスが「箱男」には必要だったのだ。
そして、「箱女」は存在しない。
女性は見られたい本能があるからだ。
折角思いついた病院を大きな箱に見立てるというアイデアもいとも簡単に出ていってしまう。
ここに認識の在り方の男女差を示しているのではないだろうか。
映画内容と関係ないところでいたく感心したのは、女優さんの横たわる姿の美しいこと!
「美しき諍い女」以来ではないだろうか、横たわる人で感動したのは。
(諍い女では横たわっていたっけ?)
発達障害の子がクールダウンするスペースをこの映画のことを観て思い出した。
この箱はそれ以外でも需要があるかもしれない。映画の宣伝で映画館にソックリな「箱」が置いてあったが、強度も良さそうだし売れるかもしれない。自分で作れ、って話だけれど「強度」を出す工夫はメンドくさそう。
部屋に一つパーソナルスペースがさらにあってもいいかな。w